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三国時代の文学スレッド
0001無名武将@お腹せっぷく垢版2011/12/12(月) 22:09:48.11
| 機
|*Д`)ハァハァ
雲 ノ )
゚ー゚)   ∧ ∧    ∧ ∧   .∧ ∧   ∧ ∧   ∧ ∧   ∧ ∧    ∧ ∧
( ヘヘ (´ω` )  . (´ー` )  (゚∀゚ *)  (´<_,` )  (´∀` )  (・∀・ )  (‘∀‘ )
 ̄  //王\ / 徐 \ / 劉 \/ 孔 .\/ 応 \/ 陳 \/ 阮 \
   .\) .粲ノ/\) 幹 ノ/\) 驕@ノ \)融 )/\) 瑒ノ/\)琳 ノ/\)瑀 .ノ/
   ./ ◆<  ./..◆ <  ./..◆< ./ ◆<  /..◆<  ../..◆<   ./ ◆<  
  /  '´ ヽ).../  '´ ヽ...)../  '´ .ヽ. .((操)))/  '´ヽ..) ./  '´ヽ..)/  '´ヽ )
∠/   ノノ∠/ ∧ ∧/   .  ノノ  (・∀・)っ   ∧ ∧    .ノノ     .ノノ
           (; ゚Д゚)  。・゚・⌒)  (つ   /.  .  (゚∀゚,, )
            / 丕 o━ヽニニフ )) |  (⌒)  〔~植∪ ̄〕=
           しー-J    彡   _ し⌒^    ◎――◎=


後漢末期の建安年間とその前後には、唐代以前の詩聖・曹植や
曹操・曹丕・曹叡など曹家の偉大な詩人たち、建安の七子などが
たくさんの優れた文学作品を残し、中国文学を著しく発展させました。
三国志の戦いや武将、社会情勢などが、
それらの漢文の重要な題材や背景となっています。
また、後世の中国・日本の文芸の題材にも、
三国志の英雄たちは多く取りあげられています。
文学的な側面からも、歴史・人物的な側面からも、
真面目に語るも気ままにだべるも良し。マターリ楽しみましょう。
三曹でも西晋でも蘇東坡でも土井晩翠でもなんでもおkかとミ ・∀・ ミ

まとめサイト
http://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/
0208無名武将@お腹せっぷく垢版2012/12/09(日) 15:31:25.10
おお、暫く来ない間に面白い話題で盛り上がっているw

>>202
無双の司馬懿の「凡愚がはびこるくらいなら自分が天下を取る(ただし曹操や曹丕は凡愚じゃないから逆らわない)」というキャラも結構好きだけど
個人的には司馬懿ってそんなに野心的な奴だったのか?という疑問が多々あったりする

曹爽一派へのクーデターだって今まで隠していた野心をついに表に出した結果だという意見もあるが
クーデター当時の司馬懿は72歳と超高齢で同年に死去するくらいのお年寄りだし、待ってたというよりは曹爽達のバカっぷりに
「隠居しようと思ったけどあのバカ共には任せられん、陛下への最期の奉公に奸臣共を一掃しよう」という感じだったような気もする
唐の太祖の意見に皆流されすぎじゃね?と思ってしまうひねくれ者がここにいますよ

>>203-207
なるほど、直接曹丕の近くに埋めてくれと言ったわけではないのか
それでも当時の認識として魏の初代皇帝の墓が首陽山の近くにあるのは一般常識だろうし、司馬懿に何か思うところがあったのは確かかなーという印象を受けた
ただそれが明確な忠義からくるものなのか、曹爽一派一掃は野心のためではなく曹丕たち魏への忠義からくるものであると示すパフォーマンス的なものなのかはわからないけど

陸議が言う曹操の遺言は曹瞞伝的な感じが強くするんだよなぁ、呉の人だしそういう嘘っぱちがまことしやかに語られててもおかしくないかな、とww
0209無名武将@お腹せっぷく垢版2012/12/10(月) 19:09:40.65
>>208
いやぁ、別にひねくれてはいないんじゃね?

曹操の作品は、作品中やラストを昔の有名人の名前や言葉を出すものがあるのよ。
(少なくとも短歌行其の一、苦寒行、秋胡行、薤露)
中でも、周公、斉桓、孔子(論語)がやや多い印象。個人的なものだが。
後世では、これは作者本人の意思を仮託しているとされる。(個人的にはこうありたい、という理想を表したものと考えているが)

で、曹操の短歌行其の2は、周文王の聖徳→斉桓公の徳→晋文公の詐称と読み上げていく内容。
そして、司馬懿の勢力は晋。偶然にしては出来すぎだと思わん?
また、王朝の称号を、偶然で片付けていいものか? そこに意図があるなら、何か?

曹爽一派へのクーデター、首陽山の近くの墓、いずれもパフォーマンスだとしたら、
>>208の意見だけでなく、短歌行其の2を踏まえた上で、漢→魏→晋と続く正当性というか、「自分のほうが、あんな若造より魏を知っているんだぞ」みたいな主張もあると思う。
と同時に、「自分の威は、曹操や曹丕の徳には追いつけない。所詮は詐称者に過ぎない」という一種の謙遜でもあるかもな。
まぁ、魏晋代は過去の作品を弄っているんで、曹操の作品を、上記の考えにあわせて作り変えた可能性も否定しないけど。

陸機はねぇ。張華に「わしらは言葉がでなくて困ってるのに、君は言葉が出すぎて困ってる」みたいなことを言われてるからなぁ。
ちょっと口が過ぎて、敵を作ってしまう事もあったんだろう。
0210無名武将@お腹せっぷく垢版2012/12/10(月) 20:44:49.97
>>209
>陸機はねぇ。
>張華に「わしらは言葉がでなくて困ってるのに、君は言葉が出すぎて困ってる」
>みたいなことを言われてるからなぁ。
>ちょっと口が過ぎて、敵を作ってしまう事もあったんだろう。

何せ陸機さんの曾祖父様は
「軽はずみというか、「爽やかー!」な性質の人だったのでしょうw」
「遺言は悲愴感ないねー(笑) 」
「もうすこし悲愴になれww 」
とまとめサイトで言われているあの御方ですからw
0211無名武将@お腹せっぷく垢版2012/12/10(月) 21:23:11.41
>>209
…アカン曹髦が司馬昭を晋公に任命しようとした意図とかそれをきっちり断った司馬昭とかそういうの思い出していろいろ勘ぐりたくなってきた
曹操の魏公就任→魏王就任→曹丕の皇帝即位の流れから司馬昭は断ったんだろうと単純に思ってたけど、もしかしてそんなレベルの話じゃなかったのか、これ…

>>210
義兄弟はもう涙なくして読めないような悲壮かつ感動的な遺言残してるあのお方っすねwww
…まぁ信頼出来る義兄弟に将来有望な弟を託す人と
そんな義兄弟の期待に答えようとしたけど結局果たせなかった人じゃ悲壮感が違うのは無理ないけど

そういやそんな爽やか兄さんの後継いだ弟さんはどんな遺言残してたのかな
0212無名武将@お腹せっぷく垢版2012/12/10(月) 22:16:39.72
あぁ、>>209でひとつ忘れてた。司馬懿の諡だが、台湾中央研究院の晋書から引用

>九月庚申,葬于河陰,諡曰文,後改諡宣文。
(諡は文という,後に諡をあらため、宣文とした)

すなわち、「晋文」だ。

>>211
あぁ、そっかそっか……言われてみれば、司馬昭が晋公を断ったのか。あいまいになってた

確かに勘ぐりたくなるわ。結局は晋を名乗った、しかし高祖の諡を文→宣文→宣帝にしている。
曹髦の最後の嫌がらせなのか、それでも晋を名乗らざるを得ないほど、当時の司馬一族が不安定だったのか、
「晋」が持つ意味は、想像以上に重いのかもしれん

>>210-211
…なんという説得力orz>爽やかさんは、子孫もやっぱり爽やかですたw

弟さんこと孫権の顧命終制を探してみたけど、どちらも出てこないなぁ。
0213無名武将@お腹せっぷく垢版2012/12/10(月) 22:52:16.00
>>212
王朝の名称はその王朝が起きた場所で決まるらしい
例えば蜀漢は春秋・戦国の頃の古蜀などあの西地域を指す蜀から来てるし
孫権の呉も春秋の呉から来てるし、曹操の魏も戦国の魏と同じ地域だから
司馬昭が晋公に任命されそうになったのは、司馬氏が河南省(春秋の晋の地域)出身の豪族だったからだと思うよ
うろ覚えだから違うかもしれんが、名前が晋なのは当然なんだけどいろいろ勘ぐれる名前なのは事実
そもそも春秋の晋が分裂して出来たのが戦国の魏だし…
0214無名武将@お腹せっぷく垢版2012/12/10(月) 23:57:42.72
>>213
うん、本当に色々勘ぐれる名称だは

晋という称号自体は、213の言う通り、古い地名説が一番妥当だと思われ
逆に、漢魏の前例や、出身地の古名から、司馬一族が王朝を開くなら、まずは晋が来ることは判っていたと思う

では、司馬懿の諱が変わっているが、よくあることなのか?
変えるぐらいなら、なぜ文と言う諱をつけたのか?曹丕と同じだからか?
文では都合が悪かったなら、どのように都合が悪かったか?諱の変更以外に解決法はなかったのか?
司馬一族が実権を握っていたなら、晋以外の称号に出来なかったのか?
調べてみないとわからんが、六朝時代以降、王朝名イコール地名とは限らなくなっているのは、異民族だから名乗れそうな地名がない、それだけの理由なのか?

「晋」は想像以上に重いと言うのは、由来もだけど、むしろ、上でいう諱問題や、晋の名がもたらした(かもしれない)結末の方だな。
どれも大した問題じゃないと言えばそうなんだが、そういうのを考えていたら、ちょっと混乱した
0215無名武将@お腹せっぷく垢版2012/12/11(火) 00:08:05.83
投稿した後で気付いた、連投スマソ
今ちょっと確認できないんだが、司馬懿の諱については別の字だという(貞?忘れた)説もあった気がする
2つあるなら、どっちが正しいか、間違っている方は、なぜ、その字が出てきたのか?という問題も出てくる
0216無名武将@お腹せっぷく垢版2012/12/11(火) 00:27:10.13
>>202です

>>203-207
うおーすごい!ありがとうございます!!
そもそも洛陽の北に墓を作るのが当時のトレンドだったんですね
当時の時代背景などは考えてなかったので、その辺りすごく参考になりました

曹丕・司馬懿の主従が好きな身としては、実際のところがどうだったかは分からないにしても、余白を読んであれこれ想像を巡らせることの出来る遺言でよかったですw


それにしても、てっきり人少ないものと思ってスレ覗くの怠ってたら何やら興味深い流れに…
三国時代初心者の私としては、このスレは本当に勉強になるので有り難いですー
0217無名武将@お腹せっぷく垢版2012/12/11(火) 00:34:39.59
そもそも諡号の宣ってどういう意味だっけ?って思ってググったけどいまいちわからんなぁ
で、調べてるうちにこんなん見っけた↓晋書の記述らしいけどどこの話なんだろ。

文帝(司馬昭)が上表して謙譲した。
「わたくしの亡き父(司馬懿)は丞相、相国、九命の礼をあえて受けず、亡き兄は相国の官位をあえて受けなかったのは、まことに太祖(曹操)がつねづね区別をしていたからでございます。
いま諡号が二祖と同じであることは、必ずや恐懼するところでしょう。むかし蕭何、張良、霍光はみな補佐の功績がありましたが、蕭何は文終と諡され、張良は文成と諡され、霍光は宣成と諡されました。
どうしても文武という諡を頂けるのであれば、蕭何ら(の前例)によって(文字)の追加をお願いいたします。」
詔勅により許され、忠武と諡された。
この文章で諡号が与えられたのが誰なのかイマイチわからんが、司馬懿の諡号に関してヒントが出てるような気がする

で、ここで出てくる霍光(諡号は宣成)って人なんだけど、『晋書』の宣帝紀にこんな記述を発見

(司馬懿の)葬儀の格式は漢の霍光の故事にならったものとされた。

この漢の霍光さん、漢の武帝の命で幼帝を補佐した政治家らしいが
そういう政治家にありがちな権力欲に取り付かれて国を滅ぼすようなマネは一切せず幼帝は成人しても霍光を信任し続けたらしい
昭帝への反乱の企てを察知して処理したりもしてる非常に有能な補佐役
まぁ昭帝が子供が出来ずに亡くなった後、次に選んだ皇帝を27日で廃して新しい皇帝を建てるなんてこともしてるけど
で、その次に選んだ皇帝の諡号は宣帝
多分当時の人(司馬昭含む)は司馬懿を野心家の逆臣ではなく、幼帝を補佐した清廉潔白な政治家と考えてたんじゃないかな
ちなみにこの霍光さん、宣帝に政権を委ねるって言われた時の返事に「関(あずかり)り白(もう)す」って言ったらしい
これが日本の関白の元ネタらしいよ

>>216
私もまだまだ勉強不足なんでいろいろ助かります
皆さんの意見聞くとほんとに目からウロコ落ちるんですよね
0218無名武将@お腹せっぷく垢版2012/12/11(火) 00:45:07.19
連投すみません

文帝(司馬昭)が上表して〜の文相は晋書景帝紀で司馬師の話でした
司馬師が死んだ時に、曹髦が司馬師の諡号を武侯にしようとしたのに対して司馬昭が辞退した時の上奏文だったようです
司馬師の葬式の時も司馬懿の時と同様霍光の故事に倣ったらしい

司馬懿が霍光の故事に倣った葬式だったのは幼帝を補佐して反逆者を一掃したからだけど
司馬師が霍光の故事に倣った葬式だったのは皇帝を廃して新しい皇帝を立てたから
…のように見えなくもないんだけど邪推かな
0219無名武将@お腹せっぷく垢版2012/12/11(火) 22:36:45.77
>>217-218 資料探索乙っす。>>214-215のうち
>文では都合が悪かったなら、どのように都合が悪かったか?諱の変更以外に解決法はなかったのか?
についての、司馬氏側の動きが、>>217-218ですな

晋書の帝紀第1から引用
>天子 素服臨弔,喪葬威儀依漢霍光故事,追贈相國、郡公。

晋帝紀第2から引用
>二月,帝之喪至自許昌,天子素服臨弔,詔曰:「公有濟世寧國之勳,克定禍亂之功,重之以死王事,宜加殊禮。其令公卿議制。」
{司馬師がなくなると、許昌から都へ運ばれ、天子が喪服で葬儀にのぞんだ、詔にいわく、「公(司馬師)は国を安定させた功績(ry)王事に殉じたのであって、特別な礼を加えるべし。公卿の協議で決めよ」}

>有司議以為忠安社稷,功濟宇内,宜依霍光故事,追加大司馬之號以冠大將軍,摎W五萬戸,諡曰武公。
(協議の結果、天下を救った功績により、霍光の故事に従うのがよろしいと決まり、諡を武公とした)

で、司馬昭の言う、>>217の内容が続く。
司馬懿、司馬昭ともに霍光なんだな、確かに…宣帝により一族どころか縁者関係者のきなみ皆殺しにされてるねぇ。
晋書だけで見るなら協議の結果が霍光に習ったもので、司馬昭の言葉だと司馬昭が霍光に習って変更するよう提案しているし
両方とも霍光にならったんなら、協議は何をを霍光に習ったか
漢書の該当項を見たんだが、眺めただけじゃ、判らなかったorz

諱のつけ方としては、基本的にその人物の人となりを表すものだと思ってたんだが何で文にしたか?が判らん。師は「協議の結果」だけど
司馬懿なら、文より宣の、広く公開する、古代の皇帝が座する部屋、皇帝の命令、そんな意味合いの方が、正直確かに似合…失礼
0220無名武将@お腹せっぷく垢版2012/12/11(火) 22:41:44.12
ただまぁ、晋が、「魏を補佐した功績」を強調しているのは確かだな。
「晋鼓吹曲二十二篇(軍歌曲みたいなもの)」以下一部引用

*霊之祥
>序:(ry)「《霊之祥》は,宣皇帝(司馬懿)の魏を補佐すること,昔の舜が堯に仕えるがごときであった事を(ry)」

>繼大舜,佐陶唐。讚武、文,建帝綱。
(大舜の意思を継ぎ、陶唐を補佐する。武文を讃え、帝綱を建てる)

大舜(舜)、陶唐(尭)は神話上における五帝の名前。
舜は尭を補佐して天下を治め、尭から禅譲を受けた。また、陳・田斉の祖でもある。実はこれも微妙なんだよなぁ…幽閉説もあるし

