赤毛のアン第51章「マシュウ・カスバート驚く」
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駿のしたいようにさせたら、アンの想像か夢の中で飛翔しながらアボンリーを俯瞰するシーンが出てきそう >>904
うん、多分気のせいだと思う
原作者のモンゴメリは牧師の奥さんだったから
スピ系はキリスト教から見たら偶像崇拝として一定度距離をとっていると思われる >>900
ペリーヌといっしょにすんな しつこい
早く巣に帰れ アンの作画と比べたらペリーヌのそれはゴミだな
アンの後じゃ見るに堪えない 作画だけではないけどね
アン以外は全部子供だまし
無理無理童心に返っても完走は無理 ペリーヌは目と鼻と口がついてりゃいいみたいな作画
へのへのもへじ >>910
ラスカルもそんなかんじ
ラスカルだけが突出してかわいく丁寧に描かれて人間は雑 マシュウのプレゼントしたふくらみ袖のドレスの一連の作画はすごく良かった
制作側が声優もスタッフも一丸んとなって
「良いものを作りたい」って言う作品に対する愛と気迫を感じる >>913
アンの晴れ姿に、マシュウはくわえていたパイプを落とし、マリラは皿を洗っていた手を止めてもう一度振り返る
技術も高いけど、それ以上に作り手の情熱を感じる
やだ、思い返しただけなのに眼から熱いものが 「ほらほら、洋服が涙で汚れちまっても知らないよ。せっかくマシュウが買ってくれたんだから大事にすることだね。」
成長期のアンだから結局ワンシーズンしか着れない贅沢品だけど
アンにとっては一生忘れないマシュウとの思い出になったね 名シーンだよね
制作側が子供の感性に合わせて作った作品ではなく
いい大人の自分たちの感性で感動できる作品を作っているから
自ずと作っている人たちも力が入るよね
47話は声優たちが泣いてしまって何度も取り直したと言うのは有名な話し
そんな作品を作り手が愛さないわけないよね これがその、お、お前へのクリスマスプレゼントだよ(袖の膨らんだドレスを取り出して見せるマシュウ)
・・・・・・(ドレスを見つめて呆然と固まるアン、マシュウを見上げる)
うわああ・・・(マシュウを見つめるアンの表情が引きつる、もう一度ドレスを見つめる)
うわああ・・・マシュウ・・・(マシュウを見つめるアンの目にたちまち涙が溢れかえる)
んん?・・・どうして?どうしてアン?(予期せぬ反応に戸惑うマシュウ)
気に入らないのかね・・・そうさのう、そうさのう・・・(落胆するマシュウ)
気に入ってるのよおう!!ああっ!!マシュウ〜!!(喜びを爆発させるアン)
・・・・・・(しばらく咽び泣くアン)
ホントに素晴らしいわあ、ああっ!何とお礼言っていいか分からないわ!この袖をみて!(喜びをマシュウと共有するアン) 一つ一つの作画表情が豊かだよね
声優陣も作画がいいと「それなりの演技をしなきゃ」ってなるしね
何度見ても飽きないよ アンは マシュウはアンが飛び跳ねて喜ぶ姿を何度も想像してたろうね
それが泣き出しちゃったという(笑 そういうところではアンはもちろんマシュウ、マリラ3人が主人公と言っても過言ではない
一つ屋根の下の物語 アンがホワイトサンドホテルのチャリティーコンサートから帰ってく月夜の晩にも同じ事を言っているけど、人間の幸せなと言うのは、持ち物や財産に関係ないよね。なんでもない日常で互いに愛し合う関係があるっていうのが本当に豊かな人生だと、アンは教えてくれた。 >>923
釣り?
超難関の奨学金を得てタダで勉強できるはずだったけどマリラとグリーンゲイブルズのためになげうったんだよ
しかしそれでも勉強は続けていけるし幸せだ、と言っている >>924
お金のせいでマシュウが死んで奨学金が無駄になった 自分なんかお金があれば人と関わりたくないしそれが幸せ 奨学金は譲渡できないんだから絶対に辞退したらダメだろ
もらえなかった人に失礼 >>923,925,926
キリスト教徒の死生観についてあまりにも無知
キリスト教徒は生まれ変わりとか輪廻転生を信じていいないやそう言う仏教的死生観を持っている人々は世界でも少数派
ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も人間は一度死ぬ事と、死後に生前の裁きを受け、永遠の天国か永遠の地獄に振り分けられると信じている。
つまり現生は、死後の永遠の世界に比べたら20歳で死のうが100歳で死のうが一瞬に過ぎない。
現生は、次に来る永遠の生の備へに過ぎない
アンもマリラも、マシュウとの別れは永遠のものではなく一時的なものに過ぎず、いつか必ず天国で再開すると言う確信はあるだろうから、彼らに取ってマシュウの死は絶望的なものではない
因みに彼らが天国に行く確信があると言うのは、教会に通う敬虔なクリスチャンだったからと言うわけではない。一重に神の子イエス・キリストが、自分の罪の身代わりに死んだ事、死んで墓に葬られた事、死して3日目に甦った事、これを福音と言うが、この福音をただ真心から信じた信仰による。決して献金額とか教会に通っていたとか行いには関係ない。この点ががキリスト教がイスラムやユダヤ教と決定的に違うところ。
このくらい知っているのはキリスト教徒じゃなくても一般教養の範疇 でも駿も高畑もアン嫌いなんでしょ?
嫌いだから思い入れもなく原作に忠実にすることに専念したとか
彼らに嫌われたおかげで余計な演出をしなかったので神作になれたのかな 三千里はどんな悪玉が出てきても品性下劣な主人公のせいで悪玉がくすむ 私はトムソーヤとか男の子向けの冒険やバトルがクソつまんなく感じるから
アンはすごく面白いと感じる 高畑は嫌いまでとは言ってないけどアンの心情を理解できずに淡々と原作をアニメーションにしただけのようだ
駿は途中で我慢できず投げ出したんだと 三千里は初回だけで終わって良かったんじゃねと思う
それぐらいに初回は素晴らしかったがその後は残念祭り
アンは最終話まで神回の連続だったのに トム・ソーヤは前半でギブアップした
母親も「面白くないわね」と 私はうまく言葉に表せないし、名作全部は見ていないけど、フローネも若草も好きで昔から見てたけど、アンにはやっぱりかなわない。
引き込まれる度合いが違う。
アンはアボンリー(広く言ってPEI)という限られた空間の中だけであれだけの珍事件や感動ストーリー、そして美しい絵とこまやかに描かれた心情の描写が素晴らしい。
どの回を見てもおもしろいんだもん。 駿は物語に壮大さを求めるからそりゃ犬猿の仲
ただ離れていても互いに思えるものはあったんだろうな マルコはほんまクソガキやな
作り手が馬鹿ですわ
アンだけが確変だったのかも まぁアニメのトムソーヤはそこまで面白くはなかったね 確かに他の名作劇場も良作、だがけなしてるわけじゃないけど、アンには遠く及ばない
アンだけが名劇20数作の中で同列に語ることができない、浮き上がって、他と隔絶した存在に思える
人物・場所・時代などによって形成される作品世界はそれ自体のまとまりを持っているが、
どんなによくできていたとしても、やはりつくりもの、明確に現実との間がある
