ただ強調しておきたいのは私はその天理教的用語自体を批判しているのではない。
それは大変信仰において意味のある概念であると思う。
またそれがないと信仰が成立しないというのも理解できる。
問題にしているのはその使用方法なのである。
上の人間が自分の意志を通すために使用されるのは人権侵害である。
そしてそれらの正しい使用方法というのは本来ならば自身の内省に用いられるべきで
あろう。
「理の親に喜んでもらおう」とか「私はまだまだ伏せ込みが足らない」とか
「私は徳を積もう」などである。
それが信仰の本筋であり正しい使用方法であろうと思う。
それが「理の親に喜んでもらえ」とか「あなたは伏せ込みが足らない」とか
「あなたは徳が足らない」などは勘違いも甚だしい。
そういう人たちを見たり聞いたりするたびに
私は「お前は神様か!」と突っ込んでやりたくなる。