【ダーリン】宇宙人の秘密基地【ジョセフィーヌ】
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
拍子抜けするくらい単純なトリックに気付いてしまうと、
何一つしゃべりたくなくなるのよ。 カルロスカスタネダ著のドンファンシリーズは、
読んだ方も多いと思います。
あのシリーズで、
ドンファンは最後に死体を残すことなく虚空の中に消えていきますよね。
「そして、わたしは一人になった。」
最後はカスタネダのこんな言葉で終わっていたと思う。 ドンファンが死体を残すことなく虚空の中に消えて行ったというのは、
カスタネダが観測したことですよね。
では、ドンファン自身はその後どうなったのか、
ジョセフィーヌは長い間、それが不思議でした。 D と A の関係もそんなものなのです。
カスタネダの著作は全部カスタネダの創作で、現実ではないという説がある。
わたしが書いてきた D と A の物語が全部 A の創作または妄想で、
現実ではないという観点に立てば、
ドンファンは実在せず、したがってカスタネダの著作も全部創作ということになるでしょうね。
でも、わたしは D という存在を知っているので、
D の実在が本当である程度には、ドンファンの実在も事実だと思っています。 それで、
この世に痕跡を残すことなく虚空の中に消え去ったドンファンは、
ドンファン自身はその後どうなったのか。
「そして、わたしは一人になった。」
この言葉は、実はドンファン自身の言葉なのだと、
A は思います。 で、最終的には、カスタネダのドンファンシリーズを読んでいるのも、
A なのですよね。 弟子が師匠を求めるように、
師匠も弟子を探しているのだと言うでしょう。
ドンファンとカスタネダの場合も、
ドンファンは最初からカスタネダの人生を生きて、ドンファンを探しあてたわけです。
仙人のツイッター
https://twitter.com/Tropical_Angels
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>748、>>751-752
これにより、レプティリアンという生き物の概念を説明することもできます。 わたしは、この女、ジョセフィーヌの胸の奥深くで生きた。
この女がまだ幼稚園児のとき、
「イエス様、イエス様、あなたのおそばへ参ります」
そんな歌を歌うのを聞き、
「わたしはあなたの胸のここにいるのに、
あなたはなぜ、外側にわたしを求めようとするのか。
その歌を歌うのをやめなさい。皆にもそう言いなさい。」
そう言って歌をやめさせたのは、わたしだ。
女はそのとき、
胸の奥深くで眠るわたしを知り、
この世界とは、わたしの見る夢であると悟った。 女はわたしを愛していたので、
わたしに会いたいと言った。
わたしも女を愛していたので、
わたしは、わたしに会った。 この女の外にあるとき、
わたしは、必ず負となる。
わたしが正であるのは、
この女の中にあるときのみである。 わたしが、この女の外に見出されるとき、
わたしは必ず悪である。
わたしが善であるのは、
この女の中にあるときのみである。
ただし、勘違いをしてはいけない。
わたしが、この女の外に見出されるとき、
わたしは必ず悪であるが、
それはわたし自身ではない。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) >>751-752
ドンファンの正体がカスタネダであったことがわかれば、
イエスとは誰であったのかがわかるでしょう。 レプティリアン的理論では、
殺された者は殺した者として生きる、
と言うか、殺された者の人生は最初から殺した者のそれである。
同様に、救難信号を発したにもかかわらず救助されなかった者は、
救難信号を無視して救助しなかった者であることになる。 被害者は加害者として生き、
裁かれた者は裁いた者となる。
この世界があまりにも理不尽なのは、
レプティリアンの世界だから。 例えば遊牧民という言葉を使うなら、遊牧民に殺戮されたほうが、遊牧民ということになる。
このあまりにもワヤクチャな展開は、この世界の祖がレプティリアンであることに起因している。 人間から見てあまりにも理不尽なこのレプティリアン世界は、
しかし、どこかで本当のことがわかるようになっていて、
それが伊勢における二系統の出口氏や、
A と D という 2 人の出口に集約されている。 数年前、
基地スレにコピペ貼りの主婦の人がいたころのこと、
ダーリンとわたしはテレパシーで示し合わせて、
