【製造両数】151系車両 4号車【151両】
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昭和33年11月、国鉄初の電車特急として華々しくデビュー。
現在の特急型車両の基礎を築いた、151系車両について語りましょう。
(161系・181系も含めて)
前スレ
【特急こだま】151系車両【パーラーカー】
http://schiphol.2ch.net/test/read.cgi/jnr/1221233025/
【ビジネス特急】151系車両 2号車【こだま】
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/jnr/1231878032/
【製造両数】151系車両 3号車【151両】
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/jnr/1288173058/ 温暖な東海道・山陽で過ごした153系も1982年で引退しているから
国鉄の労働争議で十分な手入れをしてもらえなかったとことが大きいと思う。 >>576
でも紀勢線くろしおで使ってたら塩害でいっぺんにやられそう
天鉄局が激怒したから381系新製投入となったらしいが 151の補完として、臨時、季節列車の短編成運用に157が用いられたわけだから、151を短編成化する必要性は乏しかったのでは。
山陽新幹線博多開業後、地方線区でも特急増発となった頃は、151も157も老朽化し、183に代替されていったわけだが。 こだまでも当初120キロ運転する予定だったが色々問題があって110キロで落ち着いた
120キロ運転開始はヨンサントオから
静岡地区では未だに最高110キロを引きずってる
もしもこだまが120キロだったら東京〜大阪で6時間切ってた? >>580
130km出せるスーパーレールカーゴでも6時間切ってないんだよね。 >>581
130km/hで走れる区間はどこ?名古屋周辺? >>582
JR西日本エリアだけじゃなかったかな?つまり米原から西。
ただスーパーレールカーゴだと旅客列車と違って乗務員交代の運転停車しかないから
その分速い。 前の列車がとっとと待避線に入ってくれなければ減速信号=制限65を食らうし、
東海道本線は案外、R600〜1000クラスの曲線が多いので
一定以上は車両性能だけではどうにもならんところ。
こだまの時代は時速65キロの2軸貨車がゴロゴロ走っていたし、
停車の少ない特急車なのに主抵抗器を途中で増やしたということは
やはり曲線制限や信号を受けて高速から電制頻度が多かったのだろう。 151系は落成したばかりの頃PS16の開発が間に合わずPS13を付けてたが写真が見つからない
もしもPS13だったら110キロ走行中に離線しまくって2個付いてるとはいえスパークして架線が傷んで問題になってただろうな PS13を載せてるのは既にPS16が離線で大スパークを起こして壊れた代品だと思うけどなw そもそもPS16は本来なら101系試作の段階で完成してるはずだったのが遅れたので151・153系が初採用になったとか
101系が量産に移ってしばらくPS13搭載だったのはPS13の在庫処分だったのかも 鉄ピクの東武特集でDRCの思い出として
「どことは言わないが国鉄20系(151系)に参加できなかったところが
大いに力を発揮してくれた」って書いてあった。
言われてみたらこだま形は川車・汽車・近車の3社しか製造していないわ。 DRCはナニワと日車製。
東武は日車の蕨から豊川への移転(1971年)を機に日車への発注をやめ
東急車輛と富士重工に切り替えており、それ以前の東急製は熊谷線のキハ2000があった程度。 >>591
> モハ180-114・115はT車代用?
と言う疑問を発する時点で正解を知っているんだろう。 クロ150-3があった頃はパーラーカーとどっちが運用に入るのかが1週間前にならないと判明せず要問合せだった
「日によって展望車ではない日がある」と時刻表に注釈があってパーラーカーも巻き添え食らって1週間前販売だったので運任せともいえた >>593
この当時の指定券の一般向け発売開始は7日前。
これに合わせて運用を決めていた。
1か月前発売になるのは新幹線博多開業の頃だったかと。 同じ昭和33年秋登場の国鉄の新形特急。
結果的に増備終了まで
20系〜151〜161〜181電車は川車、近車、汽車
20系客車は日車、日立
という製造分担になっている。
どちらも突貫開発で、これ以上の共同設計にはできなかったのかもしれない。 パーラーカーはマルスに収容されてなかったのか?
4列にしか対応してなくてパーラーカーは2列しかなく対応できず座席数が少ないとあって手作業発券だったとか? >>595
日車は153系開発にも係わっていて、結構無理したとのこと。
RP153系特集より。 日車は20系客車やキハ80系が熱田、153系が蕨だったから
蕨工場の落胆は想像できるなw
それがDRCに繋がっていくと。 >>594
新幹線博多開業時点でも、みどりの窓口一般発売は、1週間前だった。
1ヶ月前発売になったのは、その10年先の東北新幹線上野開業前後だった筈。 53.10の時か55.10の時かどちらかじゃなかったか?
