【文永】元寇の考察【弘安】
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モンゴル帝国による未曾有の侵略を2回にわたって撃退し、完全独立を守り抜いた鎌倉幕府の
日本防衛戦争を考察するスレ 装備こそ高水準だが、明らかに死ぬとわかってて突っ込んできて暴れ回ったり、
夜中に首狩りに来たり、モンゴルにとっちゃキチガイ族蛮みたく映ったかも 王ツ『汎海小録』
「兵杖には弓刀甲あり、しかして戈矛無し。騎兵は結束す。殊に精甲は往往黄金を以って之を為り、珠琲をめぐらした者甚々多し、
刀は長くて極めて犀なる(するどい)ものを製り、洞物に銃し、過。
但だ、弓は木を以って之を為り、矢は長しと雖えども、遠くあたわず。人は則ち勇敢にして、死をみることを畏れず」
鄭思肖『心史』
「倭人は狠、死を懼れない。たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。勝たなければみな死ぬまで戦う。戦死しなければ、
帰ってもまた倭王の手によって殺される。倭の婦人もはなはだ気性が烈しく、犯すべからず。倭刀はきわめて鋭い。地形は高険にして入りがたく、
戦守の計を為すべし」 女が気性が激しいというのは北条政子の伝聞かな?
>>6
鎮西の武士たちは、そんな神風攻撃みたいなことはしてないよ。
勝てるから手柄を狙って斬り込んだのであって 『八幡愚童訓』『八幡ノ蒙古記』ばかり重用するから元寇の認識がおかしくなる。
夜中に敵船に攻撃をかけたり、そんなネチネチした攻撃なんて武士の真骨頂じゃない。
元側の資料『元史』『高麗史』などを見れば、大軍と大軍の衝突による大規模な集団戦が
日本軍と元軍との間で行われ、東路軍の総司令官の洪茶丘が武士に追い掛け回されたという
記録があるのに、『八幡愚童訓』が武士が少人数で奇襲をかけたことばかり強調してるから
元寇における武士=ゲリラ戦法みたいな変なイメージがついてしまってる。 >>11
学者さんたちって今まで徹底的に軍事問題について考えることを避けてきたから、「ゲリラ戦法」についても
よく理解してないんだよね。
ゲリラ戦法って敵軍と正面からの決戦を避ける戦法だから、それによって例えば文永の役のように
博多湾から上陸した元軍を1日で撤退に追い込んだり、弘安の役のように2ヶ月間も上陸を阻止したり
出来る性質の戦法じゃないのに。 元軍の百戸・張成の墓碑文にも「鷹島に元軍が至ったのを見て、日本軍が集結して
攻撃を仕掛けてきて、日を以って夜をついで戦い尽くした。明け方、日本軍は引き上げていった」
と言ってるように日本軍は「集結して」、元軍船団の正面から攻撃を仕掛けて「日を以って夜をついで」
戦闘するなど、明らかに夜中にこそこそ少人数が切り込んできたゲリラ戦法なんかでは無いな。 夜に日本刀持った人が自分の乗っている船に乗り込んできたら
怖いな((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル スペインの無敵艦隊に勝ったイギリスのエリザベス1世は世界史の重要人物としてみんな知ってる。
でも、当時のスペインなんて北条時宗が勝ったモンゴル帝国に比べれば全然大したことない。
無敵艦隊は130艘程度だけど、弘安の役のモンゴル艦隊は4400艘。
無敵艦隊は兵員2万人程度だけど、弘安の役のモンゴル軍は14万人。
エリザベス1世よりも北条時宗の方が遥かに偉大な功績残してるのにね。 >>18
まあ、欧米人にとって東アジアの戦史になじみが薄いのは仕方あるめえ 欧米史観がまだ跋扈してるからな
そろそろ欧米中心から日本に移す必要がある 「モンゴルは日本を本気で征服する気はなかったのに鎌倉幕府の外交のせいで攻めてきた」
みたいな滅茶苦茶なこと言い出す奴が最近増えてきた気がする。
モンゴルは世界中のすべての国を征服する気だったのに。
何で元寇ってこんな嘘だらけなんだろ? >>8
面白い資料ありがとうございます。
ネットで見れるソースがもしあったら教え下さい。 >>23
