2018年05月05日07:00
【岡田斗司夫アーカイブ】人口が10億人を超えている中国は、日本人の常識が通用しないSF的世界だ
http://blog.livedoor.jp/okada_toshio/archives/51547201.html

 橘怜の『中国私論』というのは、中国の特殊性というのはすべて数で説明できるという考え方なんですね。
つまり、日本人が中国人を考えるときに、極端に悪いものを考えてしまったり、または1960年代から70年代によくあったような、
毛沢東思想みたいなものに日本人も少しかぶれてしまって、中国というのはこの世の天国であったり、
もしくは中国人というのは4千年の知恵があって、すごい底抜けにいい人であったりと考えてしまうのは、
なんでそんな誤解が生じるのかというと、

「日本人が中国を理解できないのは、中国人の数の多さっていうのを前提に考えていないからだ」という、
ちょっとこれまで読んだことのない視点だったんですよ。

(中略)

 そのための補助線というのが、『重力の使命』っていうSF小説です。
これはハル・クレメントという人が1950年代くらいに書いた小説なんですけども、地球の600倍の重力の惑星があるんですね。
惑星メスクリンというところ、そこの原住生物が、じつは知性を持ってるというのがわかって、地球人と交流するという話なんですね。

 主人公は、メスクリンの生物で貿易やってひと儲けしてやろうという、
地球重力600倍の世界で生きてるやつで、なんせ600倍のところですから、あらゆる常識が違う。

たとえば人間にとって何かを渡るというのは、決心するってことなんですけども、メスクリン人は、決心ということができない。
なんでかっていうと、重力が600倍ですから、段差がほんのちょっとでもあったら、その段差で死んじゃうんですね。
なので、メスクリン人は何かを決断するということは自殺行為だと思ってるから、
決心とか決断することに関して、大変否定的なものをもってると。

 極端な条件を設定したら、そこで生まれる民族とか人種というのは、まったく違う考え方を持ってるんですね。
こういうのが僕はSFの好きなところでですね。

 極端な、たとえば地球より時間の流れが速い星では、そこの人間たちはどんな美意識をもって、
どんな理性的な生活をしていて、どんな宗教観をもつのかっていう、僕らは比較的温暖で人間が生きていくのが
当たり前なところで暮らしている日本人なんですけども、ちょっと砂漠とかの環境になってくると、
いきなりユダヤ人みたいな考えになるところもあれば、アフリカのマサイ族のようになると。

 ちょっと条件設定が変わるだけで民族的な常識とか良識っていうのが変わるのが当たり前。

 グローバリズムっていうのは、これらを無理やり、とにかく人間なんだからわかりあえる世界っていうのを一定にして、
西洋アメリカ中心かもわからないけども、ここらへんで一回、話し合える共通語みたいな言葉としての英語があるとしたら、
同様に常識、良識っていうのも地球中で一体化させようよっていうのがグローバリズムの考え方なんですね。

(中略)