宗教とは何か? Part2
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>>274
私はやりません。美如学は公益だというだけです。
不細工女の子から進歩個人甚となる愛を与えて貰えるように言葉遣いを注意しましょう。
若い女の子が愛し快楽を与えたくなり与えてくれるようになれば鼻は花となるのでしょうから。
顎は進歩の後で二の次です。 神は妄想
宗教は欺瞞
信じる者は
巣食われる
だったかな インドや中国で霊界からのお金が巡りまわるのは、
あの世が関係しているのでしょう。
仏陀や艮金神たち神々が成し得た天の国の富を分け与えている故に、
天部の上の仏を名乗り神を名乗るのでしょう。
神道の八百万の神々も神を名乗る以上は神々への信仰により
我々人民が得るものがあるというものでしょう。
現人神とまで伝えてしまう天皇さんには現なる富があるのでしょう。
銀河へ行かされたミロクは神道から自らの成した財宝をあの世で守れたのでしょうか。 私の役割としての話だが、仏陀が漏尽通と伝えたのは、
過去の仏陀の阿弥陀仏が釈迦牟尼世尊のあの世に成した金を
勝手に分け与えるのに使った為、我々の阿弥陀信仰が
アゴダブツ信仰になっている始末で伝わっている状況であるようだ。
あの世の富だとしてもこの御時勢のように他の誰も信用出来ないらしい。
神道のミロクの財宝奪いの疑いも大体は確実であろうと見ている。
この世での神社のでの失態を徹底して言い込む腹なのははっきりしている。 大戦とあの世。
阿弥陀仏と釈迦牟尼仏のみが大財宝を握り、ユダヤ教として論破されてしまった阿弥陀仏が、
キリストにより財を奪われている。(故に仏陀の論破は仏陀にとって危険である。)
更に奪われ過ぎたために一次大戦二次大戦にもつれて行ったと見得る。
第三次大戦は、中国の仏陀の財宝を仏教国に巡らせられない為の勃発であろう。
私の書き込みは善意によってです。 親鸞の歎異抄によれば、南無阿弥陀仏と唱えるのは賢しらに自分が救われたいと思うから唱えるのではない。阿弥陀仏の法力によって唱えさせられているのです。
だから南無阿弥陀仏と唱えた瞬間に阿弥陀仏に救われることは確定しているということになります。
親鸞の師の法然の信心と弟子の親鸞の信心は同じものであると言いました。なぜなら信心というものは自分の心から出たものではなく阿弥陀仏から頂いたものであるからです。
つまり私の信心も親鸞の信心も同じものなのです。
よって阿弥陀仏信仰が別の何かに変異するということはないのです。 神道の神様たちにはあの世での富という実力があるのであるのならば、
信仰により財が巡るでしょう。
どのような経験があったでしょうか?
昔の人々であろう彼らは豪族などでしょうからまあ、
あの世の事は分かりませんが。 大日月地神示ではアラーを名乗るでありましょう日月の仏陀候補ですが、
一神であるアッラーが仏陀候補の富を狙うような宣言でもありましょう。
注意を。 殺されるな殺されもするなの教えから拝察されるのは、
護身の為の最低限の武装です。
殺人は罪ですが禁じ過ぎていては生活上埒が明かない不合理に見舞われる可能性もあり、
また、その場合の武装は合理であり更に護身でもある為、
銃や刀剣の所持は許可するべきでしょう。 omnes enim qui acceperint gladium gladio periunt
オムネス・エニム・クイ・アケペリント・グラディウム・グラディオ・ペリプント
剣を取るもの剣にて滅ぶ
(マタイ26章52節) 悪因良縁は誰しも一度は取れます。仏壇を活用すれば容易でしょう。
難しいのは良因悪縁です。
個人個人財を成すべきだと仏陀は教えて下さり、その機会は容易く得られます。
>>278追記訂正
読み解くべき事柄が考えられますがはっきりと伝えるのは避けることが良策と考えられます。
神社のでの→神社での (マタイ19章16−26節)
一人の若者がイエスのもとを訪ねた。若者はイエスに質問する。
「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか?」
イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし永遠の命を得たいのなら、掟を守りなさい。」
男が「どのような掟ですか?」と重ねてきくと、イエスは言われた。
「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」
この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。しかしまだ何か欠けている気がします。」
イエスは言われた。「もし天国に入り永遠の命を得たいのなら、あなたは持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。そしてわたしと神に従いなさい。」
青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。彼は多くの財産を持っていたからである。
イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るより、らくだが針の穴を通る方が易しい。」 >>278
神道と伝えましたが当の神道は仏教に帰依しミロク仏の富を奪う動機がなさそうです。