*宣輔政
宣皇輔政,聖烈深。撥亂反正,從天心。
(宣皇は政を輔佐し,聖烈深し。反乱をはねのけ反を正し,天心に従う)

あと>>215の司馬懿の諡についてだが、晋書の注に
>諡曰文後改諡宣文 各本皆作「諡曰文貞,後改諡文宣」。考異:「按禮志,魏朝初諡宣帝為文侯,景帝為武侯。文王表不宜與二祖同,於是改諡宣文、忠武。然則初諡文,無『貞』字也。禮志及文帝紀並稱舞陽宣文侯,宋書禮志同。此云『文宣』,亦轉寫之誤。」今據改。

というわけで、「文貞」をのちに「文宣」に変えたという説もあるが、文帝の上奏内容から、貞は誤字だろうというのが今の考え方らしい。
0221無名武将@お腹せっぷく垢版2012/12/11(火) 23:52:39.94
霍光の葬式は準皇族並の規模で盛大に行われたらしいけど、司馬懿も司馬師もそれくらいでかい規模で送られたってことかな

そもそも後半生(というか曹叡以降)西から東へ戦場を駆け巡った大将軍に文って諡号はどうなんだこれ
本人が文が良いとか遺言したわけじゃないだろうし
0222無名武将@お腹せっぷく垢版2012/12/12(水) 01:46:55.88
久々に三戦見てみたら懐かしいスレが復活してたんだな良かった

文って字は諡号としては格が高い方じゃ無かったっけか
歴戦の大将軍と言っても降したり領域拡げたわけでは無いし官職の一つなんだから文が相応なのではないかね
0223無名武将@お腹せっぷく垢版2012/12/13(木) 19:28:54.23
アク禁イヤンバカン
>>222
なるほど、皇帝なら周文王と武王、臣下なら周文公の文がまず最初に来る
司馬昭の上奏にもあるとおり漢でも重要だから、事実上のトップに最高級の称号を贈るのは、普通にありうるのか
0224無名武将@お腹せっぷく垢版2012/12/13(木) 21:58:00.30
あ、解除されてら。既に判っている内容も含むけど、大目に見てくれ

まず、曹操の短歌行は、少なくとも2つ現存している。其の一は有名な「對酒當歌」、其の二が「周西伯昌」。
原文と日本語訳は、「短歌行 其の二」で検索すれば出てくるので、ここでは略する。
この「周西伯昌」の最後の「晋文」が、司馬氏による晋王朝、司馬懿の諡号である文と一致している。

で、前に「周西伯昌」を訳したときは、
(まぁ偶然かもしれんが、当時も気づいた人はいただろう。晋書宣帝紀の「曹操は夢を見て、司馬氏がいつか曹氏に取って代わると予言した」という話は、この話から生まれた寓話かもなぁ。晋書のオカルトも、元ネタが有るならバカにできんぞ)、という所で止まっていた。

ところが「司馬昭が、晋公の称号をいったん断っている」「司馬懿の文を変えるよう上奏している」
つまり、「周西伯昌」が、作者の意図とは別に、魏晋禅譲の流れに影響を及ぼしている可能性が出てきた。

この問題に対し、「周西伯昌」側からのアプローチと、「司馬懿の諱変更問題」側からのアプロ−チが考えられる。

まずは「周西伯昌」についてだが、謎といえば謎が2つある。

1)史書の掲載
まず、晋書楽志に「周西伯昌」は掲載されていない。
(曹操の作品自体、「歩出夏門行」のうち、「艶」を削除した晋楽所奏《碣石篇》が、名無しさんとして掲載されているだけ。晋楽所奏として「對酒當歌」が改変されたものはあったようだが、掲載はない)

宋書楽志だと、其の一と其の二が逆。
ためしに、宋書楽志第三から、同じタイトルが複数ある作品を、掲載順に並べてみる。
左からタイトル、作者、歌いだしの部分を、宋書の掲載順に並べたもの(内は楽府詩集等、後世の主な掲載順)

短歌行 魏武帝詞 周西伯昌(2)>對酒當歌(1)
燕歌行 魏文帝詞 秋風蕭瑟天氣涼(1)>別日何易會日難(2)
秋胡行 魏武帝詞 晨上散關山(1)>顧登泰華山(2)
善哉行 魏文帝詞 朝日樂相樂(1)>上山采薇(2)>朝游多高臺觀(3)
善哉行 魏武帝詞 古公亶甫(1)>自惜身薄?(2)


善哉行 魏明帝詞 我徂我征(1)>赫赫大魏(2)

短歌行のみが、1と2が逆なんだよ。
まぁ宋書楽志自体、他の本が甄夫人作とする塘上行を曹操作と言ってたりと、詩集としては異質ではあるんだが。
なぜ逆なのか? については、後述。
0225無名武将@お腹せっぷく垢版2012/12/13(木) 22:16:51.28
2)「周西伯昌」に込められた志
当時の詩は、基本として、志(どうしても詩にしたいと思った理由、思いのたけ)を詠む。
曹操の短歌行其の一であれば、人材を求める志。歩出夏門行なら一応、「幸甚至哉!歌以詠志」。

「周西伯昌」の場合は、これが判りにくい。一見、故事の羅列だから。
なので、後世では忘れられた。文選、古詩源もそうだけど、「周西伯昌」の登場しない詩集が出てくる。
これが1)の掲載順に対する回答1。

しかし、曹操の作品は楽府、つまり宴会など人前で奏でることを前提に作られた。また、短歌行は、曹丕が曹操の追悼に使ったタイトルであり、ある意味重要な曲だ。
曹操の居城で、重要な曲を使って、歌い上げる必要があった「周西伯昌」の志は何か?

先行論文として、「正当性の主張と、自戒をこめたもの」とする説、「受命(漢魏禅譲)問題に対する、曹操の己の苦悩する志」とする説がある。
私が訳したときも、上記の論文と、孫盛説の「周囲に帝位をすすめられたとき、曹操は『天命が我にあれども、我は周文王となろう』といった」説から、「曹操の理想が周文王、現実が斉桓、晋文にだけはなりたくない」と解釈した。
あるいは、善哉行其の一や董卓歌詞、「宦官を滅ぼしても天下は変わらん」みたいな発言から、皮肉かと思った。

ただ、上記の説だと、曹操が自分のほかの作品で、周文王と周武王をとりあげないのは何故か?
(分析対象となる作品の母数が少ないけど、周文王と晋文は「周西伯昌」でのみ登場、周武王は登場0)
短歌行、苦寒行、で周公をあげたり、最晩年によまれた秋胡行其の一で「周西伯昌」にも出てくる斉桓の「正而不譎」を使って自分を慰めるあたり、曹操は初期は周公、後期は斉桓に親近感を懐いていたのではないか?
何より、自戒や自分の苦悩を、人前で、重要な曲を使って、歌う必要があったのか?

私なりに考えるのは、上記の説に加え、「臣下に対し、『禅譲の意義、漢魏禅譲の覚悟』を問いかけるもの」
この詩を発することで、魏を詐称者にしないよう、周囲に協力することを求めた。
この詩に答えるように、臣下から連判状や上奏が出て、曹操も受命問題に関する自分の敵味方を見分けられる。

だとすると、漢魏禅譲が済んでしまえば用済み(というか皇帝にとっては邪魔)だし、曹丕が自分の短歌行を、父への鎮魂歌にした理由もまぁ解決?
これが、1)の掲載順に対する回答2。

と同時に、こんな曲がぶんがぶんが流れていた朝廷で、「晋文」をそのまま名乗るのは、勇気がいる。
晋が成立した後も、詩に詳しい人間ならこの詩を思い出し、晋の詐称を思うだろう。特に八王の乱以降は。

ここで「司馬懿の諱変更問題」にみる、魏晋の禅譲問題が出てくる。
これについては、魏晋禅譲の時系列と、霍光の葬儀問題をまとめないと混乱するorz

先行論文も探したいけど、手がまわらん…また後で。

何にしても、この「周西伯昌」、下手すると漢魏と魏晋、2度の禅譲に影響した作品ってことになるぞ。
正直、何でこの作品があの「對酒當歌」と同じ短歌行なんだ?と思っていたが、違うね。對酒當歌とは別の意味で、短歌行に相応しいわ。
0226無名武将@お腹せっぷく垢版2012/12/14(金) 00:26:38.45
うーん…曹操の漢魏禅譲への考えは諸説あるからねぇ
その人がどの説に立つかによってかなり解釈は変わってくるのがまた大変だ…

素直に曹操の発言や詩の内容を読めば、自分はあくまで漢の忠臣でありたいと言ってるように読める
しかし荀ケの発言について正史で「不快に思った」という記述があるからそういう発言は建前だったと考えることも可能だ
ただ個人的に正史の「〜と思った」という記述については疑問がある(思っただけのことがどうして記録に残るんだ)
実際曹操は散々群臣たちから勧められつつも自分の代では禅譲に応じてないからな
禅譲にむけて水面下でいろいろやってる群臣たちへの心の叫びだったんじゃないかな、というのが個人的な意見

で、疑問なんだけどこの詩本当に魏王朝でしょっちゅう詠われてたのかな?
皇位簒奪の意思なんかなかったのに息子の代で奪っちゃいました☆って親父の意思に反してるからいろいろ問題があるような気がするんだけど…
むしろ積極的に詠われてて曹操に簒奪の意思はなかったって言うことが周知の事実だったら晋の時代陳寿が「荀ケの発言を不快に思った」なんて記述はありえない気がして
それとも曹丕が禅譲した時点で口ではああ言ってたけど実際は簒奪の意思が合ったと思われてたのかな?


あと司馬懿の諡号はいつ変えられたんだっけ?
司馬師の代か司馬昭の代かでまたいろいろ変わってくるような気がする
0227無名武将@お腹せっぷく垢版2012/12/14(金) 23:33:43.89
おっしゃるとおり、解釈は人によって異なる。
だから曹操の詩も、本来の意味と周囲の受け取り方両方を検討する必要があるが、特に秋胡行が曲者なんで、ちょっと置いとく。

ここでは、「周西伯昌」のうち、斉桓にもとづいて、「小白不敢爾,天威在顏咫尺」をベースにしている。
神聖な肉を賜わるとき、周の使者は「堂下で拝礼しなくてよい」と伝えた。これを桓公は断って、堂を降りて拝し、 堂に登って胙を受けた。あえて近づかずとも、天威は常に顔の傍らにあった。
この解釈で正しいならば、天子=皇帝とは限らない。天子の臣下に、もう一人の天子を置くのも答えだ。
「わざわざ皇帝にならずとも、天子にはなれる。それでもオマイらが禅譲させたいなら、禅譲を起こすことで何を天下に示すか、その意義と覚悟を決めろ」、曹丕の代は「その覚悟を忘れるな」、と言えばいいか?

何にしても、曹操は禅譲問題に関しては、これ、という自分の意見を明確に決めてないと思うよ。「俺的に」レベルの話だが、必要ではない事項を曖昧にしといて後は臨機応変、というのは法治的によくある話なので。
だから周囲は、曹操には簒奪の意思がないとも考えるし、あるとも考える。

斉桓も後世の評価がさまざまで、上記の肉を賜った話も、謙譲と言われたり、逆に野心のあらわれとも言われる。封禅の儀を行おうとして、管仲に止められたって話がある。
同じ儒でも孔子は斉桓を褒め称えているが、孟子はけなしているし、荀子は一応評価したうえで、小人の英雄であって見習うべき大人ではないと言っている。


短歌行が実際に魏で演奏されていたかについては、それが「周西伯昌」のことならNoだな。演奏するなら、まず曹丕の「仰瞻帷幕」、次があるとしても、「對酒當歌」だろう。
だけど、短歌行の曲が変わらない限りは、イコール「周西伯昌」の曲が流れることになると思う。

曹丕の「仰瞻帷幕」については、楽府詩集からの又又引きだが、

>“王僧虔《技?》雲:‘《短歌行》“仰瞻”一曲,魏氏遺令,使節朔奏樂,魏文製此辭,自撫箏和歌。歌者雲“貴官彈箏”

,貴官即魏文也。

あと、陸機が弔魏武帝文で言う、

>月朝十五[日]、輒向帳作妓。汝等時時登銅雀(爵)臺、望吾西陵墓田。

この二つが本物とするなら(偽説もあるので仮定になっちまうが)、曹操の遺言で、月はじめと15日には、それなりの規模の演奏があったことにならんか?
この全部で短歌行を奏でていたわけではないだろうし、曹丕が自ら奏でた理由や「しょっちゅう」の定義にもよるが、
まぁそういう環境では、「周西伯昌」を知らない人が新たに知ることはないが、知っている人は忘れにくいだろう、と思ってた。
0228無名武将@お腹せっぷく垢版2012/12/17(月) 19:34:27.63
>>224の件についてだが、晋書帝紀の1、2巻だけじゃ判らん
司馬懿の諡号・魏晋禅譲がらみの時系列を上げてみるテスツ。晋書 帝紀第1、第2から抽出。あくまで晋書ということに注意

嘉平
元年
 春正月、曹爽が魏皇帝とともに高平陵へ。司馬懿、司馬師、対曹爽クーデター。
 冬十二月、九錫の礼を加えられ、朝会において拝礼せぬことを許された。九錫は固辞。

二年
 春正月、魏皇帝が司馬懿に「洛陽に廟をたてる」よう命じる。司馬懿が病みがちのため、大事があるときは、魏皇帝が司馬懿の屋敷に訪れた。

三年
 春正月、王?の乱。
 夏四月、司馬懿が王?の乱を鎮圧。
  皇帝が使節を派遣、「司馬懿を相國となし,安平郡公に任ずる」。司馬懿は相国を固辞し、安平郡公を受けず。
 秋八月、司馬懿死去。
  皇帝は喪服で弔問。葬儀の威儀は漢の霍光の故事にならった。相国と郡公を追贈。
  弟の司馬孚は、故人の遺志を理由に、郡公および??車(始皇帝陵からも出土した銅車馬)は受けなかった。
(葬儀について、漢書霍光伝の該当部分抄訳:喪は皇帝、皇太后他お偉いさんが臨席した。色々賜った。棺を??車にのせた。諡を宣成侯にした。祠には村を置き、長く旧法のごとく守らせた)

 司馬懿が死去したとき
  議者「伊尹既卒,伊陟嗣事」、天子は司馬師に命じて、撫軍大将軍として政を補佐させることとした。
 九月庚申、司馬懿を河陰に埋葬。文と諡し、のちに改めて宣文と諡した。司馬懿の遺言>>203

四年
 春正月、司馬師が大將軍に。侍中,持節、都督中外諸軍、録尚書事。
  百官に命じ賢才をあげ,年齢の少長を明らかにし,窮者獨人を思いやり,廢滯(廃棄品、もしくは人)を整理。
  制度を変えようという意見があったが、詩経の故事をあげ、魏の制度のうち、軍事以外のものは変えないとした。

五年、呉、諸葛恪の侵攻。
0229無名武将@お腹せっぷく垢版2012/12/17(月) 19:35:11.39
正元
元年
 春正月、天子、李豊、張緝らにより、補政を司馬師から夏侯玄に移そうとする動き。
  司馬師、首謀者の李豊を捕らえ、また関係者を三族まで皆殺しにした。
 三月、司馬師、魏皇帝に皇后張氏を廃するよう密上奏。
  これを受け、魏皇帝は「周勃が呂氏を亡ぼし、霍光が上官桀を捕らえた」ことになぞらえ、司馬師の増邑を詔する。
  司馬師は受けず。
 ?、正月春の事件を受け、司馬師、密かに魏皇帝廃立を皇后に申し出る。
 秋九月、皇后、「今の皇帝が政治に親しまず、女色や芸人に溺れており、宗廟を奉るには相応しくない」とし、皇帝廃立の令を下す。
  皇后の令をうけ、司馬師は霍光の故事にならい、皇帝の印綬を取り上げ〔帝を〕斉王に。
  曹氏最年長の曹拠を皇帝にしようとするが、皇太后の意見により曹髦を皇帝にする。皇帝の格好や振る舞いを諌める。
 癸巳の日、曹髦、司馬師の位を相国とし、邑九千戸加増、大都督・仮黄鉞に昇進、参内の際には小走りしないこと、上奏の際には名前を名乗らないこと、履剣上殿を許す。銭五百万、帛五千匹を下賜。相国を固辞。
  司馬師、帝を諌める上奏文。皇帝は受け入れる。

二年
 二月、毋丘倹と文欽の乱。司馬師、死亡。
  司馬昭の上奏>>217
  大將軍に位をすすめる。輔政、劍履上殿。帝固辭不受。

甘露元年
 春正月、大都督,奏事不名。
 夏六月、高都公,地方七百里,九錫, 斧鉞,大都督,劍履上殿。又固辭不受。
 秋八月庚申、加假斧鉞、摯侮O縣。

二年
 夏五月〜 諸葛誕の乱
三年
 諸葛誕の乱鎮圧
 五月、晋公に封じられる。九錫,相國,晉國置官司焉。九譲し、止む。
 秋七月,先世名臣元功大勳の子孫を,才能に応じて登用するよう上奏。

五年
 夏四月、甘露2年5月と同じ詔。九讓して受けず。
 五月、曹髦が殺される事件。曹奐が皇帝になる。
 六月、改元。
0230無名武将@お腹せっぷく垢版2012/12/17(月) 19:42:16.68
景元
元年六月、二年秋八月甲寅、甘露2年5月と同じ詔。受けず。
四年
 春二月丁丑、甘露2年5月と同じ詔。受けず
 夏、蜀攻略開始
 冬十月、詔で司馬氏の功を称え、晋公とする

>故齊魯之封,於周為弘,山川土田,邦畿七百,官司典策,制殊羣后。惠襄之難,桓文以翼戴之勞,猶受錫命之禮,咸用光疇大コ,作範于後。
(斉・魯の封地は、周において広くなり、〜。(周)恵襄王の難のとき、斉桓公・晋文公は国を助けた労をもって、錫命の礼を受け〜)

  翼戴之労というのは、周宣王の臣下、山甫の話。晋盧湛《贈劉昆》「伊陟佐商。山甫翼周」。曹操の善哉行にも出る。
  司馬師はいったん晋公を固辞するが、司空鄭沖の発言を受け、受諾
 十一月、蜀降伏

咸熙元年
 三月己卯、公→王に進む
 夏五月癸未、天子は舞陽宣文侯に追贈して晋宣王とし、舞陽忠武侯(司馬師)を晋景王とした

二年
 八月、司馬昭死去、9月に諡文王

武帝授禅
 司馬懿を宣皇帝、司馬師を景皇帝。司馬昭を文皇帝。

読む限りでは、>>218の葬式の理由は、それでいいと思う。
司馬師が霍光の故事にならって皇帝を廃したことを、皇帝も天下も認めたことだと言える品

司馬懿が死去したころは安平郡公(これも判らん。宗室の諸王に与えられた爵位、郡王に準じるってことか?)の話が出ていた。
まだ晋とあまり関係がなかったため、文でも問題はなかった。
司馬師の死後、司馬昭が>>217を上奏し、晋公になり、死後に司馬昭が文王となった。
司馬昭を晋公にする詔の中で、周西伯昌で別々に分けていた斉桓晋文を同列にしている。
それを元に「周西伯昌と関係がある。晋文の名が斉桓と対等になることで、晴れて晋を名乗ることが出来た」とか言う事もできるが、ビミョー。

霍光伝「霍叔(霍叔処)封於晋。晉即河東,光豈其苗裔乎?」
史記と違い、霍光から晋が興るという立場であれば、司馬懿の時点で、晋は予測されうる事項になっている。
司馬師の斉王廃立のくだりが、漢書霍光の記述に似てるんだよなー。

つまり、偶然にしては色々とあてはまりすぎている。司馬師がなぞったんでもなければ、偽造を疑う。
資料が足りないので、正史や他の本(詩や文章)も探す必要があるんだが、気力ゲージ尽きてきたので保留。そのうちまた挑戦する
0231無名武将@お腹せっぷく垢版2012/12/17(月) 19:45:40.25
っと、誤解がありそうなので。
>>228
??車が化けているので、wikiへのリンク:ttp://ja.wikipedia.org/wiki/銅車馬
>>229
甘露3年の晋公は、まだ拒否している。

他にも間違ってたらスマソ
0232無名武将@お腹せっぷく垢版2013/01/23(水) 21:33:42.24
ここやまとめ読んでると自力で漢文読みたくなってるくるね
ただ日本も漢字文化圏だからこそ、漢文読めないなりに何となく意味は分かったりして、それも楽しいww
漢字って奥深いよなあ
とりあえず前スレの時からドキドキ五熟釜が気になってるから、自分はそれからだw
0233無名武将@お腹せっぷく垢版2013/01/24(木) 19:58:44.29
私は自分で読みはじめてみたよ
わからないことばかりではあるけど
少しずつ理解出来るようになってきてすごく楽しい!
0235無名武将@お腹せっぷく垢版2013/03/06(水) 05:16:17.40
独りで三国時代の漢詩を訳していると、時々投げ出したくなると同時に
三国志って本当に人気あるか?って思う

何で三国時代の文学を取り扱っている日本語サイトは、質量ともに少ないんだろう
昔はもっとあったけど消滅したのかな

光栄さんとか三国志検定とか、あんなに反応を掘り起こせるのは凄いわ
たとえ悪い反応であってもね
0238無名武将@お腹せっぷく垢版2013/04/20(土) 22:14:37.47
最近知ったんだが「画餅」って曹丕の言葉だったんだな
曹丕の時代から現代にまで伝わってる言葉があるのって、考えてみればすごいことだよなあ
典論で書いてたのはまさにこのことなんだね

そしてやっぱり食い物なのかwとなんか笑ってしまったよw
0239無名武将@お腹せっぷく垢版2013/04/21(日) 03:02:01.77
>>238
「画餅」は曹叡の言葉だよ
出典は正史の盧毓伝にある詔
『全三国文』では曹叡の言葉として載せていて
『通典』で曹丕の詔とされているのは誤りだとしている

でもまさしく曹丕が『典論』で言いたいことは
そういうことでもあるのだろうね
0240無名武将@お腹せっぷく垢版2013/04/23(火) 08:42:24.05
>>239
曹叡の方だったのか……訂正ありがとう!
食べ物関連だからって安易に曹丕だと思ってたww

でも伯仲の間とか左顧右眄とか、当時の人の言葉が今の時代にまで残っているっていうのはやっぱりすごいね
そういうのはある意味、その人がその時代を確かに生きていた証でもあるのかなって考えさせられるよ
0242無名武将@お腹せっぷく垢版2013/04/25(木) 22:26:31.87
改変も作者混同も多いしな
七歩詩の3パターンとか曹操と曹丕の善哉行とか魏晋楽所奏とか
0243無名武将@お腹せっぷく垢版2013/04/25(木) 22:42:02.86
昔の人は今ほどは原典を重んじないから「この方がいい」って
自分で勝手に手直ししちゃう場合とか結構あるんだよね
0244無名武将@お腹せっぷく垢版2013/04/27(土) 12:30:18.77
そうだね
しかも正統な後継者と自負している場合ほど、書き足すから質が悪い
注ならともかく、原文部分を追加するから、さぁ大変

そういう面では、儒教も邪魔だな
青青子衿は学生同士の親交を詠んだとされていたが、朱子注等で男女の密会を詠んだものとされたせいで、曹操短歌行の対酒當歌まで女への思慕が隠されているとか言われることになる
詩繋がりで言うなら、浮雲翳日も、孔融と古詩19首の行行重行行、古詩19首の方が古いのに、中には孔融が出典とか言う例もでてくる
0245無名武将@お腹せっぷく垢版2013/06/07(金) 14:38:14.01
   | \
   |Д`) ダレモイナイ・・オドルナラ イマノウチ
   |⊂
   |

     ♪  Å
   ♪   / \   童子、又童子
      ヽ(´Д`;)ノ    刀を銜んで游いで江を渡る
         (  へ)    岸上の虎を畏れず
          く        但水中の龍を畏れる


