モスクワが戦闘状態になっていた間、ソ連は極東から歩兵15師団、騎兵3師団と戦車、航空部隊を移動させ、
西方戦線の対独戦力を強化した。中国の長引く抗戦は日本を拘束し、ドイツが企んだ日本とのソ連挟撃の陰謀は破綻した。
これについてソ連のジューコフ元帥は、「我々が最も苦しんでいた時期に日本はソ連へ侵攻しなかったが、
中国は血の海となっていた。客観的事実をいくらかでも尊重する人はこの争いようのない明らかな事実を
考えずにはいられないだろう」(ジューコフ『中国での使命』、新華通訊社、1980年版、38ページ)と述べている。
http://japanese.china.org.cn/japanese/191409.htm

 31回の空中戦で、フライングタイガーの志願者は5機ないし20機のP-40型戦闘機をもって217機の
敵機を撃墜し、みずからの損失はわずか14機だった。それ以後、「中国空軍所属の中国援助アメリカ
志願航空隊」はフライングタイガーのマークを使い始め、そのサメの頭の形をした戦闘機も世に名
を知られるようになり、「フライングタイガー」というニックネームも知られるようになった。
抗日戦争が終わるまでに、フライングタイガーは敵機を2600機撃墜し、積載量223万トン相当の船舶、
軍艦44隻、100トン以下の内陸河川の船1万3000隻を撃沈するかあるいは大破させた。また日本軍将兵
6万6700人を撃ち殺した。フライングタイガーの隊員のほとんどは中国政府から賞を授与された。
10余人の飛行士はアメリカ、イギリス政府から飛行十字勲章を授与された。
http://www.china.org.cn/japanese/170095.htm