しかしアンの場合、その世界が、描かれてないところまでずっと広がり続け
それはどこかで継ぎ目なくこの現実につながっているのだと、無意識の内に自然に感じられることが素晴らしい 心のひん曲がった奴にはアンの良さの半分もわからんだろうな
金がどうのとか繰り返しコピペの基地外なんかには特にね >>928
たぶん日本人の99%が知らないと思いますよ・・・ >>941
イスラム教徒とキリスト教徒だけで世界人口73億人の半分を占めているんだぞ
宗教に無知なのは危険
ミッション系の学校出た奴ならこのくらいは知ってるよ 高畑はアンの原作の面白さが理解できなかった
こっちの説の採用がスレの総意でいいよね
やっぱりちゃんとした出版物に記されているのが決定的 確かに三千里は糞つまらん
赤毛のアンと違って名前だけが一人歩きしてる 俺が今見て嫌であざといと思うのはセーラだけかな、展開もオチも下衆いというかね
アンの上品さを見習えと思う 文学、絵画、陶芸・・・
文化にはどれも旬の時期というものがあり、
日本映画の黄金時代は昭和30年代、てことで評価が定まってるが
日本テレビアニメの黄金時代は昭和50年代が中心だと言いたい(広目にとると70〜80年代)
多分、異論はないだろう
その中のでも、一つの頂点に立つのが "アン"である
名作劇場シリーズとしても飛び抜けて異次元の作品だが、
それどころか、20世紀に日本が産出した、最も価値ある文化作品の一つだと断言しよう
無形文化財の国宝に指定させたいくらいだ 高畑はアニメ作りの達人だが
アンのことは把握しきれてない感じだったよ
その達人が用心深く要素を拾っていったからここまで良い作品になった
アンを見切っていたらここまで原作通りに作ってなかった マルコはテンプレのイベントをこなすだけだよ
アンのような魅力的なエピソードが皆無 アンが名劇から浮いているのは認める
世界名作劇場に駄作が多いのも原因だが
アンのクオリティの高さはずば抜けている
同列に語れる作品は皆無 このアニメって偉大だよな
作画が50話通してほんとど変わらない
この前に観たセーラは作画によって顔がすげぇことになっとる やれやれコピペ基地外が出没か
この板も潮時 ちょっと離れるか 新田と西田は共に下手だと思う。
でも、新田のほうが超人的に下手くそなので、面白い。
声もぶりっ子っぽさにアレルギーさえなければかわいい。
西田の声は下手なだけでかわいくもない。 下手なものを単に下手だと言うのはただの素人。
下手なものの中から味わいを見出すことが出来る者は玄人。 ホントに俺は他のアニメ板も覗いてるが、ここほどすぐに荒れる板を知らないんだよ。
とりあえず2chでは、前期ファンの方が人格レベルが低いのが多い。
作品の総合的な質は前期の方が高いと、俺も思っているけど、
ファンの質はそれに反比例するのは、いつ見ても面白い現象だと思うよ。 まったくアン信者は荒らしばかりだな
ロミオファンの爪の垢でも煎じて飲みやがれ 高畑監督が原作読んでないわけないだろ。東大の仏文出て翻訳してた人が
多分英語でも読んだと思うよ。その上で男の自分には感覚として理解出来ない世界ってなったんだと思う
アンがもっと孤児特有の複雑な性格の人間でそこから派生するトラブルなどが多い物語だったら高畑も共感出来たのかもしれないな >>956
誤解しないで
一部の基地害が荒らしてる
参考になる書込みあるからromしてたけど心が汚染されるからあたしも離脱しますーす*\0/* 744 :名無しか・・・何もかも皆懐かしい:2008/08/24(日) 16:49:57 ID:???