wikiで「元寇」の脚注見れば関連資料はほぼ揃ってるよ
ちゅーか、資料に関しては学術書より充実してる 編集者の主観を極力排したかったらしっかり引用されている
史料のほうを中心に見ればいいしね
それくらいあそこは充実してるな 蒙古は差別語、モンゴル襲来と言おう。
朝日新聞がモンゴル留学生連れてきて記事にしてた。 22
だな
日露戦争の勝利を、露に脅威する国々が感謝したように
モンゴル撃退での日本を、西側諸国も感謝していい。
全世界を放牧場にしようとしていたのだから >>26
普通に元寇と言えば何の問題も無いのに朝日はアホだな 自分の住んでいる郷里を蹂躙されて指をくわえているだけの国民がどこに
いるか。 >>28
歴史的に長く使われて来た、蒙古と言う言葉を使用出来なくすることで歴史資料の利用を難しくして
知識、記憶の伝承を断ち切り歴史の連続性、過去と今の自国が同一の国だと言う認識を失わせて、
歴史を断絶させるのが目的としか思えないんだよな。この手の左翼の行動って
歴史が細切れになってしまえば、国が入れ替わったりする事への抵抗も少なくなるし革命(w も、やりやすくなると思ってるのかな。 アカ日新聞では「蒙古襲来絵詞」も記事の中で
紹介できなくなっているのかな・・・? 元寇だろうが日清・日露の戦役だろうが自国内を蹂躙されては殺されても
絶対に化けて出て呪い殺してやる!! 元寇襲来を当時の朝鮮の国王(高麗)が煽った、と聞いたが
ネトウヨのデマ? それとも本当? >>33
なんでお前は「元史」本文すら確認できないのか?
ネトウヨとか人を笑ってる場合かよ >>33
支那猿って弱小モンゴルごときのカス奴隷だったが
今も狂惨のカス奴隷だから悔しいんだよな。
必ずお前みたいな支那猿チンク低脳が沸いてくる。 ゲリラ戦の詳しい定義はともかく
「夜討ち朝駆け」の語源は保元の乱だとも言われてるし
源平合戦の、頼朝の挙兵からまず夜襲、義仲・義経もゲリラ戦や奇襲が得意
少なくとも、決闘用の「やあやあ我こそは」なんかでなく
集団戦・奇襲・夜襲、なんでもありで戦うのが武士の戦争だろ
やったな、特殊訓練を受けたゲリラだ! ●蒙古襲来における捏造●
×高麗はモンゴルに30年に渡り、根強く抵抗し最終的に講話→王族が国民放置して逃げ出して、モンゴルに荒らされまくっただけ
×元の使者切り捨てた鎌倉幕府は国際感覚が欠如→使者切り捨てたのは文永の後。ついでに言うと他にも使者殺した国は多い。
×三別抄見捨てた鎌倉幕府は(ry→幕府に支援求めてきたときは既に死に体だったし、しかもこいつら裏で元に媚びへつらってた
×武士達は1人ずつ名乗りを上げてフルボッコに→当時の記録にそんな記述はドコにもない。普通に元が負けました。
×神風のおかげ→神風は撤退途中に吹いた。
×和弓はモンゴル弓に大きく劣る→性能面ではほぼ互角。
×殆どが高麗人→主力部隊は蒙漢人という華北の連中。遼とか金の主力だった奴ら。
×元軍率いた武将は無能→高麗の武将は無能だったが、元の武将は南宋遠征や三別抄討伐で功績がある。
×二回目の遠征の目的は旧南宋兵の棄民→他地域では用済みの住民や兵は、基本的に
直接皆殺しにしてたモンゴルがそんなまどろっこしい真似するわけがない。
×モンゴル人が主力じゃなかったから元は本気じゃなかった→モンゴル人は元々人口少ないから征服民が主力なのは当たり前。
×台風のおかげで二度目も助かった→台風来る前に勝負はついていた。
×高麗の妨害工作やベトナムの反乱のおかげ→高麗はノリノリで対馬で大虐殺しました。ベトナムが反乱起こしたのは弘安の役の後 ★フビライから北条時宗への脅迫状
上天眷命
大蒙古皇帝奉書
日本國王朕惟自古小國之君境土相接尚務講
信修睦況我
祖宗受天明命奄有區夏遐方異域畏威懐徳者不
可悉數朕即位之初以高麗無辜之民久瘁鋒鏑
即令罷兵還其疆域反其旄倪高麗君臣感戴來
朝義雖君臣而歡若父子計
王之君臣亦已知之高麗朕之東藩也日本密邇
高麗開國以來亦時通中國至於朕躬而無一乘
之使以通和好尚恐
王國知之未審故特遣使持書布告朕志冀自
