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家康渡海を望まず
江戸城にいらっしゃいました時、豊臣家の使いが来て、朝鮮征伐の事を申し上げたところ、書院にいらっしゃいなさって、何もおっしゃられる主旨もなく、ただ黙っていらっしゃいました。本田正信はちょうどその時御前に仕えておりましたが、主君には御渡海はあるだろうかどのようにと三度まで伺ったところ、何事だ、やかましい、他の人が聞くだろうか。箱根を誰に守らせるつもりだとおっしゃられ、それならば正信は以前から考えは決まっていた事よと思って、御前を退出したということだ。〔常山紀談〕(江戸時代中期の逸話集)
家康の本音
これも保証の限りではないが、家康が当初から渡海を望まなかった本心は、ありありとこの中に見てとれる。そうしてさらに確実に家康の本音を知ることができるのは、彼が最上義光に向かって、『不思議に出羽(義光)も我らもこの度の命を見つけました。じきにじきに国へ帰り鷹を使いますでしょう事は、夢か現実かとよろこびます。』〔伊達文書〕との文で、はっきりとわかる。
諸将不合點
我々はまた薩摩の老武者、樺山紹剣(忠助)が語るところを聞かねばならない。
京都から武庫(義弘)様下向の主旨であります。このうち太閤様がお命じになります御意趣に、この世で成人して名を残すことが肝要である。私は日本を従えて、今は願う事がないのに似ている。しかしながら高麗(こま)を打ち取って、あの国の主人を強奪して、日本の主人の臣下とするつもりとお思いである。これらの事柄は難渋の仲間がいるなら、今とは別の扱いとして今後は御命令になるつもりと話していた間、誰も良い悪いを言わない。成功でも不成功でも出発するより他はない、と考えておのおのその支度と聞いている。それにつきまず肥前(佐賀・長崎)名護屋といった場所を御本陣にして、太閤様がいらっしゃる、その他諸軍勢皆々渡海があるはずだと聞いている。このような事柄はどうしたものだろうか。薩摩の国中の者どもは、きっと分別が足りない事になるだろうと。ただ先年薩摩を後まわしになさった事は、後悔にお思いでありまして、やはり、何とかしてお世話を焼きましょうかと、申すばかりである。〔樺山紹剣日記〕