【思い出スレ】旧形国電総合スレッド007【統合】
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そもそも、三段窓だけを致命的欠陥としている点に、疑問符を付けたい(もちろん死傷者が増えた大きな要因となったことは認めるが…)
たとえば、桜木町事故以降の改良点として、存在が衆知されておらず、表示も皆無だったため、あるのに使われなかった「非常ドアコック」の明示がある(ドアエンジン車)
貫通路がなく、隣接他車に移動できずに密室となってしまっていた点も改められた
未施工の既存車は、63形に限らず、すべて改造がおこなわれている
桜木町事故の最大の問題点は、しばしば三段窓だと言われがちだが、外見にこだわればそうかも知れないが、根本的改良点は、むしろほかの部分にこそ多いことを、忘れてはいけないのではないだろうか? >>382
これか
【横須賀】 70系・80系電車 【湘南】
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/jnr/1224929188/633
>>387
車体の欠陥を連呼する、>>385のレス>>360
>ガソリンカーで揚げ足を取る思ったら引っかかってくれたw
>ガソリンカーを含まないと書いたのは、安治川事故が車体の欠陥ではなく、引火性の強い燃料使用と燃料タンク以下動力部分の問題だからだろ。
^^^^^^^^^^^^^^
>だからこの事故では被災車両の窓やドアから旅客は脱出しているし、その手助けで車掌が殉職したのも有名な話。
>それにこの事故をきっかけに国鉄はガソリンカーからディーゼルカーに転換している。(戦争で空白が出来たが)
>関西線の電化を先送りしてまでも西成線の電化も繰り上げ施工した。
これに対する自己のレス>>363を再掲載する。
> >ガソリンカーを含まないと書いたのは、安治川事故が車体の欠陥ではなく、
> >引火性の強い燃料使用と燃料タンク以下動力部分の問題だからだろ
>それってあんたの言う車体の欠陥と言わんか?
まず、上記レスに対する返事が無く、これ以降車体の欠陥という言葉を>>385は使い続けた。
こちらも車体などと書かずに、車両そのものと書くべきではあったが、
>>387でも同じことを呼号しているのには閉口する。
こちらは車両の欠陥と書いたが、君はその程度も読めないのかね。
返事はこれ以上期待しないので、もう一度これまでのレスを読み返すことを強く勧める。
次の段落については当該引用文献を読み返すことを勧める。どうせ持っていないだろうが。
>むしろ強固な連結器なら共倒れであと2両も道連れだよw
の論拠をお聞かせ願いたい。ちゃんと返答するように。
本題は3段落目からだが、本当に史料を読む力が無いのかと勘繰りたくなる。
事故車の63756は昭和23年度製造であることは旧国台帳から確認できる事実であるし、
配線工事の改良を施したとあるのも事実なんでしょう。
そうであれば、戦時設計部分の改良は行われていた筈の当該車は、
何故、あれ程の悲惨な事故を起こしたのか、説明できなくなるが如何?
5段落目の「結果オーライ」については括弧内を除けば私が言ったことを認めたようなものと理解しておく。
そもそも、桜木町事件は、切断した架線が車体に接触し、火災を起こした事故であることを忘却していまいか?