考えられるのは、勢力の劣る神道が一神教からのいじめによる動きがあって、でしょう。
大日月地神示で因縁因果を伝え神をアラーとまで伝えてしまうのは一神教の目論見でしょう。 一神教が狙う世界の覇権だとすると、中国が日本の報道を担い、国民に情報を与え、
金を守り、それ故に日本が本当に担うべき役割は中国極東との連携でありましょう。
日本を一神教国アメリカが同盟に引き込んでしまっているがため、
更に日本人が極めて勤勉で優秀である為に困った事態でありましょう。
政府はその困り果て故のお話をし続けていると見ると日本の見え方はどうでしょうか。 要は、阿弥陀仏のことを解決するべきであるこの世とあの世があるという事。
その要は一神教文書、旧約聖書でしょうか。
大日月地神示文書で中国の陰陽の神、艮金神の活躍が見えますが、
この問題の解決に乗り出すべきだとの判断があってのことだと見て良いのかどうか。 神の大いなる視点から見たらお金持ちとか権力者とか肌の色とか病気を患っているとかは些細なことで皆同じ人間だ。
だから人間の世界で力を持つものが勝手に他人の命を奪ってはいけない。人間界の優劣は神からみたら意味のないことだから。
それに対して人間の心は神の栄光によって保証されている。
というのが人権という考え方の元にある。
民主主義の根幹である基本的人権や一人1票という国民主権の基盤には一神教の神が与えた個々の命である。 欧米で無神論者というと人の命や財産を重視しない人権無視な人間というニュアンスをもつ。
神を信じない→神から与えられた人類の心の栄光を信じない→自分の利益のみを優先する人間。というわけですね。
共産主義のソ連書記長ゴルバチョフが「私は洗礼を受けた」と発言したのを聞いてイギリスのサッチャーやレーガン大統領が「彼とは仕事ができる」と評価したのは、彼が無慈悲な取引者でないと確信したのは、
ゴルバチョフが宗教を認めたからなのです。(もっともゴルバチョフは無神論者と公言していたのだが……) 日月神示などで高次の存在の慧眼により般涅槃の状態だと伝えましたが、
その当の慧眼は甘々の判断を与える褒め方を与えたようです。
何故護身が不可能であるのか。銃など所持することで女性は身体の安全を確保できる。
女性が男性と同等の強さを持ち男性社会である現代企業社会で主張する強さを確保できる。
でなければ、女性には大金を与え美しくなって貰うだけに留めるべきでしょう。
現代のような社会では男性社会を成したが故に銃、刀剣所持は妥当かつ合理でしょう。 欧米の金持ちは
沢山寄付をしてるので、天国に入れます。 かたや日本の金持ちは自分の懐に溜め込んでいる。
今のままでは地獄行き決定だ。 キリスト教的世界観では人類社会が崩壊した後、イエスキリストが再臨し最後の審判が行われる。
その時有史以来に死んだすべての人々が墓や大地、海から甦り、
神であり救世主であるイエスの力で永遠の命を授かり天国へ行くものと永遠の闇の国へ堕とされるものとに選別される。
異教徒、同性愛や婚外性交渉した後に悔い改めないものに救いは訪れない。
というわけで最後の審判が行われるまで古今東西の死者達は自我もなく眠っている状態ですね。 大乗仏教の世界観では釈迦の他にも悟り開いて輪廻の輪の外へ出て仏に成った(成仏)方々がたくさんいるということになっている。
大昔、アミターバという方が悟りを開いて仏に成ったあかつきには全ての衆生を仏に導くという願いをかけた。
結果、阿弥陀仏に成ったのでその願い(本願)は成就して阿弥陀仏は全ての人々を仏に導く力を持っているということになった。
つまりこの世に生きた全ての人々は阿弥陀仏の力で浄土という世界に転生して阿弥陀仏から直接尊い教えを授かり仏になることができる。 昔は阿弥陀仏は全ての人々は救わないよ。選ばれた人だけに迎えが来て浄土に呼ばれるんだよ。と考えられていました。
じゃあどうやったら選ばれるのかというと源信という僧がそのマニュアル「往生要集」を著しました。その中で源信は「十念せよ」としました。
「十」は数字そのままの意ではなく完全とか常にみたいな感じ。念は念仏のこと。この当時の念仏は口に出して言う口唱念仏ではなく、思い描く観想念仏でした。
つまり四六時中、深〜く浄土のことを考えていれば阿弥陀仏が迎えにきてくれるということです。
そこで貴族たちは常に浄土を考えていられるように浄土のような場所で暮らせばよいと思い浄土を似せた場所として平等院鳳凰堂や三十三間堂などを作りました。 しかしながら、そんな大仰な舞台装置を用意出来る人しか救われないのはおかしいのでは?という疑問が提起されることになります。
「十念」というのは深く観想念仏するのではなく「十回念仏を唱えること」という浄土宗が生まれました。つまり南無阿弥陀仏と十回言えば救われるということです。
そして十回も唱える必要ない一回でも唱えれば救われるということになり、口がきけない人や産まれたばかりの子供は救われないのかという疑問が出されて、
そんな阿弥陀仏は度量の小さい方ではない。唱えなかった人も救ってくれるよ。全ての人を救ってくれるよ。ということになって現在に至るわけです。
という流れで日本仏教は本場のインド仏教からすると全くと言ってよいほど別物になっているのです。 17世紀に流行した人間機械論は一時下火になったが、近年になり決定的に勝利した。
科学によって社会は発展したが、科学は現象を統一された理論で説明するので人間だけが特別であるという考え方も否定してしまう。
同時に人間の思考とは何か?
