>>722
>女傑

まさに。
なんだか後年の春日局を彷彿とします。
>>717で書いたように、県犬養氏の本拠地は河内国古市郡であり、同地は、百済王氏の本拠地であったことから、神魂命後裔の県犬養氏は、当時の招婿婚の風習から、
この百済王氏に招婿された可能性が高いと感じられます。
また、百済王氏のさらに前に同古市郡を領していたと言われるのが王仁吉師氏であるというのが気になります。
王仁は中国系百済人であり、
菟道稚郎子命の家庭教師であった、これまた中国系百済人と言われる阿直岐の推薦で、やはり菟道稚郎子命(のちの宇治天皇)の家庭教師となるために来日した経緯があります。
また、阿直岐と、中国から朝鮮帯方郡を経て来日した阿知使主との同一人物説も大変気になるところです。
もし、阿直岐=阿知使主であった場合、その子孫の坂上田村麻呂公が、征夷大将軍に任命をされて
陸奥の蝦夷征伐に向かう際、
田村麻呂公が何ゆえ、宇治の許波多神社において戦勝祈願をされたのかの大きな理由になってくるからです。
さらに、阿直岐が来日した際、馬を二匹連れて来た
という事績も、
のちに同地を領する県犬養氏が、その名の通り、馬を養う役職を有する氏族の長であったことと繋がるのではないか、
と大変に興味深いものがあります。