ひのきしん編として、天理教構造の一端を取り上げた。
今回は、より深度を高めて考察したい。
ひのきしんの意識の方向性に対して、どうしても神に向かってしまうのは、
身体は神からの「かしもの•かりもの」という教えに由来すると推論できる。
そして、その神に向かう行動は、
必然的に自己満足な内面的限界と対峙しなければならない。
特にひのきしんの行動的選択に関しては、人間の裁量以外にはありえない。
「神のため」「人のため」とは言うものの、
「じゃあ一生、その行為をやりつづけなよ」ということはできない。
ここまで言ってしまうと私は非常に嫌味な奴だが、ラディカルに考えれば
「神のため」「人のため」と全能知で人間的思考をマスキングする偽善に対しての
論理的破綻を無視はできない。
ひのきしんの行為選択、開始•終了選択は、
どれだけ神の教えを組み入れようとも人間の行動でしかない。
かしもの•かりものの教義的解釈は色々とあるのかもしれないが、
とりあえず天理教ホームページの解釈を是として議論を前進させる。
天理教ホームページでの「かしもの・かりもの」の解釈を引用すると
だれもが自分のものであると思って使っている身体を、
親神様からの「かりもの」と教えられます。