1980年12月号の時刻表だと一ヶ月前になってるよ 確認したが、一ヶ月前販売は、55.10からだな。
時刻表の表紙に『指定券―1ヵ月前発売に変更』の表記がある。
黄色のページには10月1日のみ10月15日分まで発売との説明があった。 >>576
湘南ライナーみたいなのがもっと早く登場してたら181系は2000年前後まで活躍している車両もあったかな?
185系が1981年デビューで37年経った今でも活躍している時間軸と合わせると、1958年デビューの181系は1995年になる
181系には13年で引退した車両もあったは >>604
13年どころかクハ180-1〜3は9年そこそこでなかった? >>604
185系は初期の新性能車の反省から耐食性を向上している。 山陽特急で運用されていた頃の181系の乗り心地って、
同じ山陽本線で運用されていた481系や581系と比較しても、
それほど遜色なかったのだろうか? 過走行で寿命を縮めたのが40%、初めての雪国電車で想定外の傷みをしたのが30%、
国鉄の現場荒廃で保守が乱暴だったのが30%ってところかな。
165系トップナンバーが生涯新潟で享年35だったから
大事に使えば分割民営化ぐらいは乗り越えられたはず。 >>608
初めての電車特急だけあってかなり知恵を絞ってたみたいだから遜色なかったんじゃない? 低重心で余計な交流機器や保護回路を積んでなかったので
走りは遜色ないどころが最も軽快で、岡山も宇田さんも扱いやすい電車だったと証言している。
山陽特急は急勾配を避けるかわりに曲線だらけの線形で表定速度が70キロ代から上がらず、
速度面では見劣りした。 >>611
廃止まで気動車特急だった「かもめ」が、山陽本線内で電車特急と負けない所要時間だったのが
印象的だった。
一方同時期まで気動車と電車があった「しなの」は所要時間の差が著しかった。
381系がカーブで減速しない効能だろうが・・ >>611
脈流が無いので、交直両用の特急型よりは扱いやすかったという声は
確かに雑誌か何かで目にしたことがある。 >>613
宇田氏の本だな、RFに連載したやつをまとめたもの。
脈流を平滑化する装置を介さないのでどうのこうの、じゃなかったかな。 >>565
今のJRは地域分割だから国鉄時代のようなタライ回しはやりにくなったからな。
だからJR東日本なんか、昔なら地方に回してたような古い車両は東南アジアに譲渡してるし。 >>616
それは東日本に限らず、JR他社でも。
ただ103系が東日本→西日本に、415系が東日本→九州に売却はあったな 181系と485系は車体そのものの高さが違い貫通幌が傾斜していただけでなくスペーサーを噛まして段差を埋めてたが写真が見つからないな
連結器の高さも変える必要があった >>618
サシ181⇒489はスペーサーを入れて床面高さを合わせたので、連結器位置を変更する必要があった。
その後は床面高さは変えていないので貫通路対応のみ。
181と481の連結面高さは同じ。ボンネット車の連結器カバーを見るとわかる。 最初の頃架線電圧が不安定でMGのフラッシュオーバーが多発した
変電所がしょぼい区間があったな
極めつけは宇野線で4M8Tとかあった 沼津─浜松は戦後まもない昭和24年の電化で、
金も時間もなく、木製架線柱を多用する有様だった。
先に電化するなら沼津─浜松か、米原─京都かで争われたが、
工業地帯を抱える浜松の陳情が上回り、静岡県下が先の電化となったので
戦後の混乱期でそういう仕様になってしまった。
さすがに変電所は手当されたが、木の架線柱はJR化後まで残っていた。 >>620
宇野線は電気機関車と電車列車で電気の奪い合いを
していたとか。
なにしろEF58あたりが力行すると電圧降下著しく1200Vを切ってしまう事も。 それでも山陽本線の全線電化より4年早く、昭和35年に電化され、
翌36年にいきなり151系が入ってきたのだから宇野線の優先度は高かった。
広島・九州方面の特急は、夜行20系、昼行がやっとこさキハ80系という時代。 151系は史上初尽くしで手探り感あったよな
史上初の新性能特急電車で史上初の110キロ運転対応とか
主抵抗器は最初高速走行でよく冷えると目論んで自然通風式にしたら徐行区間が点在してて風が当たらなくて冷えずに焼損事故が起きてしまい特急型での自然通風式は懲り懲りになった よく冷えるからではなく、停車回数が少ないから(101系に対して)軽装化したんだな。
ところが運転してみたら曲線制限や前の貨物が詰まったりで高速からブレーキを執ることが案外多く、
