>>433はブラウンの略歴。

シモンズは、来日の翌年宣教師を辞退し、伝道費用を全額返済した。その後もブラウンと交流があった。横浜で医療活動を展開し、宣教師ヘボン博士と共に、横浜の近代医学の基礎を築いたといわれる。
明治3年に発疹チフスで苦しんでいた福沢諭吉を治療したことで生涯親交をもった。

ヘボン博士は、米国長老派教会の宣教師で医師。祖先がグラバーと同じスコットランド出身で、そこで長老派の迫害がありアメリカに渡る。
フルベツキたちより1ヶ月早い1859年4月に来日、医療活動を開始。
1860年、シモンズ夫妻とフランシス・ホース(ウォルシュ・ホール商会参加)と尾張徳川家の大名行列を見物。ひざまずくよう言われたが、ヘボンとホールは従わず、立ったまま凝視したため、尾張藩主も駕籠を止め、オペラグラスでヘボンらを観察するなど張りつめた空気が流れたが、行列は何事もなく去り事なきを得たというバカにした態度。ホールは日記で、しばしば日本人に対する優越感も吐露している。
1863年、箕作秋坪(明六社>>387)の紹介で眼病を患った岸田吟香を治療した。医療の他、塾開校、聖書翻訳、教会設立を行い、明治20年明治学院大学設立。明治学院初代総理になる。

シモンズの代わりに来日した宣教師、ジェームス・ハミルトン・バラのつくった英学校のバラ塾も明治学院に合流する。