その年バンドは5作目となる『コンバット・ロック』に向けてニューヨークでヒップホップ/グラフィティ・アート/ベトナム戦争の傷跡を存分に吸収し、西8番街にあるエレクトリック・レディ・スタジオでレコーディングを行った。
されど、ザ・クラッシュの不安定なライナップに軋みも出始めてきていた。ドラマーのトッパー・ヒードンがヘロイン中毒となり、その年の5月にバンドをクビになる。その数ヶ月後、マルチ・プレイヤーのトッパーが音楽的な部分をほとんど書き下ろした
「ロック・ザ・カスバ」が全米チャートのトップ10入りを果たした。同年バンドは「ステイ・オア・ゴー」で世界的大ヒットを連発したものの、国際的なチャートの成功は彼らの理想主義とパンクの出自に合わず、1983年4月にカリフォルニアのUsフェスティバルで15万人の観客を前に大トリを務めたのを最後にミック・ジョーンズがバンドを去った。奇しくも、その年のノッティング・ヒル・カーニバルの開催前夜のことだった。ポールとジョーは有終の美を飾るために新しいライナップで活動を再開し、感動的な「ジス・イズ・イングランド」を収録した不運な『カット・ザ・クラップ』をレコーディングしたが、アルバムが1985年に発売された時には既にバンドはバラバラになっていた。