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【三戦板】 三戦板白馬党 7 【解放区】©2ch.net
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0001無名武将@お腹せっぷく 転載ダメ©2ch.net垢版2017/04/25(火) 21:14:39.68
三戦板解放区
白馬水牛との雑談スレ
白馬水牛と愉快な仲間たちの雑談はこれからだ

(6) http://hayabusa6.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1440516924/
(5) http://hayabusa6.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1440516924/
(4) http://hayabusa6.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1393616972/
(3) http://hayabusa6.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1368456151/
(2) http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1342064693/
(1) http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1327074895/
0416無名武将@お腹せっぷく垢版2017/09/11(月) 14:59:32.52
>>411
和歌山で近代製靴始めたんは藩士の子弟じゃし
http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/060100/hakusyo/sangyouhakusyo14/jibasangyou.pdf

和歌山の皮革産業は、その源流は古く380年の昔の慶長年間(1596〜1614)にさかのぼり、和歌山県の地場産業の中で最も古い産業の一つである。
近代的皮革が確立されたのは、約120年前の明治2年(1869)に行われた和歌山藩の軍制改革で、藩兵に洋靴が採用されたときであった。
明治3年、陸奥宗光が藩命で渡欧し、ドイツの革細工師ウアルテ及び靴工プラットミエルの2名を招へいした。
この2人の技師の指導のもとに、和歌山藩は和歌山市本町二丁目に西洋沓仕立並びに鞣革製作伝習所を開き、
士族授産のたてまえから藩士の子弟を伝習生とするとともに伝習所の製品を藩の軍用に供した。
廃藩置県で藩兵が解体してからは、和歌山商会所の事業として民間に開放された。
第1回の伝習生の中から、製革の九鬼千代治、製靴の岡本精蔵、諏訪部三郎らの先覚者を出した。
藩営の製革製靴事業が民営に移ってからは、紀州藩の声価は高まり、明治6年には名古屋、広島の両鎮台の軍需品を引受けた。
同年の製靴量は3万6,000足4万5,000円であった。
和歌山県はこの産業に積極的に資金を援助し、後年全国有数の集団皮革産地として発展する基礎を作った。
0417無名武将@お腹せっぷく垢版2017/09/11(月) 15:01:50.94
>>411
なるほど、靴の歴史【明治時代】
http://roudouundoumeiji.com/rekisi-3.html

たしか和歌山市で泰西式の製革事業の始めて行われたのは明治二年で、当時陸奥宗光伯は欧米各国を漫遊して、
郷里和歌山へ帰られて、藩の人々を集めて演説をせられた、其の演説というのは富国強兵論で、日本の国を強くし、
且つ冨まさんには兵制を完全にし、産業を発達せしめねばならぬ兵制を完全にせんとすれば鉄と皮の供給豊富にせねばならぬ。
製鉄事業を盛んにするには容易の業ではないが、皮ならば極めて簡易に行われる、之は当然来るべき時代の要求である。
他の気付かざるに当って先ず藩として之を起すべしとの大演説を行うたのである。
陸奥伯の警抜な意見に同意するものは少くなかった、何分当時、
和歌山藩は他藩に率先して徴兵制度を施行し独逸兵式を採用する位に進んで居ったものであるから、直に之を行うことになった、
陸奥宗光氏は早速、独逸人ケンベル氏等を連れて来て和歌山市本町一丁目に「鞣革靴練習所」を設けて、之を教えしめた。
製革事業といえば賤しい仕事のように思わるるが其の当時の有様は全く正反対である
之れを習ったのは藩の次男三男所謂部屋住の連中で軈て来るべき「刀より算盤へ」の移り行く時代の準備として之れを習ったのである
当時面白いのは製革練習所の入口に藩士の刀掛袴掛がズーッと設けられて居た事で「身共」ナンテ挨拶の厳めしい連中が、
殆んど賤業視した製革事業を熱心に学び、そして帰りには、又両刀を帯して帰るような有様であった。
目下和歌山市の製革界に名ある九鬼千代治氏の如き実に第二期生であったのである。
其際には、彼の西村勝三氏なども和歌山へ来て学ばれたのである、
当時の勢いを以てすれば、和歌山の製革事業は甚だ盛んであらねばならぬのであった。
0418無名武将@お腹せっぷく垢版2017/09/11(月) 15:03:50.80
西村勝三は上級武士の出身であった。祖父と父は、槍の師範で、父は、佐倉藩の分家の佐野藩の家老であった。
26歳のときに商人となる。伊勢勝銃砲店を開き、銃砲ばかりでなく、ピストルの革袋も扱った。
大村益次郎から軍靴の注文を受け、明治3年(1870)3月15日、
東京の築地入船町(現在の中央区築地1丁目1番地)に日本最初の洋式製靴工場「伊勢勝造靴場」を開いた。
しかし、洋式皮革加工法がなく、靴の材料の革は外国から買っていた。
勝三は明治3年10月に製革工場をたて、明治5年になってようやく、軍靴用の甲革の製造に成功した。

最後の佐倉藩主である堀田正倫は資金を出して、下級武士の子弟に職を与えるための「相済社」という組織をつくらせ、
藩校成徳書院の隣りの「演武場」をつくりかえて工場にし、武士の子弟に靴づくりを教えることにした。
勝三は、伊勢勝造靴場から3人の指導者を送った。靴工はおよそ50人で、1年間で1万3千5百足を作ったといわれている。
この中の1人が、後に日本人としてはじめて明治天皇の靴をつくり、宮内省御用達の看板をかかげた大塚製靴の創始者大塚岩次郎である。

明治22年には、靴の材料の革をすべて日本で作ることに成功した。
日清戦争で大量の軍靴が必要になり、勝三は大きな利益をあげた。そして明治31年には「合資会社桜組」をつくる。
35年には、桜組などの5つの靴メーカーが合同して「日本製靴株式会社」を、翌年の4月1日には「日本皮革株式会社」を発足させた。
勝三は、さまざまな事業に手をだしたが、特に、製靴業、製革業、耐火煉瓦の製造という3つの事業で大成功をおさめ、
日本の近代産業の祖といわれている。
0419無名武将@お腹せっぷく垢版2017/09/11(月) 15:05:32.47
「◎武士的模範実業家(西村勝三氏の事)・・・・・西村勝三氏は旧佐倉藩の士にして故西村茂樹氏の弟なり。
いわゆる佐幕派にして沢庵樽に小判を詰めて江戸に送れることもあれど、総督府の大小砲御用をもおうせつかり居り、
大村益次郎等も部下に砲術の指南を伊勢勝に受けて来たれと命ずる程にて、砲術の堂に上れる名高かりき。
しかる程に斯く維新前は武士的生活を送り来たりし氏は、維新後急に実業家に変ずるや、
明治四五年のころに穢多業として卑しめられし皮革業に先ず指を染め、桜組製靴工場を起こし、
明治十四五年ごろまでに一度欧米を漫遊し見聞を広め、帰来絶えず新事業を企てぬ。
実にその機関に創業せし実業に至っては屈指にいとまあらず。

▲商売に尊卑なし。
明治初年ごろ陸軍省にては兵隊靴を総てフランスより買い入れ居りしより、
氏は日本にも製靴業を起こさんと企てたるに、友人連はそんな穢多的の商売はよせと諌めたるも、商売には尊卑なし。
自己の富のためにあらずして社会の富のためなりという大見識にて、弾左衛門に就いて親しく製靴の事を図り、遂に日本製靴業の端緒を開きたり。
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