「女優」と日本の近代:主体・身体・まなざし −松井須磨子を中心に−
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ir/college/bulletin/vol12-3/ikeuchi.pdf

我が日本も文明諸国に仲間入りをしたる以上は、これと同等のツキアイがしたくばヒトリ遊女
のみならず芸妓といえども一たび足を洗い立派に婚姻して、士大夫の北野方となりたる以上
は格別、鑑札を所持して芸者商売をなしおるうちは娼婦同然世人の最も賤しむべきものなり。
芸者たり娼妓たり文明の世にありては晴天白日の身分にあらざるがゆえにかかるもののこと
は文明世界の狂言や歌には決して作るまじきことなり。(T, p.147)

外山がこの演劇改良論を述べた13年後の1899-1990(明治32-3)年に、川上貞奴は、欧米で
舞台に立った日本の女優としてセンセーションを引き起こした。貞奴は、元売れっ妓の芸者で、
16歳のとき、伊藤博文に水揚げされている。その後オッペケペ節で有名な書生芝居の川上
音次郎と「正式に」結婚し、川上一座が欧米で芝居をしたとき、「間に合わせの女優」として
舞台に立ったが、プロの芸者として小さいときから鍛えられた踊や唄といった芸の実力が
あったからこそ、表現は堂に入ったものだった。

皮肉なことに、「芸者と武士」の彼女の演技が絶賛されたのは、芸者の舞踊と武士のハラキリ
を求める欧州の人々のエキゾチックなまなざしのもとではあったが。ジードやロダンの絶賛は、
日本の伝統的な芸の表現−ノン・ミメティック/ノン・リプレゼンタティヴ(非写実的)な美学−
が、絵画に劣らず、ヨーロッパへのインパクトを与えた例といえる。日本国内では、女優と芸者
を同一視して賤視する性規範と言説は確実に強化されていった。演劇改良論は、日本が文明
国家の仲間入りを果たすための、それにふさわしい健全で、清潔、上品なミドルクラスの国民
/臣民の育成という、一種の国家的なプロジェクトだった。