西方極楽世界に生まれ、蓮華の中にあって結跏趺坐(けっかふざ)し、蓮華の花が閉じるのを想い、またそれが開くのを想う。
花が開くとき、五百の光があって、それが我が身一身(いっしん)を照らす。
すると心の眼(め)が開かれて、諸仏と諸菩薩が虚空(こくう)に満ち満ちているのが見える。
 せせらぎの音、鳥たちのさえずり、
木々のふれあうさざめきが諸々の仏たちといっしょになって微妙(みみょう)の法を説いているのが聞こえる。


もし心から西方浄土に生まれたいと願うならば、
まず一丈(じょう)六尺の仏像が極楽の七宝(しっぽう)の池水(ちすい)の上に在(い)ますのを観なさい。
先に述べたように無量寿仏(むりょうじゅぶつ)の身の丈は量り知れないので凡人の力では観ることが難しいけれど、
如来の宿願力(しゅくがんりき)によって必ず観ることができる。ただ仏の姿を想うだけでも限りない幸いに恵まれる。
まして諸々の優れた特徴をこと細かに観ればその功徳はたとえようもない。

 阿弥陀仏は自由自在の神通力を具(そな)えているから変現(へんげん)もまことに意のままである。
あるときは宇宙大となって現れ、あるときは一丈六尺やわずか八尺に座して現れるがいつも真金色(しんこんじき)である。
また円光(えんこう)の中の無数の化仏(けぶつ)や宝蓮華(ほうれんげ)のことは先に述べたとおりである。
歓音・勢至はいずこにあっても同じであるから、ただ、頭部を観て見わけることができる。


 まず金色に輝きわたる仏が先ほどの蓮の華の上に座っている姿を心に描き、目を閉じても開いても変わらず見えるようにします。
次に心の眼(め)を開いて七宝(しっぽう)造りの大地、池や木立を観、それらを天空から覆い尽くす宝の幔(まく)を観ます。
このありさまを自分の掌(たなごころ)を見るようにはっきりと観るのです。
今度は先ほどの蓮華の左右に同じように見事な大蓮華があって左に観音菩薩、右に勢至(せいし)菩薩が座っているさまを想(おも)うのです。
どちらも仏と同じ金色(こんじき)の光を放って無数の宝樹(ほうじゅ)を照らします。
そのすべての宝樹(ほうじゅ)の下に同じく三つずつの大蓮華があって、そこに仏と二菩薩が座っています。
この情景が心にすっかり浮かぶと、今度は水の流れ、光のゆらぎ、宝樹のそよぎ、
鳥のさえずりがことごとぐ美しく法を説いているのが聞こえます。この説法を常にたもちなさい。
それがそのとおりにできたら極楽世界をほぼ見たことになります。