>>587の続き

生薬なんかの採取販売と写真師としての収入で、各地を放浪しつつも生計が成り立っていた事になる。
むしろ、何処でも生きて行ける生業を確立して、実際に10年間をインドで一家で過ごしているように思える。
スエズからギリシアまでの経緯は、ペリーヌ正体判明後の告白として、原作ではサラッと書かれている。


・・・フランスへ帰るため印度を立ちましたが、スエズに着きました時、
お父様の持ってこられたお金はなくなってしまいました。
実業家たちに巻き上げられておしまいになったのです。どうした訳か私には分かりません。」
ヴュルフラン氏はわしには分かるというような身振りをした。


フランス帰国を思い立ったのは、むしろ、10年間のナリワイで元手が出来たから、ではなかろうか。
スエズでの損害も、証券投資による損失を被った、という事。投資と博打は違うし。
「わしには分かるというような身振り」も、散財癖のためだろう、というのではなく、輸出入にも携わる事業家として、
当時のスエズ運河の利権を巡る当時の、イギリスの暗躍を思い起こしての諒解だったのではなかろうか。
投資なんか出来たのも余裕があったからであり、反帝国主義、反英的な義憤もあったように思われる。
ビルフラン翁が諒解に至ったのは、息子エドモン氏の反英的という気質をよく知っていたから、
に他ならない、察するに(原作タルエル風)。告白は以下のように続きます。


「お金が無くなりましたのでフランスへ行かずにギリシャへ向かいました。その方が旅費が安かったのです。
写真器械を持っていたお父様はアテナの町で人々の写真を撮り、これで私たちは暮らしました。
お父様はそれから家馬車と、私を救ってくれた驢馬のパリカールとを買い、
道々写真を撮りながら陸路をフランスへ帰ろうとなさいました・・・


全財産を失った訳ではないのでギリシアまで行って、ソコでは生業を活かして移動手段も確保できている。
里心が付いたのでフランスを目指しはしたのだろうが、別段急ぐ必要もなかったのでは、と思える。
(続く)