一高と二高は、戦前の旧制中学の伝統を引き継いでいて、それぞれ旧制一中と旧制二中。
他県の旧制二中のように、二高は○○一高と名乗っても全然かまわない。
宮城県では戦後ナンバーを外して地域名高校にするということをしなかった
ツケとも言えるかもしれないし、新制高校になってからも形だけでも「二高」という
ナンバーの入った高校を残して、旧制二高は仙台にあって旧制一高(今の東大駒場)と
張り合っていた、という事を後世に伝えたかったからだという説もある。

形だけでも旧制二高の「二高」という名前を残したいから、いつまでも
羽織はかまをはいていてくれというわけだ。

仙台一高と仙台二高は、元をたどれば一つの尋常中学だった。
一高と二高はいわば親戚兄弟校。事情は他県とは大きく違う。
仙台には尋常中学一つしかなかったが、これを解体して一中と二中を作った。
それが1900年のこと。元は一つなので、当時一中と二中の校長は同じ人が兼任した。

一中は全県から広く人材を集めやすいように仙台駅の近くに立地している。
二中は主に転勤族と東北帝大教授の子弟が通いやすいように、創立したときから
東北帝大のすぐ近くにあり、いわば附属中学校的な役割をになった。

新制高校になってから、県の介入で15年位一高が二高を上回った時期があるし、
学区を入れてからも1900年代は、一高と二高は均衡していたのだが、
2000年代に入ってからは、少子化の影響や転勤族の北学区への集中などで、
二高と一高は大差になってしまったというのが現状。