そこから資料を読み直すことを勧める次第
まだやってたんだなw
>>386
まあ、中段嵌め殺し三段窓改良も、ドアコック明示/取り扱いも「燃えたらどうする」の処置なんだよね。
それまでは、整備不備(戦時末期から検査期限変更とか終戦直後に取り扱い暫定簡略化しちゃってるので)
や簡略仕様で燃える事故が多かったから、少しましな時期になってから「燃えないようにしなくちゃ」という改良はしはじめてたけど、
「燃えたらどうする」を、クローズアップして改良したのは戦後これが初めてじゃないかな?どうなんでしょうかねえ
>>388
そんなところかもしらんね。
第一、車両火災ってそれほど頻発する事故ではないようだし。
Wikiからだと、戦前の火災事故には次のものがありました。
鹿児島線列車火災事故 1937年(昭和12年)12月27日
多分唯一の失火事例
戦後は次の通りです
湘南電車火災事故 1950年(昭和25年)2月9日 7時41分
桜木町事故(京浜線桜木町駅電車火災事故、桜木町国電火災、国鉄戦後五大事故の一つ) 1951年(昭和26年)4月24日
急行安芸食堂車全焼事故 1967年(昭和42年)11月15日
営団地下鉄日比谷線神谷町駅車両火災事故 1968年(昭和43年)1月27日
寝台特急日本海北陸トンネル列車火災事故 1969年(昭和44年)12月6日 6時20分頃発生
北陸線北陸トンネル列車火災事故(急行「きたぐに」火災事故) 1972年(昭和47年)11月6日
地下鉄日比谷線広尾駅車両火災事故 1972年(昭和47年)11月21日
サロンエクスプレスアルカディア火災事故 1988年(昭和63年)3月30日(列車火災事故)
掲載分だけですが殆ど衝突とか脱線事故で埋められており、
車輛が火を吹くということ自身あまり考えられなかったのでは、
という気がします。 >>389
うーん、結構、燃えるのには敏感だったとは思うよ。
例えば関東大震災で大量に燃えまくって、鋼製なら再生可能ということも要因で30形が生まれたりしたし。
その湘南電車火災事故も、80形全車パンタ部の絶縁不良を速攻で改良したりしてたよ。
ただし、「燃えないようにする」という改良だけどね。
ちなみに、>>385の63470までの補助回路の棚おき剥きだしの絶縁改良もやり始めてたけど、天井内張りは鋼板1枚張りでなかったのが
63840までの最大の特徴かな。
>>390
昭和初期から造られた鋼製客車は列車衝突事故での車体粉砕がもとで
製造することが決まったから、同時期製造の鋼製電車も同じと思うんですが。
余り関東大震災は関係ないような気がしないでもないです。
大正5年には新宿車庫火災があり、木造電車多数が焼けていますんで。
まぁ、いずれにしても鋼製の方が車体全損を避けられるということだったんでしょうね。
その後も「燃えないようにする」という改良は引き続き行われていたわけだし。
>ちなみに、>>385の63470までの補助回路の棚おき剥きだしの絶縁改良もやり始めてたけど、
>天井内張りは鋼板1枚張りでなかったのが63840までの最大の特徴かな。
やはり屋根は更新していなかったのかしら
>>391
車体粉砕も1つの要因ですね、ただ、関東大震災はもっと燃えたらしく、それも1つの要因としてですね。
屋根の内張り貼りつけは、24年度からぼちぼちやり始めていたと思うが、全部はやってないみたいだろうねえ。
で、あわてて改造工事した次第です。
>>392
なるほど。原因は一つだけではないということですね。
>>393
俺もよくわからんが、資料を引きずりだすと、あと木材が高くなったのも影響とか>鋼製化
ご
指摘の通り「原因は一つだけではない」のが桜木町事故にも言えるだろうね。
車体側では、架線断線や電流遮断器とかぼちぼち改良してきてたけど、真昼間に電車止めないで架線周りの工事して、よりによってスパナ落としちゃったんだもんな。
三段窓も一つの要因だけど、あれが下中段が開くようになっても、短時間で超満員電車からあんな狭いところ100人以上逃げ出せるとは到底思わないが
というか、瞬時に何百度まで行ったっていうんでしょ?
車体に触れた時点でとんでもないことになりそう。 >>394
一気に燃え広がったというから、無理でしょうねぇ。
客用扉や貫通扉が開いたらもっと違っていたのでしょうが。
それにしても貫通扉が内開きと聞いた時には本当に信じられんかったですよ。
あたしゃあ、てっきり引き戸だとばかり思ってたんで。 >一気に燃え広がったというから、
ここの住人と一緒だね。 なんで63は開き戸だったんだ?
戦前車両だって引き戸だったはずなのに。
やはり製造工程の簡略化が目的? >>398
関東の省電は基本的に戦前は開き戸。
例外はスカ線だけ。 >>398-399
Web上で昭和5年度の電機車形式図が閲覧できるのだが、
横須賀専用・京阪神急行用・京阪神緩行用電車、すなわち、32・42・52系と称される車両は
貫通扉は引き戸で貫通幌を設けていた。
これに対してこれ以外の電車は例外なく開き戸だった。
サロハ56だけは未確認なのだが、サハ48の間違いと思われる。
鉄道省の設計思想として列車の場合車両間の移動が考えられたため、
客車は貫通幌を設けることが普通とされていたが、
電車は元来近距離用の運行のため、車両間の移動を考えられない構造だということで
貫通幌を設けず、貫通扉も引き戸ではなく開き戸としていた。
木造国電に至っては、製造車両の関係から付随車でも非貫通のものがあった。
京阪神急行・緩行用の電車は平行する私鉄との競争のために、
横須賀専用電車は、いい方に見れば当時としては長距離を走ると考えたがゆえに、
列車用の設備に準じて貫通幌を設け、貫通ドアを引き戸としたものと思われる。
>>309
>プレスの「大阪の省電」に戦前の車内写真で側面方向幕ハンドルが写っている
俺も見てみた。
すると横幕にも同じ戦前で「京橋行」の左書きの車両と「行阪大」の右書きの
車両がある。
まさかEF81の星ガマの様に進行方向に合わせ左右で使い分けていた訳でも
ないだろうし・・・。
型式番号や銘板、クモニの「荷物」の表示等は戦前から左書きだし、なんだか
当時の日本の右書きのルールがよく判らないな。 >>403
> 当時の日本の右書きのルールがよく判らない
観察だが、進行方向が一方のものは、前から順に書いている。
船や車がそうだが、進行左側は左書きだが、進行右側は逆順の右書きされている。
そうじゃないのも最近は多いけど。ロゴなんか逆にはできないからねぇ。 確かにトラックなんかの右側は未だに右書きのやつあって少し面食らうよね。 >>403
銘板は、特に車内のものは、戦後も右書きありますよ。
日本車輌が特に一定していないような。
目黒蒲田電鉄のモハ510(のちの東急デハ3450)は、登場からしばらく
「車備装ンヂンエーアド」という小さい前サボ板がかかっていたようだ。
手動ドア車と区別するためだろうけど、前の「右側寄り」につけたからかな?
確かに基準があいまいですなぁ。
大正時代頃の木造電車側面なんかを写真で見ると、
鉄道会社によっては、「等三」となっていたりするけれど、
省の客車などが、「便郵」とか「物荷」になっていたりはしなかったような? >当該引用文献を読み返すことを勧める。どうせ持っていないだろうが
ホント一言多い奴だなw 鉄道史料はキミよりは揃っているよw
鉄道史料115号でキハ42000に書かれた箇所51ページから56ページまで
どこにキハ42000が欠陥だとか鉄道省が事故を頬かむりしたと書いているんだ?
>むしろ強固な連結器なら共倒れであと2両も道連れだよw の論拠
http://kinenhi.web.fc2.com/K27Oosaka/AjiKawaguchi.htm
これからも判るように倒れて炎上したのがこ1両だったから犠牲者が少なかったんだよw
前後台車の異線進入だから当然転覆するし、強固な連結器なら転倒車両の巻き添えを食うだろw
だかにら連結器がチンケだったのが逆に幸いしたのさ。
湯口氏が連結器の脆弱さを原因の一つにあげているということは、前後台車異線進入を前後車両と誤認している何よりの証拠。
>切断した架線が車体に接触し、火災を起こした事故
オマエ人をバカにしているのか?そんな前提踏まえず書いていると思っているなら
オマエこそ史料や人の書いたものを読み返す力無いだろw
架線切断であれ落雷であれ、何故63型だけ100人以上も死んでいるんだ?
