>>459 >>462
この2つが同じ人なのか、違う人なのか知らないが、信じるかどうか任せるけど本当に
自演ではありません。今までも経験がありますが、易はただ易経に基づく聖人の業に近づく
ために、己の心を磨くもの(繋辞上伝第五章の性・仁・知への自分での接近)だということは、
易に本当の意味で真摯に向かい合っている人には一発で響きます。

あなたがどういう風に過去の易を認識しているか知らないが、それを否定はしないけど、
上の質問に答えていないよ?説卦伝の象が多いのがどうしたの?それでなんで、当てモノと
射覆が肯定されるわけ?
というか、知識はある人なんだろうから、改めて繋辞伝全体を思い出してみなよ。そんなことが
書いてあるか?易に対して素直になれよ。プライドが許さないのはわかりますが、であれば
ここに書かずに思考してみてください。

もっとも惜しいのは、私に対してむかつくなら、「この人に対して自分はどうすればいいか」
「この人に対して感じる心に対してどう捉えればいいか」という風に筮しましたか?
恐らくしていないでしょう。
むかつく心は、あなたの心ではなく、それは上の繋辞上伝第五章の「百姓が日に用いて知らずにいる状態」
そのものだ。

そういう時に、易に問うて、むかついていない、本来の自分の心が示され、状況や未来も自身の
本来の姿も全て掴めるのだ。それが易の使い方であり、それ以外に使い方はありません。