電制常用なので抵抗器の熱量が足りなかった。 そういや国鉄の新性能電車で自然通風式の抵抗器を搭載した例が他にあるとすれば、
地下鉄直通用の103系1000・1200・1500番台と301系ぐらいしかないからな。 >>621 沼津・浜松間に木の架線柱とあったので、151系高速度試験の映像見てみたが、試験区間はコンクリート架線柱で道床も整備されてたんだな。ダイヤ調整して、電力も優先配分したのかな。 >>626
105系も自然通風式
単なるコスト低減のため 動画見たけど、見た限りほとんど木製のような…
電車が通過すると架線柱がブルブル揺れてるw 山陽本線は全体的にぐねぐねしてて瀬野八もあるのでヨンサントオでもあまりスピードアップ出来なかった
151系は東海道線での走行に特化していて山陽本線での走行は性能的にも接客設備的にもちょっと無理があった
パーラーカーが閑古鳥鳴いて普通車に改造されたが窓が大きく乗り得だったが区分室が誰も乗らず朽ち果てていったとか そもそも山陽本線自体パーラーカーはおろか1等(G車)のニーズ自体少ないと思う
後年に寝台特急でB寝台のみのモノクラス列車が出現したり最近なら新幹線のひかりレールスターでG車設定がないというのも関西や西日本の「余計なものにはカネを出さない」という意識があるからだと思う 山陽筋は上級クラスの設定よりも普通車のレベルの底上げに力を入れてるようなところがある。
グランクラスを導入するぐらいなら普通車指定席を2列-2列にした方がいいというのがその例だしな。 割増料金でVIP対応も行うパーラーカーの採算が取れるのは、東京・大阪間位なんでは。
VIPはともかく、名古屋・大阪間など2、3時間位の移動では一般客はパーラーカーを利用しない。
6時間乗車する客が相当数いるから、パーラーカーの利用率が上がる。
山陽本線だと博多までの途中、岡山や広島で降車する客の比率が比較的高い。だからパーラーカーの利用率は低くなる。
東北本線のキハ80にもパーラーカー無かったしね。 そもそも東海道時代ってパーラーカーの採算取れてたのか? アレって飾りじゃないの?
一般人には近寄れない存在
採算とか考える以前に、大物政治家などが往来するために必要不可欠なモノ パーラーカーの客層って、政治家とか財界人ってあたりを想像するかも知れないけど、
実態としては、そのような方々は大半が飛行機利用だったようだ。
パーラーカーの最大の客層は、飛行機ではまとまった席数が確保できない、外国人観光客。
なお、彼らの利用区間はほぼ東京−京都と決まっていたため、山陽線転用後に空気輸送になる事は
事前にかなり予測してrていたらしい。 国内初の直動式ドアエンジン採用だった
TK100形ドアエンジンは特急型以外では455系のパンタ下位しか使われていない
モハ164-800番台もパンタ下だけTK100だった 岸信介は首相在任時に、デビューしたてのあさかぜの個室でお国入りしたというな。 こんなレベルの話のソースを求めてどうする。
151系スレだし。
登場時は20系か・・・ 散々言われてるけどパーラーカークロ151と20系のルーメットのナロネ20は何か似た者同士という感じする
どちらも3等級時代の1等の末裔みたいなものだし
庶民はいくらお金出しても利用不可能だったからね 【国連、20mSvから1mSvに戻せ】 線量20倍だと死者8千人が16万人に増加、人口減20万人/年とほぼ一致
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1540606609/l50
国連「女性と子供をフクシマに帰すな」 自民「内政干渉だ! 我々は選挙で選ばれたんだぞ!」 新聞記事検索で岸首相お国入りや首相動静などで検索すると鉄道利用もあった。
個室とは書いていないが、3段寝台や座席車を使ったとは思えない。 どうでもいい事だが、こだまデビューの60年前は、
まだ鉄道国有化前だな。
山陽鉄道が日本初の食堂車を登場させた、とか。 そもそも戦前の旧1等車自体東海道山陽以外では消滅していて
その東海道山陽線も国際連絡ルートの一部としてだから
その末裔のパーラーカーが東海道以外で賑わうわけないよな クロ151はどういうわけかクハ181よりも微妙に車体全長が短いんだな
クロ481も短かったがあれは先頭車化改造車の図面を流用して新製したため >>630
皇室の御用邸や避暑地として観光地で有名な軽井沢を沿線に持つ信越線だったら利用者あったんじゃないの?他に山陽線で余剰のサロやモハシも一緒に引き取って >>651