ホントに俺は他のアニメ板も覗いてるが、ここほどすぐに荒れる板を知らないんだよ。
とりあえず2chでは、前期ファンの方が人格レベルが低いのが多い。
作品の総合的な質は前期の方が高いと、俺も思っているけど、
ファンの質はそれに反比例するのは、いつ見ても面白い現象だと思うよ。 ここにもう信者はいないよ
とっくに見放してる
再放送で群がってきたニワカが「高畑はアンを理解できなかった」と騒いでいるだけ 中途半端な知識を振り回してマウント取り始めたら終わり。 長文さんとコピペさんの自演でスレ伸ばしてるだけのような気がするから >>943
それならば日本ではミッション系より非ミッション系の学校のほうが圧倒的に多いんだから
>>928の「このくらい知っているのはキリスト教徒じゃなくても一般教養の範疇 」というのは無理があるよ >>928
そうした考え方でいうなら、グリーンゲイブルズだってアンやマリラの持ち物であり財産なんだから
売り払おうがそのまま住み続けようが彼女らの幸福には一切関係ないことになるな
グリーンゲイブルズなしでもなんとか生活していく目処は立っていたんだし
マシュウの思い出が染みついていることなんてキリスト教の信仰からすれば何の意味もない
(家屋という物体にそうした価値を付け加えるのは下手すりゃ偶像崇拝につながってしまう)
でももちろんアンもマリラもそんな風には考えない
要はそこまでガチガチにキリスト教的な価値観で生きてるわけでもないんだわ
彼女ら(おそらくはアボンリー住民の大半も)にとって大切なのは地域社会で円滑に生きていくこと
極論すれば、教会に通ったりお祈りしたりすることも社会の一員としてのたしなみ、手段のようなもの 良い終わり方でよかった。
ただイチャモンを付けるなら。
「私の目の事は黙っていておくれ。噂の種になるのはゴメンだから」
と言うマリラの気持ちは理解するけど
アンが家に残る事を決めた時点で本当の事を周りに言うべきだったんじゃないかと思う。
アンが奨学金を辞退したら嫌でも噂になるんだし
「アンがそうなったのは女が学問をする事に理解が無いマリラのせい」
なんて言われるかもしれないし
何よりアン自身を批判する人もいたわけだし
そこだけ少し気になった。 その頃には周りの人も認める文学に理解のあるマリラになってた思うけどなぁ >>966
説明するのがめんどくさいから、わかりやすく「ミッション系の学校」と言う括りをチョイスしただけ。別にミッション系に限らずこれは一般常識。
決定的な事件が2001年の911同時多発テロ。あの事件を境に、宗教イデオロギーに対する無知は危険だということが日本においてすら意識されるようになった。もちろんそれ以前でもインテリ層では、アブラハムの一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など旧約聖書にルーツを置く宗教の総称)についての基礎的な理解はあったが、近年、台頭するイスラムテロが頻発するようになって、日本の報道や一般書籍、また池上彰などの解説者も、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教の宗教原理を解説するようになった。
別の所でも書いたけど、73億人の半数が所属する宗教に無知というのは事実。G7の日本以外の6カ国はキリスト教国。韓国では実に国民の40%がカトリックかプロテスタント。中国ですら、共産党員を上回る一億人以上のキリスト教徒がおり、中国国内の最大セクトとになっている。
「自分が知らない」と言う事を基準に考えるのはやめた方がいいと思う。少なくとも、否応なしに「国際化の中の日本」を意識せざるを得ない昨今では、好む好まないにかかわらず、世界情勢に多大な影響を与えている宗教原理を知らないというのは、危険以外の何者でもない。アメリカの大統領選挙なんかも、アメリア人の聖書観や世界観が強く影響されているし。
特にアンのような欧米の文学作品、またはそこから派生したサブカルを楽しみたいと思うのなら、その根底にあるキリスト教原理、もっと言うなら聖書的世界観や原理を、さらっとでも知っていないと半分もわかんないと思う。
因みに日本では、人類や生物の起源として、進化論は証明された科学的事実であるかのように、当たり前の事として受け入れられているけど、これは、今まで1度も証明されたことのない「仮説学問」に過ぎない。前述のイスラム教やキリスト教を信奉するほとんどの人は、世界の成り立ちや人類の起源について、旧約聖書の創世記にある通りの「創造主による創造」を信じている。
「日本の常識」は「世界の非常識」であることを心得ておくことだね。 >>967
やれやれ、人生哲学が浅いね。
この物語は「金銭と幸福は何の関係もない」というイズムがそこかしこに散りばめられている。
アンがシャーロットタウンのミス・ジョセフィーン・バリーの家に泊まりがけで遊びに行った時、ミス・バリーが、アンとの別れ際に呟いたセリフ覚えてる?