ある場所で会う約束をしたのね。 約束した日時と場所で、
ダーリンを待ってると、
一陣の風がサァーと吹いて木の葉を揺らした。 ふと見ると、目の前に大きなバイクに乗った男の人がいて、
わたしのほうをチラッと見た。 その男の人は、
わたしの横にいた若い女の子を後ろの座席に乗せると、そのまま走り去った。
(その女の子がいたことに気付かなかったのだけど、横にいたのね)。
わたしは、彼らの後ろ姿を見送りながら、ピックアップは性交したと思った。 【訂正】
×ピックアップは性交した
○ピックアップは成功した 大きなバイクに乗って走り去った二人は、ゆきえちゃんとこうたまんだと、
わたしは知っていた。
それは、ものすだく残酷な出来事だったのよ。 これは別の話だけど、
こうたまんとひろみが一緒に車で来たから、
ゆきえさんはこうたまんと会わなかったと言っていた。
ひろみの運転する車で、二人で来たからだって。 この話も裏を返せば、
ジョセフィーヌは、
こうたまんがゆきえちゃんと一緒(一体)だから会わない、ということでもあるのよ。 >>771-772
ピックアップは成功し、
こうたまんはゆきえちゃんを選んで、バイクの後ろに乗せて走り去った。
これが、ゆきえちゃん(○○タッチさん)が絶対に去っていかない理由。 では、走り去った二人はその後どうなったか。
ダーリンとジョセフィーヌとして生きてる。 >>777
ドンファンとカルロスカスタネダのように。
しかし、ゆきえちゃんのマトリックスは、底知れぬ絶望を孕(はら)むもの。
ゆきえちゃんのマトリックスの中にいる限り、
こうたまんもひろみも、その中の登場人物でしかない。
つまりは、こうたまんもひろみもイルミナの一人になってしまうのですよ。 ひろみの運転する車で二人で来たというのは、
こうたまんはゆきえちゃんと一緒に基地スレに来たのであり、
ハブられているのは本当はジョセフィーヌであることを意味している。
ゆきえちゃんは、敗れたら敗れたで、一瞬後にはひろみ(偽ひろ)の中に封印されることを予め計算していたとも言える。 勝者は、一瞬後には敗者の中に封印され、
敗者は、一瞬後には勝者の中に封印される。 しかるに、
メタマトリックスは下位のマトリックスを食い破る。
ひろみ(偽ひろ)が伊勢いしごおり△△城出口氏であり、
N 県 I 市の麻呂の従妹であるとき、
ダーリンとジョセフィーヌはもはや、ゆきえちゃんのマトリックスの中にはいない。
イルミナのマトリックスの中から、食い破って出てきちゃってるわけです。 言ってみれば、
N 県 I 市のこうたまん、麻呂が、伊勢いしごおり△△城の出口氏である時点で、
ゆきえちゃん = ○○タッチさん = イルミナのマトリックスは崩壊してる。 三次元において、お金が貧乏の裏の顔であるように、
ジョセフィーヌはゆきえちゃんの裏の顔だと思ったら大間違い、
N 県 I 市の麻呂、ジョセフィーヌの従兄は、ゆきえちゃんのマトリックスの中の天皇ではないのです。 A は知らなかったのだけど、
D の正体はそもそも最初から、
神官家(南伊勢、北京都、美濃尾張)系だったのよ。
なので、草加婦人部の婦人が奪還しにやって来るのは当然だったわけ。 A は最近までそのことに気付かなかったので、
自分が一体どうして、草加婦人部の人たちに付きまとわれるのか、わからなかったのね。 変な人に付きまとわれて嫌がらせされる理由が本当にわからなかった。
でも、その理由がわかると同時に、
つまり D が草加であったことに気付いたと同時に、
A は、王仁三郎が自分は天皇だと言っていた理由もわかった。 それは、A のうちが△△城の出口氏だったから。
王仁三郎は A に、自身の、王仁三郎のマトリックスを
食い破って出て行くことを望んでいたのだと。 >>768-771
そもそも、これ最初から最後まで、
ダーリンとジョセフィーヌのことだから。
コピペ貼りや○○タッチさんの肉体は、まったくあずかり知らぬこと。 肉体以前に、
二人の間のいわゆるテレパシーにも、
まったく関与できないのに、
一体何を騒いでいるのか、やはりわからないわ。 だから、
わたしを呪えば、じゃぁ、あなた、仙人とテレパシーできるようになるわけ? そう確かに、
ジョセフィーヌ対コピペ貼りや○○タッチさんの対立抗争なんて無意味。
メタマトリックスさえ夢の世界なのだから。
カルロスカスタネダ著ドンファンシリーズを読んでいるのは、
ダヴィンチの「ラストサパー」を見ているのは、
誰かということ。 今わかりましたわ。
中大兄皇子と中臣鎌足は同一人物でしたのね。
この二人に殺された蘇我入鹿は聖徳太子のこと。
そして、聖徳太子はオリジナルの日本人の応神天皇でしたのよ。
つまり、
中大兄皇子(天智天皇)= 中臣鎌足 = 王仁(百済人)
蘇我入鹿 = 聖徳太子 = 応神天皇(オリジナルの日本人) 舟木氏が神八井命の裔であることと、
聖徳太子のまたの名が「豊聡耳」(とよとみみ)であることが、
これで繋がりますでしょう。 >>795
訂正
舟木氏が神八井命の裔であることとと
↓
舟木氏が神八井耳命の裔であることと 大体この時期(5 〜 6 世紀頃)、
日十大王という人物がいたとされる。
十の太陽を操ったことからこの名で呼ばれているらしいのだけど、
この人物については聖徳太子と同一視する説もあるし、、
応神天皇と同一であるとする説もある。 天智天皇の跡目争いの壬申の乱で、
大海人皇子(天武天皇)がたどった軌跡と、
伊勢の神宮の創建にあたって倭姫がたどった軌跡が重なるわけもわかる。 >>795
豊臣秀吉のニックネームがなぜ、
○田彦の○であるかもわかる。 壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)がたどった軌跡については Wikipedia、
倭姫が天照を抱いてたどった軌跡は『倭姫命世記』(http://nire.main.jp/rouman/sinwa/yamatohime.htm)を読むとわかります。 天智天皇の妃は倭姫王。
その父親が、蘇我入鹿の従兄にあたる古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)。
この古人大兄皇子の墓があるのが、長野県皆神山の熊野出速雄神社(皆神神社)。
出速雄は建御名方の後裔であることは以前にも書きました。 聖徳太子と菅原道真も同族です。
道明寺: 土師寺(はじでら)とも。
推古朝に土師氏(菅原氏の祖先)が氏寺として建立し,聖徳太子が命名したと伝える。
菅原道真の伯母覚寿尼が住してより尼寺となる。
寺内の天満宮は維新後土師神社と改称。(コトバンクより) 皆神山へ逃げ延びた古人大兄皇子(出早雄)は、
壬申の乱で自刃した大友皇子と重なっている。 古人大兄皇子(倭姫王のお父さん)= 出早布留(いつはやふる)=日十大王
出口氏が蘇我氏で表されているから、
王朝交代の歴史は完全に闇の中に没し去ってしまっている。 大伴氏と△△城の△△氏は同祖。
道臣命を祖としている。
姓氏が全部改変されちゃってるんだもの。
わからないですよ、それは何も。 大化の改新の始まりは乙巳(イッシ)の変。
いしごおり(一志郡)が舞台であったのは自明の理です。 壬申の乱のとき、朝明郡(あさけごおり、今の四日市市)の十四川で、
天武天皇が伊勢の神宮を用拜して戦勝祈願したとされている理由もわかるでしょう(>>43)。 567 名前:本当にあった怖い名無し[] 投稿日:2018/10/04(木) 14:52:55.69 ID:i13H7fDd0 [3/25]
三重県四日市市には、十四川という川があるのだけど、
この川の名前は、呪いの心「呪志」の転訛なんだそうです。
色々な見方があるものです。
>川名の「十四」を「呪志」 の転化とみ、
>「のろし」 と理解したようである。
(出典:『皇学館大学史料編纂所報 平成 16 年 8 月 10 日』より) >>768-773
この時点において既に、
肉体レベルで完全にハブられていることに気付くべきだったんじゃないの。 >>766
レプティリアンとドラコさんは違う種族だよ。
どっちかというとドラコさんが上でレプティが下の力関係
どっちかというとというのは、個体によっては強いレプティもいるし弱めなドラコさん個体もいるから。
どっちかというとドラコさんはレプティちゃんより気品があって強そうにみえるし頭もいい。←むろん個体によって差異があるけど。 ドラコさんの気高いタイプ系は神々しさがあるし話のわかるタイプだから←相対する相手によるけどw
違う種族でも同じく高尚なタイプなら打ち解けて話してくれると思うよ。ヒューマノイド系より物知りな分野もあるし。
気高いタイプ系は、あんましちょこまか姿を見せなくて、くだらない生物とは関わりあいたくなくてプライドも高くて難しい事を考えてる。 >>799-801
倭姫命が、叔母であり前任者であった、
皇女豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)から任務をバトンタッチされ、
天照大神を抱いて辿った軌跡は次のとおり。
大和国を出立
奈良県御杖村御杖神社
↓
