ちなみに、面白いことを求めるという性質も、恐らく肉の罪の一つであり、煩悩の一部であると考えています
しかし、ハラハラドキドキの冒険をして行くと神から離れていく一方で、面白いものの中には神を感じられることもありえますから、この煩悩の性質はツールとして活用するべきなのです
伝統的な文脈においては、世界中の宗教で、面白いことを求めること自体が罪であるとして禁欲的な修行を行ってきましたが、それはかえって神から離れてしまうことに繋がりかねません
近代インドに光に溶けて消えたというラーマリンガという聖者がいますが、彼は神を想うことが何より重要であり、禁欲的な修行を行うのは間違っていると言っているそうです
イエスという人物も神を想うことの重要性を説いていますが(そして空中に消えたとされる)、私たちはこれらの聖者の方法論を参考にしつつも、現代的な文脈における面白いものの持つ神秘という方法論を採用するべきでしょう
何故ならば、彼らは明確に宗教的な天才であり、私たちは普通の人間なのですから

そして、私たちは神の愛のもとで自由に生きてよいのですから、人に著しい迷惑をかけない限りでは、好きなことをして生きても神はお赦しになると考えます
しかしそこには常にサルクスとしての人間が存在しているのだということを自覚する必要があるわけです