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【複合選抜】愛知県の高校受験part90【尾張・三河】
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0001実名攻撃大好きKITTY垢版2020/03/16(月) 23:48:50.04ID:+V/bkENb0
引き続き、愛知県の高校入試の話題をどうぞ。

個人が特定できるかも知れない内容は書きこまないこと。自分でほんの少しでも危ないと思ったら、
書き込まないのが無難です。合格してから書き込んでください。
自分の住所・性別・受験番号・出身中学・内申点・当日点・模試の偏差値・特技・生徒会・部活・
私立高校の合否・珍しい併願校や単願、などを組み合わせて書き込むのは、
簡単に個人を特定できるので絶対にやめましょう。このスレは中学の先生も高校の先生も当然見ています。
自分で書いた書き込みは、削除依頼をしても応じてもらえません。

前スレ:
【複合選抜】愛知県の高校受験part89【尾張・三河】
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/ojyuken/1581508189/
0070実名攻撃大好きKITTY垢版2020/03/18(水) 13:13:50.24ID:YWrBShEn0
>>69
確認したけど、私の書き込みじゃないね
私の書き込みではないが菊里が名門校というのは事実だけどね

『ファーストガールズスクール 旧制名古屋市立第一高等女学校外伝』
(中日出版、昭和61年12月17日発行) 208-209ページ
※『愛知一中物語』、『ファースト〜』ともに著者は大野一英(故人)

敗戦。新しい日本が生まれたが、学制改革などによって、「市一」という名の学校は、
再びよみがえることはなかった。

戦災を免れて、「市一」の校舎は残ったが、華麗に躍動した「市一」という名の女学校は消えた。

あとに、「市一」の伝統を受け継ぐ菊里高校と、ホワイトラインの制服と、ホワイトラインの歌が残った。

西條八十の「市一」賛歌、「白きライン」の歌である。

(歌詞省略)

黄金の鯱も、白きラインも、藤棚の藤も、弁天様の祠も、そして松の操もここには健在。
西條八十が取材のために「市一」を訪れたのは、昭和七年の春であった。
「白きライン」の詩は、『婦人世界』の七月号に掲載された。

この作詞の大家は、同じ折、「市一」より七年遅れて誕生し、「市一」と競う名門校になっていた
「県一」(愛知県立第一高等女学校)へも足を運んだが、印象が暗くて詩にならなかった、
とまことしやかな伝説が残されたことも、「市一」にとっては愉快な話ではある。
0071実名攻撃大好きKITTY垢版2020/03/18(水) 13:14:53.93ID:YWrBShEn0
 
人生なんて 人との縁次第(笑ってる場合かヒゲ 水曜どうでしょう的思考)
https://www.asahi.com/articles/ASM2445THM24IIPE00V.html

朝日新聞、2019年2月7日10時21分

藤村忠寿さん(HTB「水曜どうでしょう」チーフディレクター)

受験シーズン真っ盛りとなりました。僕の高校受験はもう40年近くも前のこと。
志望校は名古屋の伝統ある進学校、菊里高校でした。
でも当時の愛知県の高校入試は学校群制度でした。
複数の高校がひとつの「群」を組み、受験者はその「群」を受けるんです。
名古屋には1〜15群があり、僕が受けたのは、
菊里高校か向陽高校に入学できる第15群。
合格してもどちらに入学できるかは運次第なんです。
で、僕は合格したんですけど、振り分けられたのは向陽高校。そりゃ残念でした。

合格発表の時に、泣き崩れている女子がいたので
「落ちたのかな?」と思ったら、僕と同じく向陽高校に振り分けられていたんですね。
それぐらい菊里は人気があり、向陽は不人気だったわけです。

そんな運の悪い(と自分たちは思っている)新入生が毎年入ってくるわけですから、
この向陽高校は、なんというか、熱気のない生ぬるい雰囲気が漂っておりました。
それなりの進学校ではありましたが「有名大学進学に向けて熱心に勉強する!」
という雰囲気でもなかったし、部活も「弱くはないけど強くもないですよ?」
という埋もれた中堅クラスばかり。僕がいたラグビー部もしかりでね。
競争心はないけれど、男子も女子も和気あいあいとして居心地は良く、
他校からは「向陽温泉」と呼ばれておりました。
0072実名攻撃大好きKITTY垢版2020/03/18(水) 13:15:17.77ID:YWrBShEn0
 
名古屋(前編)
http://myki.my.coocan.jp/nobko/career/c2.htm

(抜粋)

この年、1963年4月に幸雄が東大理学部から名古屋大学プラズマ研究所へ転勤した。
プラズマ研究所は1961年4月に創設されたが、
この年に理論の2番目の講座が付いたのでその助教授として着任したものである。

(中略)

1978年の4月、知子が名古屋市立向陽高校に進学した。この年は名古屋の公立高校は
2つづつでグループを作り、グループに受験する形を取った。家から通うのに便利なグループとして、
向陽高校と菊里高校との組合せがあり、知子はそれを受験して合格し、
向陽高校に振り分けられたものである。進学校としては菊里高校の方が評判がよかったらしく、
入学式の時に校長先生が挨拶の中で 『菊里ならよかったのに、とお思いのご父兄もおありでしょうが、
・・・』 というようなことも言われたそうである。 しかし 我が家としては、向陽高校の方が近くの
都通り1丁目からバス1本で行けるので、却ってよかったと思っていた。
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