これらは、どっちが正しいという問題ではない。
この行き詰まりにきてようやくだが、
記事のタイトルの意味を考察する意義が出てくるのだと思う。
つまり、天理教を信仰することへの目的性の探求である。
上記、布教戦略は「布教」(においがけ)という名目で実施されることが多い。
しかし本当にこれは布教の意味を達成できているのだろうか。
私は布教よりも修業的要素が強いのではないかと思う。
では、天理教のおける修業とは何なのか。
ベテランの天理教人を見ても、
この古典的布教戦略を進んでやっている人をあまり見た事がない。
「路傍講演はやりたくない」というコトバは聞かれないものの、
進んでやっている人はいないように思う。
むしろ「やらされている感」が漂っていると感じるのは私だけだろうか。
つまり、ベテランも「これって意味あるのかなーあんまりやりたくないんだよね」
という違和感を無意識的に抱えているように見受けられる。
こういった感覚は私は現代では、
むしろ当然の身体感覚だと評価していいと思うのだが、
それを言ってしまうと信仰的成熟度が低いと評価されることになるのだと思う。
これらの布教戦略が「できて一人前」という信仰的イニシエーション採用
している限り、
この「やらされている感」から抜け出すことは不可能だと思う。