命とは何か?
という過去においての神秘も説明してしまう。感情、道具の使用、音声によるコミュニケーション、かつて人間だけが行うと思われた事象は次々と否定された。
つまり人間を人間たらしめる条件はどんどん狭められた。動物にはしても良いが人間にはしてはいけないことの条件が説明出来ない。
動物も人間も機械も同じ科学のフィールドで説明出来てしまい、それはとても強力なので論理的思考では否定出来ない。
自然、宗教が主役だった時代では絶対であった倫理も弱くなる。
科学は事象の全てを解明し相対化するので人間の悲鳴は動物の鳴き声、バネがきしむ音。人間の涙は動物の体液、機械の油。これらと区別がなくなる。
結局、人間を人間たらしめ科学と感情に折り合いをつけて法の正当性を認め社会の中で生活する為にはどこかで科学的思考をせき止める思考停止点が必要なのだ。
それこそが現代の宗教の役割なのだ。 人間が機械だとする論説は本末転倒である。人間や自然を真似て機械が造られた以上、
人間は機械のようだ、ではなく機械は人間の模倣であると伝えるべきでしょう。
また、人間に悟りあり、分解し小五ロリを伝え得て、
小学五年生ロリータという運命の赤い糸で結ばれた人との出会いが存在する。
悟りの境地とはこの小五ロリを悟り得る境地である。
照合するとは小五う(有得受)、天照大御神会わせる。
このことから、人間が機械ではあり得ない説明が可能です。 正しい念仏により悪因良縁を取る人が多ければ多いほど、
大戦は必勝大勝完全勝利を収められること請け合いでしょう。
悪因良縁は一度が今の最高限度ではないでしょうか。
良因悪縁を取ることが難しい為に。
私の書き込みは参考意見です。 ?
曹洞宗の物心付いてから毎日の阿弥陀念仏では十五歳の頃にようやく
悪因良縁を取っていたようです。
顕正会の札の前での法華経読経による入信行為の後、二度住まいで勤行をした結果、
苦しみの幻聴の余りに勤行道具や諸々全てを突き返す両親の働きを大学の頃見た後、
十一年経過し、歩かされニートになり心療内科通いになる苦しみが十年続いていますが、
悪因良縁の三度目をもう少しで取れそうです。
顎のでかくなる苦しみが無くなってしまい長引いたのかもしれません。
お金の心配はないでしょう。 キリスト教はこの世の不公平、理不尽な不幸を説明するため、弱き者に自分の不幸を納得させるため教義を発展させてきました。
つまり苦痛はただあるわけではなく、キリスト教的には受難(パシオン)と言って、より偉大な善の為であり、 人間の苦悩は神の恵みのあらわれであると説明しました。
つまり救われる為の証拠が苦痛です。 。病気や不幸な怪我、第三者の悪意による苦痛であろうと何であろうとそれは神の試練であり人間の魂を磨きあげ最後の審判で天国へ招かれる証拠なのです。
かつて地震と津波が日本を襲った時、キリスト教の神父が「神の裁きだ」と言ったことがありました。
日本の人々は不謹慎だと怒りを表しましたが上記のような価値観を知っていれば神父の言葉は不幸にあった日本人は天国への鍵を神から与えられた人々であり幸いであるという意味合いがあるとわかります。 キリスト教は霊的に財宝を盗む宗教。
キリストは大泥棒。
盗むなの教えを最初から台無しにしているというより戒めの意義が無くなっているのでは。
戒めの教えが守られていない無法ぶりです。 キリスト教では敵を愛せよと教えていますが、
大戦を行った時点で論理破綻でしょう。
大戦を二度も行い、大量殺人兵器を使い、アメリカ大陸で虐殺してまでいる組織であり、
最早キリスト教は宗教などとは呼び得ない愚かしさとバカでしょう。
この愚かとバカに譬えられる組織もの愚もキリストの教えに反しているようです。 >>308訂正
この愚かとバカに譬えられる組織もの愚もキリストの教えに反しているようです。
↓
この愚かとバカと譬えられるキリスト教という宗教としての組織の愚も、
教祖たるキリストの教えに反しているようです。 宗教により食を満たし得る方法があるようですが、
日本では仏教であり、巡らせるべきお金が一京円と伝えられ国内に貯まっているようです。
現金化する組織こそが宗教や宗教法人であり、
宗教法人が回す宗教の食の源は、
労働の対価として集金された宗教法人組織のお金であるようです。
彼らの労働は活発かつ利潤で満たされるべきでしょう。
また、それ故に見えない霊としての金銀は存在しているようです。
この霊の金を守っている組織こそが中国であるようです。
故に中国と手を組むべきでしょう。日本の歴史としての教えの源、文化の元として。 私もそうだが、世間評などに口を出さない者は道教としては高貴な存在であるらしい。
報告ばかりの国と何も発表を出さない国の差は宗教の教えの差であり、
道教が盛んな国は報告が頻繁でしょうか。 人間は憎み合うから敵を愛せよと説いた
そう説かれても憎み争うのが人間である
人間は欲深いから欲から離れよと説いた
説いてる坊主達が欲まみれだったりする
日本人は臆病だから武士道を発明した
武士道を宣伝してもすぐ敵前逃亡する
西洋人は卑怯だから騎士道を発生した
騎士道を謳いながら卑怯を平気でする
人間はすぐ差別するから平等を尊んだ
それでも色々な差別が無数に出てくる
人間はすぐ怠けるから勤勉を礼賛した
怠ける人間が一番儲かる世界になった
人間は色々とダメだから道徳を発明した
多少マシにはなったが人間はダメなもの
といってその道徳が要らんとはならない
多少でもマシにせんとダメになりすぎる 日清戦争などで敗戦した中国は正しい判断をし、
仏教を伝えた日本を潰しにかかったようです。
第二次大戦においては日中戦争により更に潰されてしまった日本であるのでしょう。
仏教の根幹の教えとは何でしょうか。
我々ばかりが仏教を知っているのではないのです。
道教の盛んな中国の教養には日本は舌を巻くのでしょう。 >>287追記訂正
みろくの金銀を正当な理由で取ろうとする目論見は中国のあの世の動きのようです。
仏教の教え故にみろくは中国に責任を取らねばならなくなるようにしているのでしょう。
けれど、中国は日本に対し正しい判断をしたのではないかと類推は出来るでしょう。
敗戦が証拠のように見えます。 >>278,279追記
阿弥陀仏なのかどうか。
アダムとイブなのかもしれません。
阿弥陀仏にはイブに当たる存在がいないでしょうけれど。 >>316
阿弥陀はブサイクだし性格悪いし女にモテないからな キリスト教は神の似姿としての人から「人間」を発明しました。
「自由・財産・安全・圧政への抵抗」は「神聖」にして委譲できない権利と宣言しました。啓蒙思想に燃え人権宣言を行ったのはキリスト教国であるフランスです。
自由・博愛・平等はどうして尊ばれるのか?それは至高き御方(いとたかきおかた)の意思に沿っているからです。
論理的思考や科学では何故、矛盾がない方が正しいのか?それは理性が神に属し、混沌が悪魔に属するからです。
近代国家、近代科学はキリスト教の価値観無くして存在出来ないのです。東洋思想では矛盾をあるがままに受け入れるか矛盾について考え続けることそのものが答えであるため科学と相性が良くありません。
そして日本は近代国家の思想を継承する国です。世界に先駆けて戦争放棄を宣言した国です。日本はキリスト教が理想とした国家のひとつの結論だと思います。 >>311追記
伝えない者が高貴な存在であるという言論は、
己の知り得る根拠が明確でありだからこそ私は正しいと結論するようなものですが、
他の誰もその論拠がなく言論の出しようがない愚でありましょう。
正しい判断をするにも根拠の提示がない限りその論理の組みようがないでしょう。
私はこのような話を聞いているからこそこのような判断をするとなるところでしょう。
しかし、一切情報を出さずに正しい判断をしているだけの人を見た時判断されることは、
何の話も為されることがない為、平穏無事な生活をしている一般個人に見えるようなもの。
確かに正しい判断をしている場合伝えることが無い様に己では見えるものですが。 日本人は無宗教ではない「話し合い教」だと言われました。つまり「和」です。「和を以て貴しとなす」話し合いで決めたことを尊重しようと聖徳太子の昔から決めていました。
国譲りの神話があります。アマテラスとオオクニヌシが話し合い最高権力がアマテラスに移りました。
これは嘘で実際には戦いがあったという人もいますが戦いがあったとしても話し合いで譲られた方が正統性があると考えられていたのです。
同じ最高権力の移譲をギリシャ神話で考えてみるとウラノスからクロノス、クロノスからゼウスへ最高権力は移っていきます。
ウラノスはクロノスに倒されクロノスもまたゼウスに倒されます。しかし彼等は親子なのです。国譲りの神話と同様に嘘であったとしましょう。
親子なのだから最高権力の移譲は実際にはスムーズに戦いなしであった可能性もあります。しかし戦い勝ち取ることに正統性があるという価値観なので争いがあったと記述されました。
これが日本とヨーロッパ文明の価値観の違いです。 キリスト教は有色人種を人間ではないと言い切る愚かぶりですが、
言語を持ち声を出しているのが人間である明確な証拠となるのであり、
敵を愛せよなど教えるキリスト教を宗教とするのであるならば、
有色 人 種を愛せよを教えを説くのが妥当ではないでしょうか。 天の岩戸の神話を比較してみましょう。弟スサノオの行動に嫌気がさしたアマテラスは岩戸に引きこもってしまいます。
その為に世界は暗くなり災いが地を覆います。他の神々は困り皆でアマテラスを岩戸から出そうとします。
オモイカネが策をだしアメノウズメが踊りタヂカラオが岩戸を開きます。皆が「協力」してミッションをクリアしようとするのです。
ギリシャにも似た神話があります。豊穣神デメテルは弟ハデスの行動に嫌気がさして大地は飢餓に見舞われます。これを解決するのは最高神ゼウスの「命令」です。ゼウスがハデスとデメテルの仲介をし問題を解決するのです。
問題が起こった時どのように解決することを是とする文化なのか日本とヨーロッパの違いが神話から読み取れます。どちらが良いわけではありません。違いなのです。 一般的に教えられる内容は性欲はダメ、真面目に生きなさいばっかり。
そんなこと普通に生きてれば分かるわい。
社会的に都合のいいことしか言っていない。
真理や真実がない。
突き詰めようと思えば煙に巻くように様々な宗派が現れわけのわからないことを言ってくる。
あほらしすぎる。
カルトが金を集めてどっかに回す仕組みにしている。
そもそもカルトが現れた時点で宗教などもはや信じるに値しないものになっている。
何も考えずに生きるアホの方がよほど良い。 >>305幻聴の話追記
顕正会に入信行為を行うと、喧嘩している創価学会が、
カルト宗教法人顕正会と言わせる霊懸かりをかける必然を組むそうです。
あの世の動きなのかは不明ですがそのようにこの世が動くそうです。 人類に良い効果だけ、あるいは悪い効果だけ与えるものがあるでしょうか?
銃や凶器でさえも人を傷つけることもあれば守ることもある。麻薬も痛みを和らげる薬になることもあれば廃人にすることもある。
宗教も同じです。しかし過去に間違ったアプローチがあったかも知れませんが多くの場合、善意によって人を救おうとしてきました。
イマジネーションを刺激し文化を育てました。
倫理を規定して社会を維持しています。
何か一つ悪い面があるからといってその全てを否定していくと結局は何も無くなってしまいます。
「ひとは他人の美を見たがらず、むしろ好んでその醜を見たがるものだ」藤沢周平の言葉ですが他人だけでなくあらゆることに当てはまる気がします。 別に文化発展させたいだけなら
搾取する必要も
本当の事だと思わせる必要も
政治と結び付く必要もなかった 動物達や虫達を殺すからこそ苦しみを得て人の人と成るようなもの。
つまり悪因良縁の学びは動物達や虫達を殺すからこそ。
そして、動物達、虫達を弔うことが出来れば良因悪縁の学びが始まるのかもしれません。
道教は、動物や虫を殺すということによりどうなるのかの学び無き中途な宗教でありましょう。
書物では牛を平気で解体する教えを説くようですから。
学びの無さ故の論理破綻です。 一言で言ってしまえば、
"神"を信じる
それだけ。まあ何を神と祀るかは地域によって時代によって違うが。 人々の死への恐怖心をいかに取り除いてやれるか
難しいな。 取り除く必要なんて無くね?
