◎なぜ明和は2番目で満足なのか?  ”明和 as No 2.”

1、戦前の愛知県下のランクは、

旭丘(一中)>瑞陵(五中)>明和(明倫中)>時習館(四中)>岡崎(二中)。


戦前は県内でも文化格差が大きく、
名古屋市が圧倒的に進学に有利だった(今でも名古屋とそれ以外の地域との文化格差は圧倒的であるが)。

名古屋市>豊橋市>岡崎市(戦前)。


2、戦中・戦後直後は、

瑞陵(五中)>旭丘(一中)>明和(明倫中)>略……

→旭丘が史上初めてトップの座を奪われた大混乱期におきたのが、愛知一中予科練総決起事件。


3、戦後(新制高校)は、旭丘>明和>瑞陵。戦前はずっと「3番目」だった明和が、瑞陵を抜いて「2番目」になった。

瑞陵=五中+実務女(女子底辺校)
明和=明倫中+県一(女子トップ校)

明和は、女子トップの県一の(空襲後に移転した)所在地に明倫中が婿養子に入った。 こうして一等地が現在の校地になった。

瑞陵は、五中と釣り合わない女子底辺校と合併。 五中関係者は反対するも、しかし当時GHQの命令は絶対であった。五中関係者は涙した(←本当に泣いたらしい)。

こうして、「2番目」と「3番目」が入れ替わった。 「3番目」だった明倫の後継校=明和がタナボタ(幸福な結婚)で「2番目」になった。
よって、明和は「2番目」で満足である。