窓設計の欠陥以外何があるんだ?
幌が無い車両、貫通路が無い車両、ドアコックの無い車両、整備不良の車両
こんなのは過去にも沢山あった。
でも100人も殺したのは窓設計の欠陥があったモハ63だけ。
何回も言うけどこの仕様は戦時設計というものではなく、63型固有の設計だ。 >>407
一段落目
>鉄道史料はキミよりは揃っているよw
どうしてわかるんだろう。不思議だな。
この部分の指摘についてはP55〜56を読みなおせ。
2段落目。
引用したサイトは反論として意味を為さない。
これのどこに、連結器に言及した部分があるのか説明しろ。
湯口氏云々はお前がきちんと資料を読んでいない何よりの証左だ。
どこをどうしたら湯口氏が前後車両と誤認していると読めるのか説明してみろ
或はないものをあると言い募っているかのいずれかだろう。
P55に該当部分があるから引用してみろ。
引用できないならウソ吐き認定ねw
3段落目
その言葉はそっくりそのままお前に返すわ。
ひたすらマドガーマドガーと言っているいだけだからさ。
4段落目
窓だけが問題ではないと皆が言っているのに聞き入れないお前が問題。
>>407
窓構造の欠陥と決め付けようとする理由がわからない。設計段階で窓構造に欠陥が
あると指摘し、改造を強く進言していた関係者が居たのなら判らないでもないですが。
屋根が絶縁化もしくは防火対策用の処置がされていたなら、いきなり発火せず、被害も
大きくならない可能性はあったのでは?他にも、運転士が事故直後にパンタを下げず、
何とか駅まで辿り着いていたら、死者数は減った可能性があるのでは?
モハ63形特有の構造が被害を大きくした事は否めないですが、窓の構造のみを問題視
すべきでは無いですよ。それに、死者数の多さで、事故の重大さを考えるべきでもないと
思います。
鉄道事故に限らず、死者数が少なくても、実は重大な欠陥が隠されていたという例は良く
あります。
窓が〜窓が〜
開かない特急や新幹線なんか論外ですな(爆笑)
非常ドアコック操作を誰もできず、貫通路整備もない状態だから、窓がクローズアップされたのであり、たとえば三段窓ではないスハ32やモハ32・42などの狭幅窓の場合、不可能とは言わないものの、大柄の人が脱出するのはかなり困難
大勢が亡くなったのは事実だが、重通勤線区の市街地付近なので、事故があれば被害が大きいのは残念ながら現実
過去の出来事を、実際と異なる前提で論じるのはどうかとも思うが、三段窓の車両でも、たとえば非常ドアコック操作がすみやかにおこなわれていれば、被害が少しは小さくなったろう
安全対策の設備は、正しく使われてこそ、意味をなすもの
粗製乱造とも言われた63形にさえせっかくあったのに使われない…これは三段窓うんぬん以前の、安全認識の基本的な問題でもある
三段窓が63756を密室化してしまった原因のひとつであることは否定しないが、そこに固執しても真実は見えない
まあ>>407は、(三段窓の並ぶ)外見にばかり目がいくタイプなんじゃないのかな? クソ耄碌爺い共!
事実指摘・解説のみに留めて、書き手への個人攻撃は止めろ!みてて鬱陶しいから。 2行目だけ書いておけば共感してやったんだけどねえ。 >>412
なぜあえて叩いたかわかる?
