メーテルというキャラの基本は、時とともに朽ち果てる生身の体を乗り換えながら、若者と永遠に旅をする謎の女、
つまり少年からすると、思春期に至る一瞬の時期に慕情とも愛情とも恋情ともつかぬあらゆる感情がないまぜになって憧れた人と、別れれば二度と巡り合うことのない忘れえぬひとときを過ごす
つまりまさに青春の幻影なわけ
だから999も初期回に冥王星のエピを入れ、メーテルの宿命に関する謎に切り込んでいたはずなんだよね
さらに、遠く未来にはメーテルが鉄郎とは違う戦士の銃を持つ少年と999で旅をしているところと出会うエピすらあった

そして物語のキモは、この素晴らしい、我が青春のマリアンヌの松本さんなりの再構築をいかにうまく伏線を回収して大団円に持ち込むか、のはずなんだけど、メーテルが昔から化の容姿だったとしたら、目て〜輝のキャラの前提が崩れると思うわけです
なぜって、ともに旅をする少年の母親の若い頃の姿にメーテルが生き写しなのは、少年が母を慕う気持ちと、そして彼らがいずれ母の幻影から離れ、大人になる過程を迎えるための必然的な設定だったはずなんです

それが、エメラルダスは姉!とか、それ必要なのかと思う設定がわらわらでてきて戸惑うばかりです

私は劇場盤さよなら999こそが、メーテルの初期設定であり、ストーリーとしてのオリジンである若松青春のマリアンヌに回帰さそうとした作品だと思います

あの小半の古城も、階段の踊り場でフト振り返った鉄郎がめーてるの娘時代のレリーフを見つけ呆然と見つめるという場面は、まんまマリアンヌからの引用ですから

交響詩メーテルモ作品としての出来は悪いとは思いませんし、最終回にかかるコスモスドリームもぐっと来ます
でも他の方も指摘していますが、メーテルが裏切って惑星崩壊っていうのは何回目ですかと言いたくなります
惜しむらくは、惑星大アンドロメダで未来に何が起こるかは視聴者はわかっているのだから、他のおちをつけて欲しかったと思います