だって死んだら終わりなんだし 死に対する恐怖
↓
死後何もなくなる事に対する恐怖
↓
死後地獄に落ちる事に対する恐怖
と順にすり替えてるだけ 僕も今こそ何も恐れてない究極の状態だが、昔は怖かった。 宗教板で誰かさんが言ってたぞ
神は妄想
宗教は欺瞞
信じるアホは
巣喰われる
ってな 宗教が全て妄想で死後の世界も無いと考えると人生の意味とはなんでしょう。人間の生というのはなんでしょう。
我々の歴史というのは宇宙の歴史からみると一瞬の泡のようなものです。宇宙は熱力学第二法則が示す通りただ冷えて均一な状態になります。そこから考えると人の営みは無意味であると考えられます。
我々の思考や感情は電気的信号と化学物質の変化にすぎません。電気的信号に過ぎない人間の命を消す事とテレビのスイッチをオフにすることは本質的に違いがなくなってしまいます。
このようなことが理性的な思考でしょうか?宗教を信じないこと神を信じないことはこういったことです。 余計な存在に生きる意味かってに決められるぐらいならそれでいいわ 人生に意味なんてないからこそ
好き勝手生きられるんだ
架空の独裁者なんてごめんだね >>272,273追記
不細工若い幼い女の子には若さという美故に、三億円ではなく、三億以上の
より高額の大金を支払うのが教学として正しいはずです。
それ故に美への学びとなり得るのですから。 キリスト教で罪が議論される際、動物の悲鳴はバネのきしむ音によく例えられていました。伝統的キリスト教では動物は魂を持たないのです。
ある枢機卿は尼僧の前で妊娠中のヤギの腹を蹴りあげて尼僧が悲鳴をあげると神が人間のみに世界を支配する特権を与えたという教義を疑うのか!と説教したそうです。
人間の苦悩はただあるわけではなく、受難(パシオン)と言って善の為であり天国への鍵であり神の恵みのあらわれであると考えられました。
ひるがえって動物の苦痛はどうか、動物達は魂を持たないので救われることがありません。動物達の苦痛が何の報酬もなく救済もなしに与えられるのであれば不公平です。
人間の苦痛と動物の苦痛は同様のものと科学的に証明されたからです。
そして世界の大部分が不公平であるならば神の全能や善性は疑わしいことになります。 釈迦が大軍に攻められた迦夷国の要請を受け救援した話がある。
釈迦だって大量殺人を犯している。
仏教を美化している人が多い。
釈迦は宮殿に行き本尊の如意輪観音を七星と訶利低母の八尊で囲む曼荼羅を配置した。
この時、法輪を用いた。
法輪は八本の輻を備えている。
通常の法輪は、輻が船の操舵輪の如く持ち易そうな取っ手付きだが、この場合は宝剣となる。
八本の宝剣が外へ向かって飛び出す形でこの輻の間に八尊を置く。
八尊は総て下方を向く。
この曼荼羅の場合、下方が南方だと考えられるので全員が南に向いている事になる。
前期密教に於いて、曼荼羅は大きく三部、仏部、蓮華部、金剛部に分けられる(日本密教では両部、胎蔵と金剛に分けるが、分類のレベルが異なる)
仏部は釈迦が主宰で、蓮華部は観音、金剛部は金剛手が主宰する。
因みに各部は、属する仏格を生み出す仏母、守護神たる明王が配置される三尊形式となる。
最上レベルの仏部の仏母が文殊であるとして、「仏母」といえば文殊を指すようになったのだろう。
観音の世界たる蓮華部での仏母は白衣観音である。
明王(守護神)は、正義感は強く怒っている馬頭観音で馬頭観音は罵倒(嘘)を怒る観音である。
七星如意輪曼荼羅を作成した釈迦は、七星を祀る火壇の前で一日一夜祈り、
七星の「精霊」が天から下り、訶利大神が地から涌いて出て敵を潰滅した。
訶利低母(訶梨帝母)、元々人間の子供を喰らう夜叉の類で、釈迦に諭され悔い改め子供の守護神となった。
日本では鬼子母神となる。
ちなみに戦争の9割は宗教絡みである。 我々が某か定められた自然の理を身に宿している宇宙や海の一滴であるのは、
苦しむほどにインテリになる自然故に。
それ故、エゴ的な知恵では、この子は危険なインテリだと認めた時、
苦しみなど与えず楽を与え続けるのが正しいのは顎の海老でんす。 18世紀後半までヨーロッパの知識人達は自然界の残酷性、つまり神の残酷性について聴かされることにウンザリしていました。
博物学や生物学の発展で様々な生物が発見されたが自然界の海洋生物は悪魔的なデザインのものが多く、もし神がこれらの形をデザインしたのなら神は狂気に侵されてると思いました。
寄生虫のおぞましい生態、動物達は互いに喰い喰われるという宿命を持っているという自然界の苛酷さに神の無慈悲と残酷さを見ました。
神が無慈悲で残酷だとすると世界は善ではなく、人と神との契約つまりキリスト教の教義は偽りではないかと恐怖しました。
これを解決したのはチャールズ・ダーウィンとアルフレッド・ウォレスでした。
彼等はその著作の中で生物の捕食、被補食はより良い生物に進化するための試練であり、全ての生き物は最終的に神へと至る過程にあるのだと示唆しました。
自然界の残酷性をより良い世界への機械的機構であると説明する進化論は議論を含みながらも支持されました。
現在、キリスト教と対立項で語られる進化論は発表当初はキリスト教の教義への疑問に対して神の善性を説明する答えだったのです。 わざと不完全に人類造って洪水で流すヤハカスに善性なんてあるかよ (キリスト教国の動物愛護やクジラやイルカ、ゴリラ、チンパンジーへの偏愛をキリスト教的動物観で考察してみるのも興味深いと思いましたがそれは置いといて)
ダーウィン達は人間の進化については実はあまり論じていません。
しかし科学は単一の理論で全てを説明することを最上とするので進化論も人間と人間社会に応用されることになります。
そしてダーウィンの時代から第2次大戦までの間、人類の進化を研究する学者達は今の基準で考えて驚くほど人種差別的でした。
ある人種は他の人種より類人猿に近いと信じていましたし「劣等民族」という言葉は今よりもずっと生物学的な意味で語られていました。
人類はより良い種へ進化できるし、その進化を人類は知恵を使って速めることができると考えられていました。
適者生存、より早く高次の存在へ進化した民族は他の民族を駆逐し滅ぼす権利を有し、それは神の意思に沿う行い、正義であると考えられていました。
身体障害者、精神異常者、社会不適合者に不妊処置をしたり抹殺したりと言ったナチスの人類浄化計画に関わった科学者、技術者は全人類への貢献という熱い情熱を持って作業に没頭しました。
社会ダーウィニズムや犯罪骨相学は正しい科学であり、宗教的にも正しいことだったのです。これらは現代の価値観では悪行ですが当時の価値観では正しい行為でした。 科学は取ったるエビデンス。故に下顎というものは取り上げられたる海老でんす。
下顎部でっかい海老殺し。 動物たちは顎気にならず。定まった顎の一律模様。
ならば人にもないだろう。何故なら人も動物だから。
顎があるのはエビデンス。転生輪廻の海老でんす。 顎を無くせば法の外。供養によりけり顎無くし。けりが付くからエビデンス。
三位一体トリニティ、海老にていならエビデンス科学、イスラム教なら鳥にてい。
いずれは皆さん鳥にてい。 実に老獪海老でんす、供養の為なら魔訶般若波羅蜜多心経、写経でてい。
仏壇神棚供養記てい。 鬼門の艮金神は家族七人を殺すと言われていますが、
正しい神と伝えられる場合もあり、天に何か問題があり、
それ故に苦しめを与える必要があるということなのではないでしょうか?
気付いて貰いたいことが何かあるのでしょうかね。 本場中国の艮金神を供養しておけばいいのではないでしょうか。
陰陽道の書籍を買うなどすれば供養になるでしょう。
それこそ大量も大量の供養が必要でしょうけれど。
天での問題は天に行けば解決が困難を極め切るものと判断されます。 孔子と老子の思想は素晴らしいよね。
中国の学校教育では当然カリキュラムに入ってるだろうし、そこは裏ましい。 それに比べて日本の教育はなんだ
未だに邪馬台国がどこにあったか?