>>407が延々とやめずに続けてきたから
指摘は>>407に対してのものだが、その一発言のみで>>411発言に至ったわけじゃない
糞耄碌…の言い種の方が、よっぽど常軌を逸してはいないか? ・・・習志野さんも、もう相手しないほうがよさそうですぞ。
このままいくと、奴と同じように見えてしまう。
>>411
既に周りがみんな困っていて、しかし黙っているのに
あえて悪い言葉遣いすることで 余計に 周りが 不快になる。 架線垂れ下がってしかも変電所で電気垂れ流したのに突っ込んだのが、屋根と内装が燃えやすいかつ客満載の63形だっただけの結果論にひたすら三段窓構造のみ指摘してる人はすごいなあ
こういうひとは普段窓から乗り降りしてると見た >>415
>>411は別に悪い言葉遣いじゃないだろ
>>412の言葉遣いの方が悪いだろ
で、>>407はぐうのねも出ないだろ
いいんジャマイカ? まあ63の三段窓のみが悪いなら見込み生産買い上げ車や当時の更新車も緊急窓工事してたろうよ
それが改番のみで、一段落して後回しの標準化改造程度になった事実が窓が全てとは言えないよな ちなみにクハ65の三段窓車も事故直後は問題にされずクハ16になってからも三段窓でした
窓変えたのはグロベンつけたときだよ 31-11ダイヤ改正よりはや54年
クモハ52のさよなら運転よりはや32年 EF58(青塗装車)と広重の由比の絵柄の記念切手でしたね。 >>388
> 「燃えたらどうする」を、クローズアップして改良したのは戦後これが初めてじゃないかな?
私見だがじつはここが核心であり革新なのかもしれないと思う
帝国陸海軍の兵器、特に航空機は「被弾したらどうする」まであまり考慮してないものが多い
限られた発動機出力で性能のみ追求した設計思想なのだが「被弾した」その後を考えていないとも言える
戦争後期になり甚大な被害と敵機の情報からはじめて防弾装備やら自己防漏タンクを装備しだした
これは仕方なくとはいえ「被弾したらどうするか(どう生き残るか)」を考えたということ
鉄道車輛もまた然り、ではないのだろうかと。
燃えない車両を作るための改良は少しずつなされていたようだし
「燃えたらどうする」まで考えが及ばなかったのが桜木町以後はそちらも対策していくようになったと
クモハ52のさよなら運転を撮りにいきましたよ。
東上の田圃で撮りました。 なんか三段窓が全て悪い即改造してないのにしたとか、63以前に大規模改修した車がないとか適当に言ってる人がいるけどさあ、
火薬庫が爆発して民間人が大量に死んでも隠蔽された戦時統制下で、ガソリンカー事故対策云々なんか国の一意次第なんでなんら比較になんないよ
あと戦後本来桜木町事故の前に、八高線の事故を契機とした客車の鋼板化が戦後最初の大規模改修になる予定だっだが、これも占領軍と予算で一斉には難しかったのさ >>425
鉄道バカセなのはよくわかったから、やめろ
>>407がおとなしくなり、みんな必死で話題を転換して切ろうとしてるのに、再燃させるつもり? >>424
引退当時に発売された、営業運転時のクモハ52の走行音のレコードが、CD化されて
発売されたそうですね。音だけ聴いても当時の思い出は中々戻ってきませんが・・・
叶わぬ夢ですが、さよなら運転で編成を組んでいた2両を、一度並べてみてみたい。 >>426みたいなバカとか煽ってくる奴が一番不必要なのは確か 旧型国電を学生時代夢中になって追っかけたんで
HOを買って懐かしんでいます。
飯田線
・クモニ83、クモニ13
・クモハ53007、001
・クモハ54002
・クモハユニ64000
・クハ47102
・クハ68400、404、412
・80系300番台4連
中央東線
・71系4連、73系2連
南武線
・73系4連、旧30・31系3連
上越線
・70系新潟色4連
富山港線
・73系2連
宇部小野田線
・40系4連、クモハ42001
身延線
・クモハユニ44、クハ47
etc・・・ うらやましいな
ほとんど完成品出てないはずだからキット組み立てでしょ?