   ♪    Å
     ♪ / \   わらべ、わらべ、また、わらべ
      ヽ(;´Д`)ノ   刀を口にくわえて江を泳いで渡る
         (へ  )    陸上の虎なんてコワクナイ
             >     ただ水中の竜だけがコワイノサ

   | \
   |Д`) <晋書五行志等に掲載されている、孫皓の時代に歌われた童謡ですね。
   |⊂    これを聞いた晋武帝が、呉討伐総司令官の王濬に龍驤将軍を与えてみたら
   |       呉討伐軍が、破竹の勢いになっちゃったと。

   |\
   |`) <童謡のノリで追加されちゃった将軍位ってのも、アレですな
   |
   |

   |
   | ミ  ピャッ!
   |
0246無名武将@お腹せっぷく垢版2013/06/07(金) 18:26:42.68
>>245
童謡のノリで追加されたんじゃなくて
「童謡を流行らせてその童謡の予言を実現させて住民の動揺を誘う」という
古代〜中世では有名な謀略だろ
0247無名武将@お腹せっぷく垢版2013/06/08(土) 21:28:03.32
| |д゚) マジレスktkr。
| と ) 童謡が政治工作を兼ねた例については、古くは堯の鼓腹撃壌(康衢童謡)からして有名ですな。

| |Д`) でも全部が全部、当時の皇帝や権力者が主人公と言うわけではないし、
| と /  勿論彼らにとって、都合が良かったわけでもないデスナ。

| |-`) 何にしても調べてみると、歴史の裏面、童謡が広まった背景も見える気になれマスね。
      よく笑い話になっている司馬懿の讌飲詩も、景初中童謠と合わせると、合わせなくてもチョイ意味深トカ、でもナイトカ。

| ミ  ピャッ!
0251無名武将@お腹せっぷく垢版2014/03/03(月) 09:19:04.79
今日はひな祭りだな
事実かどうかはともかく、上巳と重陽の日付を定めたのが曹丕と知ったのはこのスレのまとめがきっかけだったw
0254無名武将@お腹せっぷく垢版2014/06/09(月) 16:48:27.84
典論の
譬諸音樂、曲度雖均、節奏同検、至於引氣不斉、巧拙有素、雖在父兄、不能以移子弟。
という部分は色々考えてしまうね
0256無名武将@お腹せっぷく垢版2014/07/12(土) 14:48:43.20
曹操の短歌行を受けて曹丕が詠んだ短歌行比べると
雄大かつ高らかに大志を歌いあげる曹操とその父を喪った悲しみとそれを継がなければならない苦悩を繊細に綴る曹丕の作風の違いがわかるし
同じ宴会の時に詠んだ曹丕と曹植の歌を比べても
こんなに楽しい日々が永遠に続けばいいのに!という前向きな曹植と人間は有限だからこんな楽しさも一瞬のことなんだなぁという無常感を感じる曹丕の視点の違いが分かる


骨は何も感じないんだから派手な葬式や大きな墓は不要という薄葬令の記述や
人間なんてすぐ死んでしまう有限なものっていう詩や手紙に書かれてる曹丕の考え方が
なんとなく仏教的な無常感に近いように思えてならない
それくらい人間をちっぽけで無常なものだと考えてるからこそ、その人間の考えや存在した証を未来に伝えることができる文章の無限さを大きく評価した結果が
例の>>253の言葉なんじゃないかなぁ、と久しぶりに長文で語ってみる
0257無名武将@お腹せっぷく垢版2014/07/27(日) 16:19:08.10
 んー。こちらも長文でいくか。言ってることはあんまりかわらんけど

●無常の認識について
 仏教の雪山偈や三法印(四法印)の諸行無常について。
 単に命が短いというだけなら、古今東西よくある認識にすぎない。
 形ある物は変わる現実を正しく認識しよう。認識せず、若さや美しさが永遠に続くと思うから、考えを裏切られて苦しむ。
 古詩十九首で言う「生年不満百、常懷千歳憂」、ここまでが、仏教の無常。

 曹丕の作品は、感情的な面はあるが、折楊柳行(西山一何高)の後半を見るに、現実を認識した上での悲しみであって、裏切られて悲しむ無常とは違うな。
 むしろ寿命の限界を認めた上で限界まで生きようという、曹操に似たというか、似せた印象を持っている。
 芙蓉池作(乘輦夜行遊)の「壽命非松喬。誰能得神仙。遨遊快心意。保己終百年」、百年というのも、左氏伝の中寿をさすもので、つまり古典から引用する当時の風潮から来るものともとれる。

 仏教、曹操、曹丕とも、無常という事実を認識してはいる。違うのは、どうすれば乗り越えられるか、という回答。
 文章に不朽不変を見出したのが曹丕だと。
0258無名武将@お腹せっぷく垢版2014/07/27(日) 16:21:18.68
●典論-論文の特徴
 まずは以前にこのスレであがった訳 ttp://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/so_hi/tenron.html
 特徴は、「六朝芸術論における気の問題(ttp://hdl.handle.net/2433/66784)」でも指摘されたように、気の概念を文に持ち込んでいること。

・人は何らかの「気」を、生まれつき持っている
 「徐幹は時に斉気有り」「孔融は体気高妙、人に過ぐる者有り」、「輿呉質書」の「逸気」
・気は、人によって違う。>.503で指摘されているとおり、親子兄弟でも違うし、勉強してどうこうというものでもない
 「文は気韻を以て主となす。気韻の清濁は始めより定体あり」
 これは努力しても父親のようにはなれないという考えもあるか。曹丕は父親作と疑われる作品(善哉行)があるぐらいで、似せた説の根拠のひとつ。
・気は文章に反映される
 たとえば斉気を持つ徐幹の作品には、斉気が反映される。

 最後に、おなじ文でも栄達目的の文は駄目で、後世に残すには、千年後に残そうという意思が必要とある。
 これは詩人玉屑(宋代)では、「魏文帝曰『文、以意為主、以気為輔、以詞為衛』」、ようは意志を主とし、気を補佐とし、詞文が周りを囲む(容器)という概念だと指摘されている。

 曹丕がここで触れたのは、文章にも、人間の体と魂のような概念を見出せる、というもの。
 曹丕の作品は短歌行、寡婦、秋胡行など、楚辞の単語を引用している。
 楚辞は、国殤に「身は死ぬも精神は霊となり、魂は鬼雄となる」とあるように、肉体と魂の違い、魂や精神の永続性を基点に置いている。
 文章は、翰墨という体と、意気という魂を持つ。
 人の体は朽ちるけど、文学は不朽の形に永遠の魂がこもるから、不朽であり大業となりうる。
 なのに人間の寿命と一緒に消えてしまう栄楽をもとめて書くから、文章に魂がこもらず、脱け殻だけが残り、散逸していく。
 あるものを、あるがままに評価できるからこその、合理的な文章だと思っている。
 居るかどうかも判らない仙人と違い、文章が実際に千年以上受け継がれてきたという意義と実績を認めるから、その不朽と大業を評価したのが典論だとね。

 ちなみに曹植が論文の章で挙がっていないのは、記述された時は曹植が生存しているため、肉体の定命と魂の永遠を対比させる例として不適切だからという一面もある。
 まとめに掲載されていないぽい折楊柳行、善哉行の原文と訳、解釈は、今回は長くなるのではしょる。必要ならうpるけど。
0260無名武将@お腹せっぷく垢版2014/10/13(月) 12:45:36.28
人のいる気配もないが、取り敢えずまとめサイトに無かった曹丕のやつ置いていく
白文だけでスマンけど
訂正やら補足やらあったらしてね

「善哉行 其二」
有美一人,婉如清揚。
研姿巧笑,和媚心腸。
知音識曲,善為樂方。
哀弦微妙,清氣含芳。
流鄭激楚,度宮中商。
感心動耳,綺麗難忘。
離鳥夕宿。在彼中洲。
延頸鼓翼,悲鳴相求。
眷然顧之,使我心愁。
嗟爾昔人,何以忘憂。

「猛虎行」
與君媾新歡,托配於二儀。
充列於紫微,升降焉可知。
梧桐攀鳳翼,雲雨散洪池。

「丹霞蔽日行」
丹霞蔽日,彩虹垂天。
谷水潺潺,木落翩翩。
孤禽失群,悲鳴雲間。
月盈則沖,華不再繁。
古來有之,嗟我何言。

「清河作」
方舟戲長水,湛淡自浮沈。
弦歌發中流,悲響有餘音。
音聲入君懷,淒愴傷人心。
心傷安所念,但願恩情深。
願為晨風鳥,雙飛翔北林。

「於明津作」
遙遙山上亭,皎皎雲間星。
遠望使心懷,遊子戀所生。
驅車出北門,遙望河陽城。
0261無名武将@お腹せっぷく垢版2014/10/14(火) 21:39:24.52
乙です
とりあえず「善哉行 其二」は、其二ではないとも言える
宋書樂志には記載されておらず、あとから追加されている説もあるから