「あんな子を手元に置いておくことができたなら、私の人生ももっと幸せだったろうに」と
また、ホワイトサンドホテルのチャリティーコンサートの月明かりの帰り道のアンのセリフも然り。
どんなセリフだったか細かくは覚えていないけど、アンは、ダイヤモンドや絹のドレスで着飾った金持ちたちを揶揄して
「豊かな彼らは幸せそうに見えない」と言った。
その裏返しは
「素朴な田舎暮らしの美しい自然や優しい人間関係に囲まれている私たちの方がよっぽど幸せだとは思わない?」と言うこと。
ミス・バリーは金銭の不自由はなかったが、愛に満ちた関係性には恵まれなかった。
あのコンサートで着飾っていた金持ちたちも、観察眼鋭いアンによるなら、幸福とはかけ離れているように見えた。 >>967
(続き>>972)
つまりここから読み取れる教訓は、
「経済的に貧しくとも幸福な人生は可能だが、愛に満ちた関係性がなければ、どれほど金銭があっても、幸福な人生は不可能だ」と言うこと。
こう言う感覚は若いうちにはわからない。おそらく歳を取ればとるほど効いてくる。ミス・バリーのようにね。
ミスバリーの心の声を想像すると
「私は何も不自由なく生きてきたけど、いったい私の人生のどこに、無償の愛や信頼関係があると言うのだろう?私は金銭には豊かだが、本当に価値あるものをロストしてしまったのかもしれない」と言う具合になる。
これは「金銭と人間の幸せは関係ない」というモンゴメリーの人生哲学であり、つまりそれは聖書的人生訓なんだよ。
当然モンゴメリは、
"一切れの乾いたパンがあって平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。"(箴言17章1節)
とある旧約聖書の一節を知っていただろうからね。
だから、アンが拘ったのは「グリーン・ゲーブルズ」という代替可能な農場のためではなく、「マシュウとマリラのグリーン・ゲーブルズ」と言う関係性からくる代替不可能な場所のために拘ったの。かと言って、奨学金を諦め、グリーン・ゲーブルズにとどまることを決めたのだって、あくまでも手段であり目的ではない。目的は何かといえば、自由が効かなくなるマリラのそばにいて助けること。愛に基づく関係性だよ。
グリーン・ゲーブルズが偶像なんて取り方「私は無知です」って自己紹介しているに等しい。
カスバート家や地域の宗教観が形骸的なものであるとか、現世と来世云々とかにも、突っ込みどころ満載。気が向いたらまた書くわ >>969
良くない事はすごいスピードで噂になるからね。
奨学金辞退というアンの常識外れの行動を見た人なら
「最近のマリラは学問に理解があると思ったけどやっぱり・・・」
ってなる人も少なくないんじゃないか。 >>974
まぁフィクションだしwと割り切ろうww >>973
アンがマリラやマシュウ(更には地域の住民)との関係性を大事に考えているのは当たり前だ
むしろそれこそが何よりも大切なものと考えていることは間違いない
信仰さえそのためのツールとして機能しているフシがある
もしキリスト教の教義どおりに、
死後の永遠の世界のほうが大切で現世などその備えにすぎないと本気で考えているのなら
既に死んでしまったマシュウとの絆に必要なのはただ一つ「信仰」のみであって、
そこにグリーン・ゲイブルズという家屋を介在させる理由は全くないことになってしまう
代替不可能というのは当事者の感傷であって、宗教的には家屋もこの世の物体の一つでしかないから
でもアンもマリラもそうは考えない
家屋や遺品といった物体にマシュウへの思いを重ねるのは疑いもしないほど当然のことで
そういった情緒をこそ大切にする
そこがガッチガチのキリスト教的な価値観や倫理観メインでこの物語を語れないところ
(要素の一つではあるけどね) MX
マシュウの膨らんだ袖考察ヤバかったw
バグパイプww アンみたいに活発で人付き合いを好むやつの幸福など理解不能 マリラのツンデレシーンは多いけど、この膨らんだ袖関連のツンデレぶりが一番好きw >>979
悪いけど言っていることが論理的に破綻している。
アンが「マシュウとマリラのグリーン・ゲーブルズ」を大切に思うことと、
永遠の天国を信じていることがなぜ矛盾すると思うの?
現世は、永遠の天国への備えの期間に過ぎないと信じる信仰が、
「アンとマシュウを結ぶ絆は信仰だけで、グリーン・ゲーブルズを介在させる理由がない」
って言う飛躍した論理にどうしてなるのかわからない。
自分で論理的に説明できる?
