【あの頃の記憶を】はだしのゲン【もう一度】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
これは衝撃的だったよね。俺は未だにトラウマで見れないけどw
ここでははだしのゲンについて語ろう。
ttp://youtube.com/watch?v=X58EvXoelbs&search=%E3%81%AF%E3%81%A0%E3%81%97%E3%81%AE%E3%82%B2%E3%83%B3
はだしのゲンの原爆炸裂シーン
>>190-191
俺の出番のようだな。史実では警戒警報が発令されたと同時に原爆が炸裂してるんだよ。
中国軍管区司令部は8時13分に「ケハ(警戒警報発令)」の命令を下している。
それを急いで比治山高女の生徒がNHK広島放送局へ連絡。
そしてそれを受けて古田アナがラジオ放送で臨時ニュースを流した途端炸裂。
なぜ警戒警報が鳴らなかったか。これについてはアメリカ軍の前日からの不可解な行動がある。
それは「はだしのゲン」では描写されていないが、前日の夜から6日の朝方にかけて広島市は
混乱してたんだよ。何回も警戒警報と空襲警報が発令されていた。
敵の大編隊が広島市上空を行ったり来たりと。けど広島市には何もせず。
司令部も呉市や岩国市など周辺都市が爆撃されているのに広島市に何もなかったのは不思議に
感じていた。それは市民も同じ。だから「今度こそ」とその都度恐怖に怯えていた。
結局警報は5日の午後9時から6日の午前5時半の間に6回繰り返された。
そしてさらに6日7時9分の天候観測機の進入。これも何もせずに立ち去った。
7時31分には解除され、市民は普段の生活に戻った。これは描写あるよな。
司令部でも安心感が漂った。しかし今度は8時くらいに対空監視哨から連絡が入る。
この段階では防空参謀は警戒警報発令を躊躇した。理由は繰り返す警戒警報によって
市民を混乱させたくないから様子を見て判断しようとしたわけだ。
ちなみに中国地方の担当参謀は2名。それで防空参謀はほとんど毎日徹夜状態。
8時から10分間くらいウトウトしていたという。
しかし8時13分になってやはり警戒警報発令の決意をする。
急いで発令したが、結局は間に合わなかった。アメリカ軍の心理戦に負けた。 中国軍管区司令部の防空参謀は地下司令室にいたから助かったが、結局は放射能による
原爆病で死亡。死ぬ間際には「あの時早く警報を発令していれば。」と悔やみながら、
亡くなったという。
皮肉にも市民を気遣ってうかつな警戒警報を発令しなかったために無条件下での原爆炸裂
の悲劇を招いた。
ただ、これはアメリカ軍が用意周到に行ったものであり、アメリカにはその自信があった。
命令書にも「無条件下での使用」が条件になっているから、意地でもそうする必要がある。
アメリカは実験に使用したかったのだから当然だけどな。
ちなみに広島市では自治会の防空壕の整備状況が遅れていたから、仮に警報があったとしても
助かった人数は半数には満たないと推測できる。
つまり防空壕が不足していたし、原爆から市民を守れる防空壕も少なかったってことだ。 参考までに原爆投下までの主な流れな。
8月5日12:37 天候観測機3機離陸
8月6日01:45 エノラ・ゲイ離陸
02:00 爆弾最終装填始まる
02:15 同作業終了
04:55 硫黄島上空到着
05:05 グレートアーチスト、ネセサリーイーブル合流、日本へ
07:00 機内にて乗員朝食
07:09 警戒警報発令
07:15 ストレートフラッシュより広島市上空の天候報告受信、勧告、主目標を爆撃せよ
07:31 同警戒警報解除
08:06 松永監視所 敵大型機2機、西北進中
08:09 同報告、3機に訂正
08:13 エノラ・ゲイ、西条上空通過、中国軍管区司令部「0813ケハ」命令
08:14 エノラ・ゲイ、目標、相生橋を捉える
08:15 原爆投下、離脱 グレートアーチスト計測器3個投下離脱、中国管区司令部警戒警報発令
08:16 リトルボーイ、地上570mで爆弾炸裂。投下高度9473m
12:00 乗員機内にて昼食
13:58 エノラ・ゲイ、ノースフィールドに帰投
18:00 乗員ノースフィールドにて夕食
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています