もちろんこういった理路は宗教ではありえるだろうと思う。
特に「バチが当たる」という言葉があるくらいだから日本では浸透しやすい理路である。
しかし、「陽気暮らし」を標榜する
天理教の神様は人間が神様の意に添わないと事情・身上を付与するというのは、
あまりに醜い神様だろうとも私は常々思う。
私は天理教学者ではないので、このことに関して教義解釈は存じ上げない。
しかし、中山みきが言ったことと後々人間が作ったのでは意味は大きく異なる。
中山みきがそういったなら、天理教という宗教価値はポストモダンな現社会において、
求心力はない。
もちろん、私もそんな宗教を尊敬する習慣は持てない。
人間が言ったなら、天理教の存在意義のためにも改善するべき課題であろう。