申し訳ないが、私は天理教研究者ではないので教義解釈や史実闘争は理解が及ばない。
そして、天理教人が布教する社会の人間にとっても天理教の細かい教義史実なんて
どうだっていいだろう。
信仰者にとって教義というものは、とても大切なものであることは理解できる。
一方で行動レベルでの実践は手薄であるように思う。
時折「天理教人は社会に出て、社会性を学ぶべきだ」という言葉も聞かれる。
また中世キリストで異端を取り締まるための「異端審問裁判」が乱暴におこなわれた。
私はそこまで攻撃的な指導や取り締まりは求めないが、
天理教も社会の一員であることを求めるのであれば、
社会の審問を受けるべきではないだろうか。
私が言っていることはメタの部分であり結論ではない。
その意味では社会にとって良いものは拡大してほしいし、
悪いものは淘汰されればいいと思う。
こういった考えは経済合理主義に毒された行き過ぎたキャピタリズムだろうか。