レス主も、多分あと100年後は生きていないよね?ほぼ確実に死んでいる。
いや、10年後、5年後、それどころか明日だって確実に生きている保証はどこにもない。
死は万人に平等に訪れる。
それじゃ「どうせ俺は死ぬんだ!」ってテキトーにヤケクソに生きてるの?
そうじゃないよね?どうせ死ぬことをわかっていても、ほとんどの人はベストな人生を送ろうと努めるよね?
永遠の天国を信じる信仰が、人生をナゲヤリにしたりテキトーにするわけないではないし、現世での思い出や大切なものを蔑ろにするわけないじゃない。
むしろ時間が限られているのだから、現世を大切に、意味や目的、価値のあるものにしようとするモチベーションになる。
ちょっと先に進むまえに
現世は、永遠の天国への備えの期間に過ぎないと信じる信仰が、
「アンとマシュウを結ぶ絆は信仰だけで、グリーン・ゲーブルズを介在させる理由がない」
になるのかわかるように説明してくれない? コンサートのプログラムにある「カツジン」ってなんだ? >>984
活人画の場面で流れるBGMということでは?
ステイシイ先生の発案で発表会やった時に活人画のプログラムがあったはず そこはやはりキリスト教の「信仰と希望と愛」で締めくくったわけだ
アンは希望かな? >>983
たとえマリラが当初の計画どおりグリーン・ゲイブルズを売り払ってリンド家に住むようになったとしても
キリスト教徒として正しい生活をすること(神を信じ感謝の祈りを捧げ、人々を愛し、節度を守り、
してはいけないとされることをしない等々)はそれまでと同様に実行可能だから
そもそもマリラがグリーン・ゲイブルズを手放したって、そうした神への信仰があるかぎり
「人生をナゲヤリにしたりテキトーにしたり」「ヤケクソに生きてる」ということにはならない
説明終わり
赤毛のアンを読むにあたってキリスト教の観点を最重要視すべきだと主張するならこうなっちゃう
でもそんな教条的なんじゃなく、もっと俗世的な感覚があるからこの物語は面白いんだよ >>987
答えになってない。
グリーンゲーブルズを手放さなくても、
キリスト教徒として正しい生活を実行することは可能だが?
なぜ永遠の来世を信じる信仰が、
グリーンゲーブルズを介在させる理由にならないのか聞いているけど?
こっちの主張は
「マシュウとマリラのグリーンゲーブルズ」をアンが大切に思うことは、アンのキリスト教信仰に合致すると言ってる。
下の>>979の文章、相当分かりにくい文だけど、
要約すると「キリスト教の来世信仰の教義を信じていたなら、アンがグリーンゲーブルズやマシュウの思い出を大切に理由にならない」と言う根拠のない勝手な決めつけがあるのだが、
それに対して「キリスト教の来世信仰は、アンの現世をナゲヤリにもテキトーにもしない」「マシュウとマリラのグリーンゲーブルズを大切にする」と答えている。そもそもこれは、こちらの主張だが?
再三言うけど、
なぜアンが「キリスト教の来世信仰の教義を信じていたなら、グリーンゲーブルズやマシュウの思い出を大切に理由にならない」と勝手な決めつけになるんですか?と尋ねているんだけど。
>>979
> もしキリスト教の教義どおりに、
> 死後の永遠の世界のほうが大切で現世などその備えにすぎないと本気で考えているのなら
> 既に死んでしまったマシュウとの絆に必要なのはただ一つ「信仰」のみであって、
> そこにグリーン・ゲイブルズという家屋を介在させる理由は全くないことになってしまう
> 代替不可能というのは当事者の感傷であって、宗教的には家屋もこの世の物体の一つでしかないから
>
> でもアンもマリラもそうは考えない
> 家屋や遺品といった物体にマシュウへの思いを重ねるのは疑いもしないほど当然のことで
> そういった情緒をこそ大切にする >>988
すまん、自己レス訂正
×「キリスト教の来世信仰の教義を信じていたなら、アンがグリーンゲーブルズやマシュウの思い出を大切に理由にならない」
⚪︎ 「キリスト教の来世信仰の教義を信じていたなら、アンがグリーンゲーブルズやマシュウの思い出を大切にする理由にならない」
予測変換が、誤変換を記録して変な文になった キリスト教の教義=死後の永遠の世界のほうが大切で現世などその備えにすぎないと本気で考えること
ここが間違っているから訂正しろと言いたいんかな >>988
>グリーンゲーブルズを手放さなくても、
>キリスト教徒として正しい生活を実行することは可能だが?