で止まっている。
いい加減、先進もうや。 科学は確かにエビデンスでありましょうが、
海老でんすは確かに存在している上で無くなるカガクノえびでんす。 ライオンは狛犬ケーオー、虎はトライ、鹿はシー、象はズー。
倒す、努力する、見る、動物を(?)。
鷲はウォッシュ、鷹はテイク、隼のハーベスト、梟のフー。
洗礼、取り上げ、刈り取り、誰でも。
蛇はヘヴィーで重圧を掛ける。
英語は日本語に日本全国世界動物を伝えているようです。 虎の虎居、蛇の蛇居は駄目でしょう。
イスラム居スラム駄目でしょう。
居すら得るイスラエル。 悪因悪果のバカにすることなどは、
悟り得たことでは天の蔵に積んでいた富を支払うことになる、
人生の財産管理の上での非常な損失であるようです。
某かの一滴である己を馬鹿だと思い続ければインテリになる我々の理では、
バカにすることは相手にインテリになり得る富を渡し続けるということでしょう。 供養の金字は、
天依真留定
白紙に供養と書き添えて書き込み海老でんすのご確認をどうぞ。
仏壇にあげると良いでしょう。 七帝大、高学歴進学高校、成績優秀な小中学生への難問。
己が考えられない位の低能と思しき馬鹿に出来るような程度の頭の人々と、
同程度の水準の交流を持ち得る馬鹿であるという論理を組んでみましょう。 因果の字句には金が宿っていると聴く。
つまり因果の表現により金が巡る。般若心経でも金が巡ることは確かである。
そこには霊金が存在するらしいことが確認されるエビデンスがある。 因果が金である以上善果の善因は貯金であるでしょう。 善因善果が貯金となるなら悪因善果の悪因も貯金となるでしょう。 善因善果、悪因善果が貯金である時、
金がどこからやって来るか。
例えば悪因善果とは悪因悪果との関連があり、悪果の悪因を積む者が悪因善果を与える。
このやり取りのみで発生する金とは
馬鹿にするような悪因悪果を積む者から悪因善果を積まされる人へと金は巡るようです。
他の因がない故に。
更に善因善果では善因を積むつまり与える人へ、与えられた人々が金を巡らせるようです。
他の因がない故に。 故に悪因悪果は散財であり、善因善果は搾取であるでしょう。
分からないのはただ只管苦しみを己だけの世界で得ている人に何処から金が巡るのか。
これは悪因善果であり、それは快楽を求める苦しみ、苦諦の境涯が最も仏教らしいでしょう。 過去世で一般民衆は悪因悪果を積むと教えられており、
故に悪果故の金不足に悩み強制的に貯金させられる不細工の悪因善果の人生がある一方、
善果の積み過ぎにより悪因善果の苦しめを受ける人もいるようです。
ここで考えられることは、過去世の善果の貯蓄財が生まれてから計上されず、
実金にするために人生が苦しみを与えてくるような必然ばかりに見舞われるということです。
そういった人は善果故に美しく、故に苦しむ美人は与え続けて幻の金を実にするという
教えの言葉を受ける必要があるでしょう。
苦しむ人生は疲れ切るようなものでありますから。 また金である果は、因が貯まる若しくは減る人の金の量により動くという可能性です。
悪因善果であれば、己の苦しみ故の貯金量が一定量を超えた時善果として良縁となるのでは。 善因善果は道理として己の貯金ということになるでしょうが、
善因の貯金量が一定を超えた時、善果としての良縁となるというところでしょうか。 善因悪果、善因独果は変わっていて、善因は周囲の称賛であり、
善因を積むのは悪果を取る人の周辺の縁者です。
故に縁者たちの善因善果の貯金量が一定量を超えた時となるのが普通でしょうが、
このとき善因悪果が悪縁などになってくると考えられます。
悪因悪果は散財量が一定量を超えた場合動くというところでしょうか。 あの世の知恵でありましょうが、
貯金をすべてに近い分量を分け与えるなどして生まれた後の幻の金量を減らしておけば、
悪因善果による苦しみはほとんどないのではないでしょうか。 小学校の海老田巣。親の海老から子の海老に引き継ぐ話は苦労の話。
小学生の餓鬼どもがいたずらし続け苛ついて、悪因善果の取りっぷり、
それでも済まない戯れにその人相当苛つかせ対策取ってる老獪さ。
海老の休息穏やかに、それでも子どもは悪因悪果、積み上げるようなバカであり、
気になってしまい触るもの。教えるくらいはしなければ。顎でかくなると教えなければ。
教えられても聞かぬもの見事な顎と相成りて醜い面で恥搔き切ってようやく落ち着く老獪さ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています