時津洋の思い出
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
東京の地下鉄大手町駅から徒歩3分のところに相撲部屋料理「時津洋」がある。
店主は“阿波の怪童”と呼ばれた元大相撲幕内・時津洋の吉岡宏典さんで、
必ず店主がいる“本人遭遇率100%”の店だった。
「だった」というのは、時津洋さんは、2月14日に49歳で亡くなったからだ。
月刊誌「スポーツ報知 大相撲ジャーナル」の企画で元幕内で歌手の大至(50)が取材に訪れてから
1週間もたたない急逝だった。 「亡くなる前の夜も店を閉めて、
事務所でパソコンに入力している親方に『お疲れ様です』と言って別れたんです」
と13年間ついてきた伊藤孝雄店長(49)。
朝に悲報を受け、ランチタイムこそ閉めたが、夜は予約客を受け入れ、
時津風部屋伝統の味と時津洋さんの存在感を守った。
同い年の元番記者としても、「時津洋」のしこ名が店名として永遠に残ってほしいと願う。
99年秋場所で引退した時津洋さんは、当時の規定でしこ名のまま2年間、
親方を名乗れる準年寄になったが、正規の年寄名跡を取得できず、日本相撲協会を退職した。
01年秋場所に「今場所で終わりだよ」と打ち明けられ、
私はそれを「初のケース」としてニュースにした非情な記者だった。 タレントと荒汐部屋のコーチを務めながら、
01年に相撲部屋料理「時津洋」第1号店をオープン。
同い年の元横綱・曙を連れて、開店を祝った。
その後、出店した各店に出向いたが、味は不変だった。
釣り好きでも有名で、スポーツ報知に釣行記を書いてもらったこともあった。 多店舗展開をバイクで巡回していた時津洋さんだが、
体がもたず2015年夏に現本店に一本化して安定経営を果たした。
亡くなる少し前に「これから店に行くよ」と電話した時、
「すいません。今、お客さんに連れられて飲みに出てるんです」と言われたのが最後の会話になった。
いろんな人に愛された“親方”だった。
店には化粧まわしや明け荷など記念の品が飾られている。
何より、富士額(びたい)に豚鼻をした似顔絵イラストが出迎えてくれる。
亡くなってからは、愛娘の幸織(さおり)さん(24)が仕事を辞めて店に出るようになった。 メニューに小さい時に父に抱かれた写真を載せて
「父の遺志を引き継ぎ、努力して参ります」と書いている。
「小さい時に大相撲中継を見て、『パパだ』と言って、テレビに抱きついてました。
でもそれはパパではなくて霧島関(現陸奥親方)だったそうで、
『お前は面食いだな』と笑われました」と思い出を語る。
ちゃんこ料理とは、鍋だけではなく、父(ちゃん)と子(こ)が食べる料理が語源。 時津風部屋伝統のちゃんこと、
釣り人ならではの一品料理は不滅だ。
日本テレビの企画「ちゃんこ鍋一番うまいのはどれ?」で優勝した
「黒豚と大山地鶏のちゃんこ鍋」(塩味1人前3200円)は
大至も「相撲部屋らしい品のある味」と絶賛した。
セロリが利いた夏向けの鍋もある。
時津風部屋の後輩の豊ノ島の実家のとうふ店
「梶原食品」(高知・宿毛)の豊ノ島豆富もメニューにある。
20年続いた「時津洋」の味を今後も伝承していってほしい。 >>1乙。
その部屋の名前を聞くと、どうしても「あの話題」が避けられないような気がするけど。 日馬富士や貴ノ岩なども、引退せざるを得なくなったけど、
スポーツ界全ての問題ではある。 アンチスレでは無いんで、
あまり余計な事は書かないでおこう。 時津海新入幕の頃に相撲を見始めたから、
パチモンみたいな名前の力士が十両にいるけど、親方か本人の嫌がらせかな?と
思っていた。 霧島は、1年前は番付最上位(横綱不在で東正大関)だったのが1年後に
前頭12枚目まで落ちてたの凄かった
照はどうだったかな。秋場所大関だったのが次の年の秋場所幕下下位に落ちてたから
もっと酷いか。 丸岡いずみさんと同じ町の出身(その町は合併で市になりました) 一度ランチに行ったな。厨房にいる大きな男性が店長の伊藤さん?時津風部屋のちゃんこ番だったとか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています