天理教人は「神様に○○させて頂いている」という謙遜した発言が多い。
代表的な文言では「生かされている」という言葉であろう。
そして、それは非常に徳の高い崇高な考えであることに私は同意したい。尊敬もしている。
しかし、その思考が根源的な場合や個人的事情にしか限定して使用されないことに私は不快感を感じる。
畢竟、私たちの仕事や生活もまた「労働させて頂いている」「社会生活を送らせて頂いている」
はずなのであるが、そこまで天理教人の思考が及ばないということを許してはならない。