当たり前だろう
「キリスト教徒としての正しい生活が大事なら、それってリンド家にいてもできちゃうよね」と言って
「じゃグリーン・ゲイブルズにいたらできないっていうの!」と返されるとは思わなかったよ…
アンがマシュウとの思い出について大切に思うのも当たり前なんだが
「(キリスト教的価値観第一なら)マシュウとの絆に必要なのは信仰だけで済んじゃうよね」と言ったら
「じゃマシュウの思い出なんか大切にしなくていいっていうの!」との返し
このへんわざとやってるだろ
めんどくさいから結論だけ言うけど、キリスト教的世界観への深い理解なんかなくたって「赤毛のアン」は読み解ける
多くの宗教なり社会規範なりでなんとなく言っていそうな道徳観さえ知っていればそれで十分
もし「そんなんじゃない、キリスト教特有の概念が読解には絶対に必要なんだ」と主張するなら、
聖書のイエスの言動をそのとおりに実行する登場人物たちを想像してみればいい >>990
キリスト教徒にとって、現世は、永遠の死後への備えであると言うのは間違いない。
そして、その重要度においても、もちろん有限と無限の時間を比較するなら、無限の時間の方が重要。もっと正確に言うなら、無限の時間を、神と愛する故人のいる天国で過ごすことの方が重要と言う事( >>928 参照)
勘違いされがちなのだが、永遠の天国が待っていると信じることは、現世の人生をチャランポランに生きる動機にはならない。
>>979 の誤解は、
>もしキリスト教の教義どおりに、
> 死後の永遠の世界のほうが大切で現世などその備えにすぎないと本気で考えているのなら、
「アンがグリーンゲーブルズを大切にしたり、マシュウの思い出を大切にすることに整合性がない」と考えていること(※「」内は979に書いてる主張の要約)」
なぜこういう誤解が起きるかと言うと、現世の有限と、来世の永遠が、まるで別個のものであるかのように考え、有限と永遠の一体性や連続性を無視しているから。
実は、キリスト教(聖書)の言う永遠と言うのは、既にこの現世から始まっている。二つは互いに密接にリンクしてる。ってか一体。 >>984-986
ここで言っている「活人画」のモチーフになっている「信仰、希望、愛」と言うのは、新約聖書の中でも最も有名な箇所の1つ、第一コリント人への手紙13章からの引用。ちなみにこの章は、広く「愛の章」として知られている。この章の最後の言葉は次のように締めくくられている。
"こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。"
つまり、聖書は永続するものが3つあると言う。信仰と希望と愛だ。どういうことかって言うと、この地上の生涯で、時に人生は順風ばかりではなく逆風が吹くこともある。試練の嵐を避けることができないのが世の常。しかし、にもかかわらず、信じ、望み、愛したことは、かけがえのない宝物のように、いつか帰る天の故郷に永遠に刻まれると言う事。
現世の短い生涯は、永遠の来世に密接にリンクしていると言うのはそういうことさね。
アンが、奨学金を蹴って、グリーンゲーブルズのマリラのもとにとどまること決めたのは、アンが「愛する」と言う選択をしたことを意味する。( >>994 に続く) >>984-986
(>>993 のつづき)
じゃ、その「愛」とは何か?