今以往通問結好以相親睦且聖人以四海爲家
不相通好豈一家之理哉以至用兵夫孰所好
王其圖之不宣
至元三年八月 日
天の慈しみを受けて最高の位についた、大蒙古国の皇帝が、
書を、日本の国王に送る。
朕思うに、昔から小国の王は国境が接する国とは
修好につとめるものである。
ましてや、朕の先祖は、天の命によって世界の所有者となっている。
遠方の異国でも朕の威力を畏れ徳を慕うものは数え
切れないほどである。
朕が即位したばかりのころ、高麗(朝鮮半島)の民
が戦乱に疲れていたので戦争をやめて講和し、
老人と子供を故郷に帰らせた。
高麗は感謝して朝貢に来た。
朕と高麗とは、君と臣の関係だが、喜びあうこと
は父子のような間柄である。
おまえやおまえの重臣、その家臣たち(*)も、この事は知っているであろう。
高麗は朕の東方の属国である。
日本は高麗に接した国で、建国以来しばしば中国に朝貢に来た。
ところが、朕の代になってからは、ただの一度も来ていない。
おそらくは、おまえの国は世界の情勢を知らないのであろう。
したがって使いを派遣し、国書を持たせて、朕の意思を知らせる。
いまから親交を結ぼうではないか。聖人は世界を一家と考える。
親交を結ばないのは、一家とは言えないことである。
朕も軍事力を使いたくはない。よく考えなさい。
それでは・・・。
至元三年八月日
注8 日本側は、元の横暴によって朝鮮半島が悲惨な状態になっている事は知悉しておりましたから、
この最初の国書が来る前から九州の防衛準備に入っていたそうです。
しかし、高麗人が奴隷だった事を知っていて読めば、
「貢ぎ物を持ってきて俺たちの奴隷になれば生かしておいてやるが、そうしなければ皆殺しだ」
――という意味だと、すぐに分かります。
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/mouko_kokusyo.htm 朝鮮半島南部の先住民だった倭人を侵略と民族浄化によって滅ぼした挙げ句、
奪った土地に今も居座り続けている韓国に抗議し日本はその返還を請求しよう。
今の釜山とか特に半島南の沿岸部地域って、任那日本府の話し以前に
元々は100%間違いなく倭人の土地だったじゃん。
中国王朝の公文書にさえもその旨がハッキリと記載されてるし。
韓流の歴史解釈を日本が採用すれば、日本の各行為も侵略どころか中世のスペイン・イベリア半島同様に
単に失った土地を取り戻す為の国土回復運動=レコンキスタになる訳でさ。
嘘かホントか竹島(独島)は西暦500年代に新羅が保有、だから韓国領云々言ってるけど
ならば半島南部は倭人生粋の土地として、日本固有の領土として領有を強く主張出来るよ。
韓国は今の国土の大半を日本に返還しないといけないわな。
日本は韓国を見習ってマスコミ曰く "素晴らしい韓流" の歴史解釈を採用するべきだわ。
彼らが言うには対馬は歴史的に見て韓国領らしいから尚更にね。 白村江の戦い 〇唐 VS 日本●
文永弘安の役 ●元 VS 日本〇
文禄慶長の役 〇明 VS 日本●
日清戦争 ●清 VS 日本〇
日中戦争 〇中華民国 VS 大日本帝国● 各国強さ格付け(16世紀後半)
S スペイン、オスマン帝国、明、日本
A イングランド、フランス、ポーランド、サファヴィー朝、ムガール帝国
B スウェーデン、モスクワ大公国
C モンゴル
D イタリアの都市国家、李氏朝鮮 「蒙古襲来絵詞」
三井資長、蒙古兵を撃退する
http://blog-imgs-35.fc2.com/3/k/s/3kstyle/201002061140293e7.jpg
三井資長の弓は凄いな・・・
日本の重装弓騎兵の強さが当時の記録に残ってるし、順当に実力で圧勝
もともと戦略でも戦術でも日本優位 それまで敵なしの旧ザク大隊がビームライフルとビームサーベルで武装した5000のガンダムに
2度もボコられて壊滅したのが元寇。
火力も装甲も機動力もパイロットの能力も全てが違いすぎた。 チーターだって水泳で亀と勝負したら亀に負けるって事だろ