時間があったら俺も組み立てたいけど、現状押入れの肥やし状態orz ピクトリアルの連載で
架線はパンタの上にのみ垂れるに非ずといって
丸焼けになったクハ76(+サハ48)の写真が掲載されていた 最後の原型クモハ73は、鶴見線の289かな?
海芝浦の運用に入ってたとき、新芝浦付近の運河沿いで撮りました。
同じように考えている人がいて、けっこうみなさん撮りに来てました。
そうそう、こんどエンドウで茶のモハ72970番台発売するそうです。
鶴見線再現希望の方は朗報ですね。どういうわけか朱色も発売。 >>429
まあ中二病的発想だろうね
三年生ともなれば経済ってもんが大まかにでも分かって来て個々人が自分自身の為に精一杯頑張る事が
最も社会(彼らは地球・世界・市民といった表現が好きなようだが)の為になるって事に気付くもんだけど >>432
原形っていうのが何をさして言うのかわからんが、
モハ63出自で、あまり改造されていない、というのなら、
可部線のクモハ73313あたりではないか?
エンドウは模型の話だけれど、朱色が出るのは、
クモハ73とクハ79の同社三段窓タイプと編成しろ、
という意味でしょ? >>455
朱色のモハ72970は、落成直後2年間くらい鶴見で使用。その後、茶に塗られ廃車まで
引き続き鶴見で使用。
朱色時代の写真どこかにありますか?
可部線の73系は全部2段窓だったような気がする。 >>436
ttp://www.ken-ohashi.jp/contents/2b/dagakki3/06series/72kei.html 可部線73系は、クモハ73はすべて2段窓
クハ79は、鋼体化タイプの79004、旧63形クハの79214はすべて2段窓
72系新製車の300以降に割と三段窓があった 先日、クモニ13併結で走ってた73系の横浜線を少し歩いてみた。
八王子〜相原間は当時は単線だったが、今は複線。沿線がかなり開発され
昔の面影はほとんどない。
併結列車を撮りによく行った京王線とのオーバークロス。まったくべつの場所のように思えた。
こどものころは、クハ55とかクモハ41もいたんだが、まあ、よくここまで発展したもんだなあと
ちょっと思わず苦笑いしてしまった。
>>438 クハ79004は、正面の裾が直線でなくてカーブになっていて、木造鋼体化の跡がしのばれました。
車体はベコベコでよく末期まで生き残っていたものだと感心しました。
あとクモハ73001がいて番号上はトップナンバーなんで、なぜか感動したのを覚えています。 可部線の73系は好きでした。
オレンジの警戒色にウグイス色。とても似合ってました。
宇部・小野田線の黄色の警戒色に茶は、最初は好きになれませんでしたが、
通っているうちに、これもありかなと思うようになりました。
好きなカラーは、新潟色70系。雪景色に映える色でした。 >>440
あれは、雪景色の中で視認性を高める「警戒色」の役目もあったとか>70系新潟色
(新性能化の際、あの色が引き継がれなかったのはなぜだろう) >>441
「ババアの厚化粧」っていわれてたからね。 あれどういう規定であの色にしてたんだろう
国鉄電車は特に規定がない場合は湘南色という規定だったから
特に指定のない新潟の115系は湘南色
スカ色なんかはちゃんと「この色に塗れ」と特記してる >>444
>>スカ色なんかはちゃんと「この色に塗れ」と特記してる
でも微妙に調色ちがったり、ラインまちがったり。
新潟の色は電化当初ぶどう色が配置されてて、雪中視認の悪さから支社の要望で認められたらしいよ。 新潟色金太郎塗りのクハ47改造クハ68はとても好きでしたよ。
模型化した人います?
