東海は戦前は名古屋中より格下で、まったく名門にあらずw


大野一英「愛知一中物語(下)」(昭和53年、中日新聞本社) 180〜181ページ

Nさんの証言

「(一部略)当時、中学といえば一中のあとは明倫か、五中でしょう。
家は建中寺の西側ですから、お寺の裏山を回って車道の方へ来れば東海中学。
でも戦後はいい先生をたくさん迎えて東海のイメージも変わったけれど、
その頃はまだまだ。できのよくないのが、よく遠いところから来てましたよ。」
彼女が学生のことにうるさいのは、下宿屋さんとして多くの学生を眺めてきたせいである。
体験から割り出した評価のほどを聞いてみると、
「兄が八高、弟が東海の兄弟が下宿してましたが、兄が朝早く学校へ行くのに、
弟は家でさぼってばかり。雨降りには、いかにも学校へ行ってきたように、
靴を濡らしておくんですよ。(後略)」

※ちなみに「戦後はいい先生をたくさん迎えて」というのは、昭和20〜30年代に
公職追放者を含む公立学校退職教員の受け皿になったことを指すと思われる。