>>562
畿内を中心として九州も含めた統一国家が推古天皇・聖徳太子(厩戸皇子)が
生きたとされる西暦600年初頭にはまだできていなかったかもしれない。

「内官(中央官僚)には十二等級がある。」これは聖徳太子の
「冠位十二階」によく似ています。
「後宮には女性が六、七百人いる」聖徳太子の妻の数にしては多すぎる。
これは天皇、いやそれ以上の一国の王レベルなので、大王家が支配する
畿内のローカル豪族の記述という感じはしません。

これは一つの仮説ですが、西暦600年の時点で日本の支配者が大和政権しか
なかったということが間違いであり、畿内から遠かった九州や東北には、まだ
大和政権に匹敵する政権が存在した。しかし、大和政権はその存在をなかった
ことにしたかった。多利思北孤(タリシヒコ?)は九州の王であり、
それとは別に畿内にも大和政権も誕生していた。畿内の大和政権が推古天皇の時代より後に
九州の政権を統合した後、九州の王多利思北孤の話を厩戸皇子の物語に利用したとは
考えられないでしょうか?実際には隋の使者が来たのは畿内ではなく九州だった。
あなたは九州の王朝が畿内へ移ったとお考えのようですが。

他の政権を大和政権の治績として取り込んだ疑いがある例としては、日本書紀が3世紀の倭国
の女王、女王卑弥呼・台与についての魏志倭人伝の記録を、4世紀後期の神功皇后の事績に当て
はめて、邪馬台国を大和政権と同一視させようと試みたというものがあります。