キリストは、十字架にかけられる前夜、聖画でも有名な「最後の晩餐」で、弟子たちの足を洗って次のように言ったそうな
「師である私が弟子であるお前たちの足を洗ったのだから、お前たちも互いに足を洗い合いなさい。私がそうしたのはお前たちに模範を示すためだ。私はお前たちに新しい戒めを与える。互いに愛しあいなさい。私がお前たちを愛したように、互いに愛しあいなさい」
「キリストが愛したように」と言うのがミソ。ここで言う「愛」の定義は「キリストの愛」という事。キリストは人類への愛ゆえ、人間の罪を身代わりに背負って、十字架に死なれたと言われている。つまり生きている愛は犠牲がともなうということさね。そのような「愛」で、互いに愛しあいなさいと、キリストは弟子たちに教えた。
アンがグリーンゲーブルズに残る事を決めたのも、決して小さくない犠牲を払って「愛する」ことを選んだから。しかしここで重要なのは、アンは誰かに無理強いされてそれをしたと言うのではなく、自分の意思で選んだという事。愛が愛である所以は、自発的な意思に基づくから。
アンがレドモンド辞退の決心をマリラに伝えたときも「ああマリラ、あたしを気の毒だなんて思わないでね。あたし人に同情されるのは嫌いよ。第一その必要もないわ」なんて言えたのは、誰かのせいでそうなったのではなく、アンが自分でそれを選んだから。因みにキリストも、誰かが強いて彼に十字架を負わせたのではなく、自分でその道を選んだと言っている。自分で選んだのだから、被害者意識や自己憐憫なんかに陥ることもない。
つまりね、意識するしないにかかわらず、アンは極めてキリスト教徒的な行動原理に基づいて決断をしたという事さね。愛には犠牲がともない、自発的で利他的だと言う決断をね。
( >>995に続く) >>984-986
(>>994 のつづき)
アンが初めてグリーンゲーブルズに来た日、
「あの子が何かの役に立つとでも言うんですか?」とマシュウをたしなめるマリラに答えて、
「わしたちの方であの子の役に立つかも知れんよ」
と思わず発したマシュウのセリフも、極めてキリスト教徒的。結局マシュウが発した利他的言葉の通りに、誤って手配された女の子はカスバート家の養子になる。しかしこの誤った手配に、実は全能の神の思慮に富む配慮があった。結局この決定は、孤児の女の子を救っただけではなく、カスバート兄妹をも救う事となるのだからね。もちろんカスバートが、正確に言うならマリラ・カスバートが、マシュウの思わず発した言葉に反して利己的選びをして、女の子を孤児院に返していたなら、物語はこれほど感動的にはならなかっただろう。
先のわからぬ曲がり角を行くと、そこには放心するほどに美しい白い花の並木道があった。
人生とは先のわからぬもの。全能の神を信じているキリスト教徒とて同じ。不意に襲う悲しみや、意図せず臨む間違いを避けることはできない。そして、それらを無かった事にすることはできないだろう。しかしそんな不意を打つような局面でも出来る事はある。「信じること、望むこと、愛すること」これはできる。その選びの曲がり角の先にあるのは、あの歓喜の白い道。
「そうだ、それでも神がいる!愛であり善である神が!世にはいかなる曲がり角があろうとも」と言うのが最後のセリフの平たい解釈。
この物語はね、全編このモチーフで貫かれている。極めてキリスト教的であると同時に、これは非キリスト教徒にも適用される普遍的な真理であり人生訓。
築いた財はいつしか手を離れていく、肉体も滅ぶ。しかし永続するものが3つある。信じること、望むこと、愛すること。そして何者も、この選びをする者から、それを取り去ることができない。 >>991
議論が全く噛み合ってない。
聖書的背景や世界観ががわからないと、物語のある情景は見えないとは書いたが、それが絶対に必須とは書いていない。
誇張、論点ずらし。
深追いはしませんよ。
意図的にこちらが一貫して投げている問いに答えない理由はわかるからね。
もちろん、自由に自分の方法で作品を楽しんでくださいな >>984
そうそう「活人画」というのはね、
四角いフレームの中に生身の人間を立てて、
一つに絵画に見立てて楽しむ出し物だよ
映画が普及する前の時代の余興だろうね。 >>993
5ちゃんに聖人降臨www
いやでも言っていることすごいよくわかるwなるほど面白い アーメンと言って十字をきれば幸せになれるとか意味不明 このスレッドは1000を超えました。
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