エンドウの新潟色70系セットは買ったんだけど、純粋な70系セットなので
クハ68が欲しい。
モハ63 復活
ttp://blogs.yahoo.co.jp/takemas21/14783196.html >>447
期待して見てみたら・・・
前に出たことあるブログじゃんか
少しは新しい画像貼れよ 東海博物館に入るモハ63は非運転台側も一応復元したようだね 下回りはしかたがないが、外観・内装だけ戦前型のレトロを造らないものかねえ。 >>452
JRじゃないけど今度出る銀座線の新車とか いや、やはり旧国はあの独特のローロングとピッチングのミックスと軋みと
振動と音と昭和のポマード臭があってのものでしょ。
音もなくいきなり凄いスピードで閉まるドアも忘れちゃ遺憾。 モーターだけでなく、
「スーー、シャァゴオォォォーーーーー、キキッ、スハー、ゴリゴリゴリ、スハー、カラン」
という、鋳鉄自動ブレーキの音もセットでなければならない。
できればATS音があると電車ならではのサウンドになる。 ATS音は旧国と当時の一般型気動車とは同じ
※誤解を招く可能性があるのであえて書き込み クハ55に乗って東中野駅を出発・・カントというものを味わえたんだよな
夢に何度も出てくる光景
つり掛け音響かせながらガタガタすっ飛ばしていた 地下鉄丸の内線と新宿湘南ラインを相互乗り入れさせようと思えば出来る! >>462
あと、ドアが閉まる時の「ガラガラガラッ、ドン!」も。 >>466
いきなり「ゴッガラガラガラ ババン!」とくるんだよなあ。
ローラーが傷んでると「ゴッダダダダダン!」てのや、引き摺り音が混じるもあった。
同じように急行型や113系の中期までのは「掛け声」が無かったよね。 関東の俺は今や103系の派手な「プシュン!」すらなつかすぃよ…。 抵抗制御自体がもはや「旧性能車」だしなぁ。
吊り掛け国電と言わないと通じなくなる日も近いな。 >>470
制御方式と駆動方式は別の問題だからなあ
EH200とかEH500とかは吊り掛けでVVVFだろ? >>471
あれからもう30年か・・・
まるで昨日のことにように思い出される。
今でも、富士電車区に彼らが並んでいるような気がしてならない。 あの時投入された115系だって、今何両残っていることか・・・・。 ワインレッドの115系ね。
置換えの端境期にあれが来るとガッカリだった。
当初クハが背中合わせになってて不思議に思えたりしたのも30年前。
いや、無人駅でのドア扱いのために編成の真ん中に乗務員室を設けた。
それにしてもあのワインレッドが憎く思えた… >>477
下流側にMをまとめたと思っていました。 >>478
横軽みたいだねw
そうか、もう身延の旧国廃止から30年なんだ。
乗りに行って62系に当たると落胆したのも今では懐かしいよ。
列車交換待ちで停車時間があると駅の硬券入場券を買ったりしたけど、
今では無人駅になってしまったケース(芝川とか)も少なくないね。 ↑スマソ
厳密に言えば62系がしばらく生き残っていたので、“身延の旧国廃止から30年”との表現は不正確だった。
(このスレの住人サソなら大目にみてくれるかな…)
>>480
いやいや大丈夫。確かに62・66はしばらく生き残ってはいたが、当時自分も興味の対象外で同じような感覚でした。
フィルム勿体ないと来ても写真撮らなかったり。今となってはアコモももう少し資料写真残しておけば良かったと思うが後の祭り。
っていうか、戦前型でも、当時写真撮りまくったつもりだけど今になってみると全然不足。屋根上とか何でもっと撮らなかったのだろうと今更ながら後悔している。
>>474
JR化前にクモハ側のクハ(偶数向きだっけ?)が何両か新潟に異動したでしょ。
方転やバネブーツ履かせたほか耐寒耐雪強化したから、実質1000番台化して今も使ってる。
東海にあった分は売却もせず、残らず破壊しちゃったっけな。 もったいないなあ。
115系みたいな堅実なツクリの車、欲しがる会社はいくらでもあったろうに。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています