むしろ被告に下された15年など神の目には瞬きの一時であり、
この月日を通して更生が完成することが本当に神が望んでいることであれば、
それを願うのが普通のキリスト者の考えではないでしょうか。
そもそも裁判員裁判を人が人を裁く場としているのは人、自分自身であり、
別な見方で神が被告本人が更生することを期待され、
戻ってくる時間をお決めになったのだとするのならば、
その器としてキリスト者が使われても何の違和感もないと私は思っています。
キリストの僕である牧師が“人の罪を裁いたら何に救いを求めればよいのか”
と思い悩んだ私の得た信仰です。
ちなみに、今回のことに田中信生牧師は何のかかわりも無いと私は思います。