モンゴルは陸軍国としては精鋭でも海軍国としては素人の集まりだったんだよ。 福岡平野で普通に鎌倉武士と陸戦やってボロ負けしてるじゃん
陸軍国としても日本より弱い 偽善者と偽装社会とパナマ文書
長谷川 浩とベルナルドとサーロ節子 原水爆 成敗
ローマ法王フランシスコは2日、イタリア中部で行われた第2次世界大戦の戦没者追悼行事で演説し、
日本の原爆被害に触れながら「人類は教訓を学んでいないし、学びたいと思っていないようだ」と嘆いた。
核実験などを繰り返す北朝鮮と米国の関係が緊張する中、核戦争への脅威が高まっていることに懸念を示した。
http://www.sankei.com/world/news/171103/wor1711030012-n1.html
ストルテンベルグ事務総長 偽装社会とパナマ文書と長谷川 浩 ,ベルナルド
サーロ節子 原水爆 成敗 子供の虐待 成敗
「(核保有国の)米国に完全に従属している」と指弾。「日本政府は核兵器の廃絶を目指すと言っておきながら、主張と行動が大きく矛盾している」
ローマ法王フランシスコは2日、イタリア中部で行われた第2次世界大戦の戦没者追悼行事で演説し、
日本の原爆被害に触れながら「人類は教訓を学んでいないし、学びたいと思っていないようだ」と嘆いた。
核実験などを繰り返す北朝鮮と米国の関係が緊張する中、核戦争への脅威が高まっていることに懸念を示した。
http://www.sankei.com/world/news/171103/wor1711030012-n1.html
伴 信彦(ばん のぶひこ)委員 ,石渡明(いしわたりあきら)委員
更田豊志(ふけたとよし)委員長 ,田中知(たなかさとる)委員 ,山中伸介(やまなかしんすけ)委員
ストルテンベルグ事務総長 より 偽装社会とパナマ文書と長谷川 浩 ,ベルナルド、ジョン・ラミレス,サーロ節子
内調の北村 滋と中村 格、刑事部長 1回目の文永の役
博多の街がモンゴル軍に占領されて焼失したなんてのは嘘だからな
博多の街が被害を受けた証拠もモンゴル軍が赤坂以東に侵攻した史料も一切ない
実際は全く逆で今津まで10キロ近く日本軍に押し込まれて撤退に追い込まれたんだからな
ユーラシア大陸で敵無しだったモンゴル軍も鎌倉武士には野戦で全く歯が立たなかった >>50
今津なんて洪茶丘軍が上陸したという記録が一つあるだけ。
最後の戦場は赤坂だよ。 おーぷん5ちゃんねるから探すとこのスレッドが一覧にない。
どうなってるのかな。 >>51
洪茶丘の記録は今津に上陸したんじゃなく「元帥忽敦と共に今津を抜いた」だ。
それに『益斎乱藁』には金方慶も「元帥忽敦と共に今津を破った」と書いてある。
で、『高麗史』によれば忽敦は全軍を率いて洪茶丘、金方慶と合流し、軍議で撤退を決めた
と書いてあるわけで、最終的に元軍が集結したのは今津だろ。
つまり博多方面の戦闘は日本軍の圧勝だった。
それは日本側に記録とも一致してる。
元軍は赤坂で菊池に蹴散らされる。
「武房に、凶徒赤坂の陣を駆け落とされて、二手になりて大勢は麁原に向きて退く。小勢は別府の塚原へ退く」
『蒙古襲来絵詞詞書』
その後で百道原で少弐に惨敗。
「爰ニ三郎左衛門尉景資彳ヘタル処ニ、蒙古大将軍ト思シキカ、長七尺計ノ大男、髮腮ノ邊マテ
生ヒ下リタルカ葦毛ノ馬ニ乗十四五騎、カチ走七八十人カ程具シテ、ヲメキ呼テ追懸タリ、
其時旗之上ニ鳩翔舞ケレハ、誠八幡大菩薩ノ御影向トソ憑敷テ、究竟ノ兵共成シカハ、
一鞭打テ馳延テ踏留テ、吉引テ放ツ矢ニ、一番ニ懸ケル大男之真中射テ馬ヨリ下へ逆ニ落ニケル、
郎等共是ヲカゝケテヒシメキケル、粉ニ景資此方へ引返ル、葦毛ノ馬ニ金造之鞍置タルカ走廻リケルヲ取テ、
後ニ尋ハ、蒙古ノ一方大将軍ニ流将公カ馬也卜、生取タル蒙古申ケリ」
『八幡大菩薩愚童訓筑紫本』
元軍は武士に負けて逃げ回ってただけね。 経済的にも自由が手に入りたいなら「立木のボボトイテテレ」で検索すればいいと思う
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