MAX8両に制限されていて食堂車も省略した(モハシの導入も諦めて定員増を図った)横軽で
定員の少ないクロ181を組み込むとは思えない。
東北の9両編成は食堂車付き、サロ⇒クロ1両のみ。
サロ2両だったのは、それなりの需要があったということで。
実現しても夏だけの需要で、軽井沢以遠はガラガラだっただろう。 3等級制時代の1等車すら軽井沢方面の列車に連結されてなかったから
旧1等車の流れを汲むパーラーカーの需要があったとは思えないな >>653
3等級制時代と言えばまだ碓氷峠がアプト式時代。流石にこの時代は必要無いかもしれないが、昭和40年代のレジャーブームではクロ181系は需要あったのでは?荒廃した山陽のクロ181とあさまのクハ181をトレードしてれば無駄な改造もしなくて済んだ訳だし 8両の中にそんな定員の少ない車両入れる余裕はないわな 故島秀雄技師長は新幹線より151系に思い入れがあったらしい。
生前、息子さんに「長い鉄道人生の中で最も嬉しかったのは、こだまが走り始めた時。
あれは本当に苦労して造った。新幹線はその考えを延長しただけ。」と
語ってたそうだ。 >>662 動力分散式で客車並みの静粛性を確保し、しかも冷房付きの長距離列車としては、当時、他に例がないからな。 >>662
島技師長は戦前に設計した蒸気機関車がみんな失敗作で散々だったからねえ。 >>664 戦前日本の工作機械の水準、不十分な品質管といった要因も考慮すべきなんでは?
まあ、零戦設計した堀越技師も発展性に欠ける戦闘機を造り失敗だらけだという評価もできるわなあ。 大型蒸気での失敗通じて、日本の貧弱な規格の線路には動力集中式が向かないことを自覚したということなんでは?彼だけでなく国鉄の技術陣通して 昭和35年8月13日の日光線への入線試験の目的って何だったんだっけ?
それと試験結果はどうだったのか? パーラーカーは今でいうななつ星in九州みたいな存在で一般には手が出なかっただろうな
今の貨幣価値で47000円もする
等級制を現在も引きずってたら新幹線の東京〜新大阪が28000円になってる >>668
それでも、3等級制の1等でなく2等にしたのは1等を維持するのは無理があるという判断だったのだろう
新幹線ではさいようされなかったし。
展望車の利用者の既得権を守るための暫定策であった気がする >>669
20系のナロネ20にしても本来なら「ナイネ」になっててもおかしくないレベルだったけど1等を維持するのは無理になるという見込みがあったんだろうね
いずれにせよパーラーカーとナロネ20は3等級時代の1等の直系と言えると思う >>670
ナロネ20の場合
コンパートメントが従来の二等A寝台相当、ルーメットはそれより上だから直系というのもまた違う感じが
ナロネ21や22のほうが直系という感じがする メーカーレベルでは昭和初期の時点で電車の優位性は決定的だったからなあ。
昭和33年登場の国鉄151系の電動車の軸重は9.5t。
昭和5年登場の阪急900形は150kWモーターと魚腹台枠をやめた軽量全鋼製車体で
平均軸重6.4t、100km/hオーバーを1日中常用。
手間の掛かるビルドアップイコライザー台車をプレス製の軽量台車に置き換えたり、
ばね下重量の軽いカルダン駆動は戦後技術だけど、
輸入品や最先端設計をガシガシ使った私鉄と国産育成にこだわる保守的な鉄道省、
機関車列車こそ至上とする国鉄部内のセクショナリズム、
艦砲射撃による電化施設の破壊を恐れて鉄道電化に強行に反対した陸軍の存在もあり
国鉄が旧習をうち破るには長い時間が必要だった。 >>672 昭和初期、電車の走行性能は優れていても吊り掛け駆動で空気バネ台車もないから、長距離特急用に使うには騒音や振動が問題だったのでは。
昭和30年代には全金属軽量車体導入含めて、問題が解決されるわけだが。 >>672
> 平均軸重6.4t、
wikiの車重25.7tて記述を妄信しているんだろうね、艤装した実車は40t級だったよ 超デカ窓は後継車両に普及せずだな
ガラスが高価になる上に割れたときの交換作業が大変だった?
一部は防弾ガラスになってた >>675 クロ151の超大型窓が縦1m、横2m。後継車両ではないが、西武001系ラビューの窓は縦1.3m、横1.5mだから窓1枚の面積は同じくらいだな。
ラビューは客室全部の窓がパーラーカーの超大型窓並みのサイズ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています