父は外交官で中国大使などを歴任した人物で、高齢になってから誕生した竹一を溺愛した。
10才の時に父が死去し、莫大な財産と団爵位を相続。アメリカから自動車を輸入して乗り回すなど
放蕩の限りを尽くした後、馬と出会い陸軍に入り騎兵学校へ。遊佐幸平氏らから馬術の基礎をみっちり
教え込まれ、外遊中の上司がイタリアで見い出したウラヌスを購入。第10回オリンピックロサンゼルス
大会の大障害競技に出場し、減点8で見事優勝。西の優勝はまったく予想されたことではなく、たまたま
馬術競技の後に行われる閉会式中継のため会場にいた日本人報道関係者により、大ニュースとして日本に
伝えられる。西の物怖じせぬ堂々とした態度は人気を集め、当時のアメリカにおける日本人観をも変えたと
言われ、ロス市名誉市民の称号を受ける。続くベルリン五輪にも西は17才となったウラヌスと共に出場
するが、結果は惨敗。本来なら若い馬を購入したかったが、すでに西にも陸軍にもその余裕はなかった。
ベルリンでの惨敗で陸軍での左遷人事の憂き目に会い、結果的に最前線・硫黄島に送られ半年後戦死。
上陸したアメリカ軍が「ロスの英雄バロン西、出てきなさい」と呼びかけた話は有名だが、日本兵で
生き残った人はその呼びかけを聞いていないという。そのご間もなくウラヌスも老衰で死ぬが、墓のあった
津田沼の陸軍騎兵学校に米軍の爆弾が直撃し、遺骨もろとも吹き飛んだといわれる。