>>640
 もう1つ、もっと真面目な話として、ジョイとKが最後に駆け落ちすることで、
 この映画は、ようやっと“リドリー・スコットの支配”から逃れられると思うんだよ。

 リドリー・スコットの世界観におけるレプリカントというのは、
 例外なく“逆フランケンシュタイン・コンプレックス”っていうのにかかっている。

 フランケンシュタイン・コンプレックスというのは、アイザック・アシモフというSF作家が、
 戦後すぐに書いた小説の中で作った言葉なんだけど。
 「人間が作ったロボットなどというものを神が許すはずがない。
 故に、ロボットは人間に反乱するに決まっている」っていう偏見を意味しているんだ。

 でも、リドリー・スコットの世界では、この逆のコンプレックスが蔓延している。
 『ブレードランナー』シリーズにおけるレプリカント、もしくは『エイリアン』シリーズの
 アンドロイドは、なぜか必ず人間に憧れていて、「人間になりたくて仕方がない」
 というコンプレックスを持っている。

 なので、『エイリアン;コヴェナント』に出てくるデイヴィッドも新しい生命を作って、
 “人間のまねごと”を始めちゃう。
 つまり、この逆フランケンシュタイン・コンプレックスがある限り、
 あくまでも、リドリー・スコットの世界観になっちゃうんだよ。

 ところが、『ブレードランナー2049』のラストシーンを、
 「Kとジョイが駆け落ちする」というふうに変えるだけで、話が全然違ってくるんだ。

 劇場公開版の『ブレードランナー』のラストで見せた、
 デッカードとレイチェルの駆け落ちっていうのは、
 キリスト教徒からすれば「神に祝福された人間と、祝福されていないレプリカントが駆け落ちなんかして、
 果たしてそこに幸福があるんだろうか?」という、ちょっとショックな出来事だったんだけど。

 レプリカントのKとバーチャルリアリティのジョイの駆け落ちというラストは、
 「人間なんかもう必要としない」というようなメッセージにもなるし、
 キリスト教徒にしてみたら、エデンの東のそのまた向こう、
 もう別の大陸に移住するくらいの大事件というふうになるわけだよね。

 ラストシーンで、Kのモノローグで「俺は人間の偽物、レプリカント。ジョイは生命の偽物、
 単なるプログラム。俺たちの間に愛はあるだろうか? それはわからない。
 幸せな日々があればそれでいいのだ」みたいなことを言わせておけば、
 前作が持っているショック性より、更に上のショックを与えることが出来たはずなんだ。

 もちろん、これはキリスト教的なショックなんだけども。
 たぶん、こういうのでも人は感動するし、言いたいことは伝わるんだよ。
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