ちなみに樂府詩集では其の一、其の二といった区分はされていない
中央研究院漢籍電子文獻での順番は、朝日樂相樂→上山採薇→朝遊高臺觀→有美一人の順

(以下、樂府詩集からの又引き)
>《荀氏録》所載十五曲,傳者九曲。武帝「朝日」「自惜」「古公」,文帝「朝遊」「上山」,明帝「赫赫」「我徂」,古辭「來日」,並《善哉》
《樂府解題(樂府古題要解とも)》
>魏文帝辭云『有美一人,婉如青揚。』言其妍麗,知音,識曲,善為樂方,令人忘憂。此篇諸集所出,不入樂志。
0262無名武将@お腹せっぷく垢版2014/10/14(火) 21:46:38.15
ネット上をざっと検索して訳がなかったもののみ、訳。前に別のwikiで仮訳したもので悪いが

*善哉行(有美一人)瑟調曲
美しき一人あり。婉如にして清揚。
うるわしき姿にして巧笑を浮かべ。心膓をなだめ和ませる。

音を知り曲を識り。善く樂方を為す。
哀弦のひびきは微妙にして。清気は芳しさを含む。

鄭曲は流れるように、楚曲は激しく。宮音が過ぎ商音へと変わる。
心に感じ耳を傾ければ。綺麗な調べは忘れがたい。

離鳥の宿る夕べ。彼の中洲に在り。
くびを伸ばし、翼で身を叩き。悲しく鳴いて相求める。

心引かれて、顧みれば。我が心を愁いに沈ませる。
ああ、なんじ、いにしえびとよ。何をもって憂いを忘れしや。

*於明津作
遙遙たり山上の亭,皎皎たり雲間の星。
遠景は心をして懐古せしめ,遊子は生まれし所を恋しがる。
車を驅せ北門を出で,河陽城を遙望す。
0264無名武将@お腹せっぷく垢版2014/10/14(火) 22:02:13.82
( ゚∀゚)・;'.、グハッ!!

……はい、その三國志7の漢詩大会の項(+三国志の漢詩wiki仮)でやんす>前に別のwikiで仮訳
閲覧および過大評価有難うございまつorz
0265無名武将@お腹せっぷく垢版2014/10/15(水) 00:51:38.55
すげースレに人がいるww
乙です!

>心引かれて、顧みれば。我が心を愁いに沈ませる。
>ああ、なんじ、いにしえびとよ。何をもって憂いを忘れしや。
漢詩には全く詳しくないけどこの辺読むといかにも曹丕っぽい感じだなーと思うw

曹丕の詩なら於玄武陂作が好きだ、何となく
0266無名武将@お腹せっぷく垢版2014/10/15(水) 19:53:01.25
>>265
兄弟で一緒に出かけて、アチコチの景色をみてたら、悩み事が吹き飛んだよ、って作品でしたっけ

曹丕はあと二十年は長生きして欲しかったです
史書の記述も違っていたでしょうし、老境に入った曹丕の作品も見たかったし、
陳琳に代筆してもらった手紙を曹丕にあっさり見抜かれた上にpgrされて、言い訳を陳琳に代筆して貰った曹洪さんみたいな被害者が他にも…
0267無名武将@お腹せっぷく垢版2014/10/31(金) 18:46:31.09
>陳琳に代筆してもらった手紙を曹丕にあっさり見抜かれた上にpgrされて、言い訳を陳琳に代筆して貰った曹洪さん
曹洪ワロスww
借金の話しか知らんかったけどそんなエピソードまであるのか

曹洪と曹丕ってそもそもあんまり相性よくないんだろな
逸話見る分には面白いけどw
0268無名武将@お腹せっぷく垢版2014/11/09(日) 19:22:46.42
>>267
文選に掲載されている為曹洪與世子書(為曹洪與魏文帝書)という奴ね
じっさいには曹洪か陳琳か断言できないけど、文選の編集者は陳琳の代筆と判断したってこと

ちなみに仮訳はこんなん↓

 十一月五日、洪が申しあげます。さきに初めて賊を破り、ついつい喋ってしまい、誇大報告が過ぎたようです。
 九月二十日の書を戴き、拝見し喜笑し、手に取ったまま飽きず、陳琳に頼み返事を書いてもらおうと思いましたが、琳も多事多忙にして作ることができません。
 ただ若君に楽しんでいただきたく、ゆえに自ら老夫の思いを尽くします。
 言いたい事が多すぎて、いちいち述べるのも何ですから、おおまかな要点だけあげます。笑い話の話題にして下さい。

 漢中の地形は誠に堅固なこと、四方の嶽や三塗山も及ばないほどです。
 敵側は、数万の精兵が高所にたてこもり要所を守っております。一人が戟を振れば、万人が進むことも出来ません。
 しかし我が軍がこれを進むこと、鯨が小さな網からはみ出し、元気の良い獣が魯の薄絹を破るが如し。などといっても、この容易さを表現するには足りません。
 王者の軍隊は出征あり戦いなしと言えども、不義にして強いものも、古から常にいるとおりです。
 故に唐虞の時代、蛮族が夏の地を乱し、周宣王の最盛期ですら、大国に仇なすものがおりました。詩書に掲載された欺きも、その難しさを言うものです。
 いずれも険阻の地を拠点として、中原からの遠さを当てにしていました。ゆえに難しい、全く良く言ったものです。
 ここで改めてこの地形を察するに、中才(中ほどの才能)の武将が篭れば、一挙に落とす事はほとんど不可能と言えましょう。
0269無名武将@お腹せっぷく垢版2014/11/09(日) 19:24:45.24
 頂いた手紙には敵の妖感の罪が陳列され、我が王軍の広く溢れんばかりの徳があがっております。いや全く手紙に記された通り。
 これこそ夏殷の滅びた理由、三苗氏が討たれ有扈氏が夏啓に征服された理由、吾々の勝つ理由、敵の破れる理由であります。
 そうでなければ殷と周はどうして敵対したでしょうか。
 昔、鬼方は聾味、崇虎は護凶、殷辛は暴虐、三人ともみな罪人の中でも下に置くべき存在です。
 しかし殷の高宗は三年かけて異民族を討伐し、周の文王は退脩の軍を率い、武王は盟津に再戦して勝利し、しかる後に戎を倒し殷に勝ちました。
 いまだ星流景集、旋奮雷撃、山河を長駆し朝に到着して暮れに勝つこと、我が軍のごとき者はおりません。
 こうしてこの他を見ますに、敵はもとより下愚に及ばず、すなわち中才の守りではないことは明らかです。

【来命】曹丕からの手紙?
【鬼方聾昧】鬼方は旬奴、聾味は暗愚
【崇虎護凶】殷の臣、崇侯虎
【殷辛】殷最後の暴君
【文王〜】崇侯虎の乱を聴き、文王は征伐に向かったが、三旬たっても降伏しなかったので、いったん退いて徳を修め力を蓄え、また討伐した

 敵将が中才か否かと言われれば、否と言えます。
 しかるに若君の手紙を拝見しますに、「思うに敵の悪は熟しており、古の孫武、田単、墨子、?の類がいたとしても、これを救う事はできまい」と。
 密かにこれを疑うております。
 なんなれば古の用兵は、敵国が乱れたと言えども、なお賢人が居れば討伐しなかったものです。
 ゆえに三仁が未だ去らないうちは武王は軍を返し、宮奇が虞国にいるうちは晋国も軍事を行なわず、季梁が在るうちは楚も謀略をかけませんでした。
 賢者らが他国に、或いは野に出奔し退いたとき、三国は廃墟となりました。
 国に道がなくとも、人がいれば救うべきことは明らかです。
 墨子の守りは、帯をめぐらせて作った垣でも、高くして登ることも出来ないものです。箸を折って作った械としても、硬くて入ることも出来ないでしょう。
 もし陽平関に防ぎ、石門鎮に拠り、八陣の列を並べ、斉将田単が牛の尾に火をつけ敵に走らせれば、どうして敵の崩れ崩壊しないことがあるでしょうか。
 もし(若君の手紙にあるように)守将の巧拙は関係なく、城を攻めるに全軍で一気に城壁をよじ登るべしと言うならば、公輸はとうに宋城を凌ぎ、楽毅は即墨を落としていたでしょう。それが出来なかったのは何故でしょう。
 墨子の術、田単の智が賞賛するに足らないといった評価は、私はまだ聴いたことがありません。
0270無名武将@お腹せっぷく垢版2014/11/09(日) 19:28:39.18
 さて。高唐(斉国の都市)を過ぎるものは王豹の歌に習い、唯換に訪ぶ者は藻?の綵を学ぶ(郷に入れば郷に従う)と聞いたことがあります。
 このごろ益州に入ってからは、司馬楊王の威風を仰ぎ、子勝の仁徳をもって文をしたためたいと志しております。ゆえにすこぶる文辞をなすこと、昔と異なります。
 もしや、魯人が孔子を知らずに軽んじたように、私の文章は人を雇って書かせたものだと言い合っていませんでしょうな。どうしてそんなことを言うのですか。
 それは駿馬が耳を野外で垂らし、鴻雀が翼を湿原に休ませるようなものです。
 これらの誤解をするものは固より庭園の凡鳥、厩の外にいななく駄馬のようなものです。
 馬の筋肉を鍛え、或いは強く翼を奮い、高く飛び、清い空に身を浮かべ、千里を見下ろすに及んで、ようやく他人は翼を晨風に借り、足を六駁に借りたのではないと理解します。私の文辞も同様です。
 恐れるのは、若君が、いまだ私の言を信じないで、大いに笑い飛ばすようなことであります。以上、洪が申し上げました。

