>>544
いろいろ根拠などはありますが、以下、本日は、一つだけ例を挙げておきます。
(この話題は、いつかまとめて話ができればと思います。)


「隋書(倭)国伝」以下一部抜粋
『・・開皇二十年 倭王姓阿毎字多利思北孤號・・・
王妻號?彌 後宮有女六七百人 名太子為利歌彌多弗利 無城郭 内官有十二等・・』

訳 『・・開皇二十年(西暦600年頃)、倭王の姓”アマ”、字”タリシホコ”・・・
王の妻は”ケミ”と号する。後宮には女性が六、七百人いる。太子を名づけて”リカミタフリ”としている。
城郭はない。内官(中央官僚)には十二等級がある。・・・』


⇒ 上記の通り、聖徳太子のモデルと言われる多利思北孤(タリシヒコ?)は、隋書倭国伝によれば、
聖徳太子(574?〜622?)と同年代の倭国の王であり、また、妻があり、後宮もあり、子である太子も存在するようです。
あくまで、摂政ではなく、倭国(当時列島を治めていた)の王であり、ゆえに推古天皇などという女帝なども存在せず、
つまりは、記紀の記述とは異なるということです。

仮に存在しても、それは、近畿付近のローカルの有力豪族、族長などがモデルの可能性なら有りということでしょう。
私は、一般の素人ですが、なぜ、こんな簡単なことも、学者、物書きの人たちは今まで気づかないのか、不思議でなりません。
まあ、それだけ、強い洗脳、また、気づいていても、天や学会からの圧力など様々な、要因があるのかもしれませんが?