以上は>>253に追従していますが、次からは異論です。

国語教育に場面を移すと、話は変わります。
たとえば多田のについて、アクロバティックな連想だとしても、
その文章に内在する論理のようなものはあるはずです。
内在的にも破綻した文章は国語教育では使用されないでしょう。
受験などの評論読解のテストでは、その内在する論理を見つけることが求められています。

ここで、道徳じみた文を読むことと、
それによって道徳教育をおこなうこととを区別できます。
しかし、この2点は関連していて、教師が教訓を明示的に言葉でいうにしろ、
生徒が勝手に文章から印象づけられるにしろ、道徳じみた文章を読むのであれば、
道徳教育を受けたことになることもあるでしょう。
この「関連している」という意味では、
「形式の練磨とは、日本的道徳との対峙だ」ということに賛成です。

ただ、そういったものも含めて、いろいろな文章を読ませるのもアリではないかと思います。
多田のものであれば、受験国語なら「生命に過剰の意味を見出すパターンの文章」として、
ある程度問題の型にハメていけるものですよね。
そういった感じで、道徳じみた文章も、一歩引いて読むことにより、
ただ「こういった論理をもつ道徳的な文章もあるのだ」と学ぶこともできるのではないか。
明治期文語文なんか典型的で、永井荷風だからこういったパターンだろうと予想がつきます。

そういった訓練を重ねるために、むしろ道徳じみた文章も入れるべきだろうと思います。
やはり問題は教師で、教師がそれを一歩引いた目線で教えるか、
そこから無理やり何か教訓を学ばせるかですよね。

もちろん、前提として、国語教育である以上、
内的な論理すら破綻した妄想にすぎないものは除外しますよ。