【高唐】孟子「綿駒高唐に処りて云々」
【推換】唯河、換河。この間の地域では、藻績(あやぎぬ)が特産
【司馬楊王】司馬相如、楊雄、王褒。いずれも蜀の文人
【子勝斐然】子勝は墨子公孟篇、斐然は文章。論語に「斐然として章を成す」

原文はタイトルで検索すれば出るから略。適当に入力したものなので、誤字とかあったらスマン
0271無名武将@お腹せっぷく垢版2014/11/09(日) 22:52:15.25
曹洪の曹丕への謝罪文もそうだけど、
どこか人を食ったようでもあり、近しい関係でなければ出来ないような文面だと思う。
例の曹洪死罪事件てさ、ブック説ってないのだろうか。2代目当主権力誇示のための。

皇帝「アイツを死刑にしてやるーーッ」→家臣や親族による諫言「◯◯は先代よりの功臣」→皇帝「じゃあ、やーめた♪」
って結構、お決まりのパターンじゃないかな。実際に鮑ナントカさんみたいに殺されてしまったヒトもいるけどww
0272無名武将@お腹せっぷく垢版2014/11/10(月) 14:15:26.75
>>271
>近しい関係でなければ出来ないような文面

同感です。

>例の曹洪死罪事件てさ、ブック説ってないのだろうか。2代目当主権力誇示のための。

ブックなど政策上の態度+権力抗争の一環でしょうね。

前漢に王族の反乱が起きたことから、後漢は王族抑制政策上をとりました。
後漢は外戚と宦官の抗争がおきたことから、魏は王族や宦官の抑制政策をとりました。
曹丕は夏侯氏、曹叡は血の繋がりが弱い曹氏に権力を与えているので、外戚によってバランスをとろうとしたのかもしれません。

これに対し、曹植は周代の宗族政治に戻れ、兄弟のなかで不満をもった者が謀叛をおこすぞと恫喝めいた文章を送っています。
これも同族に甘えた馴れ合いの一種と言えます。
こうした馴れ合いは必要な面もありますが、ある程度は厳しくしないと、他の家臣に示しがつきません。
0274 【かん吉】 垢版2015/01/03(土) 09:58:52.89
>>268
遅ればせながら乙です
何かこれだけ読むとそんな仲悪いって感じしないなw

手紙って人柄なり本音なり思いっきり出てて、詩歌とまた違う面白さがあるから好きだ
0275無名武将@お腹せっぷく垢版2015/03/04(水) 07:34:49.35
上巳記念カキコしようと思ってたのに忘れてた

酒にむかいてはまさに歌うべし(´・ω・)ノ▽甘酒ウメェ
0276無名武将@お腹せっぷく垢版2015/07/26(日) 10:00:34.97
>>256
>こんなに楽しい日々が永遠に続けばいいのに!という前向きな曹植と

それ前向きっていうんだろうか…
0277無名武将@お腹せっぷく垢版2015/08/01(土) 20:24:52.68
>>276
当時の公讌詩は、宴の見事さを詠んだうえで、宴の主人の栄光を詠んで〆る傾向があるから、前向きだと解釈するのは普通にアリだと思うよ

ただこの作品が場面上前向きなのであって、曹植の作品傾向が前向きなものかどうか、などとは別の話だな
0282無名武将@お腹せっぷく垢版2016/02/12(金) 07:49:12.58
三國志13で、演義の「遷帝于長安,以應童謠。近日街市童謠曰『西頭一個漢、東頭一個漢、鹿走入長安、方可無斯難』」を元にしたイベントがありました

探せば他にも文学関連の会話があるかもしれないけど、演義を根拠にしているみたいだから、三國時代の文学と、ずれてしまうのかな
0284無名武将@お腹せっぷく垢版2016/03/03(木) 23:00:14.42
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0291無名武将@お腹せっぷく垢版2016/04/14(木) 01:16:05.17
     キ        //   /::::: //O/|      /
      ュ     / |''''   |::::://O//|     /
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         ヽ /\  ヽ___ノ / . へ、,/
        /  ×    /  { く  /
        く  /_ \   !、.ノ `ー''"
  /\        ''"  //
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 |\ /|\ ̄
   \.|
0292無名武将@お腹せっぷく垢版2016/04/26(火) 01:27:28.82
ダンソン!
フィーザキー!
ドゥーザディーサーザコンサ!

…ニーブラ!

アパーアナァーガァーマーポー!
0296無名武将@お腹せっぷく垢版2016/05/25(水) 20:49:49.25
ネットの同人訳で、明らかに訳が間違っている本が見受けられるけど、こんなんでも評価する人がいるのか…
検索したり少し中国語をかじれば、もっと質がいいものを只で読めるのに
0300無名武将@お腹せっぷく垢版2016/06/30(木) 10:15:06.86
 
 
    膨張する集団の頂点に君臨
0301無名武将@お腹せっぷく垢版2016/07/16(土) 22:17:33.77
ホシュ

何かこの人の漢詩読みたいって居るのかな
手持ちはソウソウとかオウサンとかショウカイとか魏面子になっちまいます
0303tester垢版2016/07/22(金) 20:54:03.22
うーん。量が多いので誰か絞れるといいかなと思ったんですが。ためしに幾つかリストあげてみます?例として曹操楽府

短歌行
  其之一:短歌行(對酒當歌) 其之二:短歌行(周西伯昌)
 歩出夏門行(隴西行、碣石篇)
  序:艶(雲行雨歩)
  其之一:觀滄海(東臨碣石)
  其之二:冬十月(孟冬十月)
  其之三:土不同(郷土不同)
  其之四:亀寿雖(神亀寿雖)
 善哉行
  其之一:善哉行(古公亶甫)
  其之二:善哉行(自惜身薄祜)
  其之三:善哉行(朝日楽)※作者を曹丕とする説あり
 気出唱
  其之一:気出唱(駕六龍)
  其之二:気出唱(華陰山)
  其之三:気出唱(遊君山)
 秋胡行
  其之一:秋胡行(晨上散關山)
  其之二:秋胡行(願登泰華山)
 薤露(惟漢廿二世)
 苦寒行(北上太行山)※作者を曹丕とする説あり
 蒿里行(関東有義士)
 却東西門行(鴻雁出塞北)
 對酒(對酒歌)
 度關山(天地間)
 精列(厥初生)
 陌上桑(駕虹蜺)
 謡俗詞(甕中無斗儲)
 董卓歌詞(徳行不虧鈌)
 塘上行(蒲生我池中)※作者は曹操他諸説あり
 滄海賦
 登臺賦
 鶡雞賦序
 有南篇
 城窟行
0304tester垢版2016/07/22(金) 21:00:06.86
訂正
 城窟行→飲馬長城窟行
0305tester垢版2016/07/22(金) 21:11:17.52
みたいな感じで、手持ちは
 曹操、曹丕、曹植、曹叡
 王粲、応瑒、阮瑀、徐幹、陳琳、劉
 応璩、阮籍、何晏、繆襲、鍾会、甄夫人、左延年
 韋昭
 前漢武帝、李陵他、古楽府、古詩十九首
 張衡、宋子侯(馬子侯)、蔡邕、孔融
 諸葛亮、関羽
 傅玄、陸機、潘岳、羊祜他

以上、文選と古詩源、あとは楽府詩集から銅雀台の初音ミクとか
0307無名武将@お腹せっぷく垢版2016/07/23(土) 17:00:35.94
急に人が現れた感w

ぼんやりした意見で申し訳ないけど
個人的にその漢詩を読んだ人の特徴や人となりが表れてるようなのがあれば読んでみたいな
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