この話を聞いて、私は天理教の垂直的教会構造と類似していると感じた。
教会では「会長さん」が絶対であり、教会の運営は会長さんの裁量が大きい。
高校野球に置き換えるのであれば、審判は会長さんであり、選手は親族、信者である。
高校野球も教会も、その運営母体は
「審判(会長)が大きな間違いを起こすはずがない」という前提が存在する。
しかし裏を返せば、
「審判が素人のような大きな誤審をしたら対応はどうしたらいいか分からない」と
いうことである。
想定内ということは、
想定外のことが起こったときの対応は考えられていないということでもある。
それは高校野球に限らずに、原発が証明している。
私は問題点の指摘だけに終わらさず、できるだけ私なりの回答を用意したい
と心がけている。
しかし申し訳ないが、この問題は考えれば考えるほど回答への道筋は複雑になる。
今はこれに対する回答は持ち合わせていない。
会長さんの裁量に対してビデオ判定や、罷免できる方法を用意することが
適切なのか分からない。
ただ、審判技術(会長さんの力量)の低下をこのまま放置するわけにはいかない
のではないだろうか。
裁量の自由は、権力の濫用と隣合わせである。