伊賀国隠市守宮(なばりのいちもりのみや)
↓
伊賀国穴穂宮(あなほのみや)
↓
伊賀国阿閇柘殖宮、敢都美恵宮(あへとみえのみや)
↓
近江国
↓
美濃国
↓
尾張国 (続き、ここより伊勢へ入る)
桑名(三重県桑名市)
↓
鈴鹿(鈴鹿市)
↓
安濃国(津市)
↓
ここより一志郡
壱志阿佐加(松阪市)
↓
飯野高宮(松阪市)
↓
飯野高宮(多気郡明和町)
↓
伊蘓宮(伊勢市)、または相可上神社(多気郡)
↓
五十鈴宮(皇大神宮) >>814【一部訂正】
ここより一志郡
壱志阿佐加(旧一志郡、現松阪市阿坂)
↓
飯野高宮(旧飯南郡、現松阪市山添町)
↓
多気佐々牟?宮(多気郡明和町)
↓
伊蘓宮(伊勢市)、または相可上神社(多気郡)
↓
五十鈴宮(皇大神宮) 壬申の乱における大海人皇子の軌跡
名張(>>813 の隠(なばり)に同じ)
↓
美濃、伊勢、伊賀、熊野その他の豪族の信を得る
↓
伊賀(阿拝郡司が参戦)
↓
積殖(つみえ、現在の伊賀市柘植)で長男の高市皇子の軍と合流
↓
伊勢
↓
美濃へ。不破(現在の岐阜県関が原)を封鎖。 大海人の主な臣下。
和珥部君手(わにべのきみて)← ご存じワニ氏
胆香瓦安倍(いかごのあべ)← 伊賀のアヘシヒコ
朴井雄君(えのいのおきみ)← 物部のボクテ >>814
桑名の野代宮(くわなののしろのみや)では、、
神官家度会氏の祖である大若子命(大幡主命)が現れ、
以降、倭姫命の伊勢国での行程の案内役を務める。 桑名、鈴鹿、津を経て一志郡へ入り、
神宮のある南伊勢まで南下する倭姫命の案内役を務める大若子。
これは本当は誰だったでしょうか。 『倭姫命世記』=『古事記』『日本書紀』
記紀では、天照大神の孫、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の先導役を務めたのは猿田彦。
大若子命(倭姫命のガイド役)=猿田彦
猿田彦 =△△城の城主 では、本物の伊勢の神宮家の度会氏は?
>>817
この 3 人を含む、または、この 3 人に関与する複合体。
倭姫命に美濃尾張からついてきた人たち。随伴神。 天鈿女命(あめのうずめ)=天照大神、またはその分身。つまり倭姫命。 もう少し補足すると、
倭姫命がおなかに宿すか、
背中に背負っていた子が、瓊瓊杵尊 = 度会氏の祖。 伊勢たけごおりの大鹿(おおが)は、
元々は船木氏が支配していた。
これに代わったのが隣の御杖村からやって来た王仁氏。
>>817
> 大海人の主な臣下。
>
> 和珥部君手(わにべのきみて)← 王仁ス○ノ氏
> 胆香瓦安倍(いかごのあべ)← 伊賀のアヘシヒコ、伊勢津彦の宿敵
> 朴井雄君(えのいのおきみ)← 物部のボクテ
3 人とも G 県 E 市の人。これが筆頭神官家。 >>825
> 伊勢たけごおりの大鹿(おおが)は、
> 元々は船木氏が支配していた。
ここからは、ジョセフィーヌのスペキュレーションに過ぎないため、
具体的な史料等を挙げて実証することはできません。
出雲からやって来た複合氏族体、五十猛神(イソタケル)。
その主な構成員である船木氏と出口氏は当初、
船木氏が竹ごおり(多気郡)、出口氏が石ごおりを治めて互いに協力し合っていた。 【推論始め】
出雲からやって来た複合氏族体、五十猛神(イソタケル)。
その主な構成員である船木氏と出口氏は当初、
船木氏が竹ごおり(多気郡)、出口氏が石ごおりを治めて、互いに協力し合っていた。
石(イソ)と竹(タケ)で五十猛神(イソタケル)。
五十猛神(イソタケル)と呼ばれる人格神は、
船木、出口、日置を主な構成員とする複合的な氏族集合体。
日置氏は単独でも一氏族として存在するが、
測量士モードの船木氏、出口氏が日置氏を名乗ることもあるため、
船木氏と出口氏の組み合わせのみ存在する場合もある。 測量士モードの船木氏、出口氏が隠れ日置氏であるため、
船木氏と出口氏の組み合わせのみあって、日置氏がいないこともある。 竹ごおりの船木氏を制圧して、
支配者の地位に取って代わったのが、
隣の御杖村からやって来たオージンス○ノ氏(物部中臣)。 伊勢国大鹿首小熊(おおがのおびとおぐま)の女(むすめと読んでね)、
菟名子(うなこ)は敏達天皇の妃に上げられ、二人の内親王を産んで、
のちの天智天皇の祖母となる。
この菟名子は、本当は船木氏の女で、
神功皇后。 応神天皇の母となる神功皇后は、
竹ごおりの船木氏の女(むすめ)、菟名子(ウサギの名の子)。 オージンス○ノ氏は、クロコダイルを船の暗喩として用いた。
神功皇后が和邇氏一族の女であるとする説が有力なのも、このため。
ちなみに、一志郡を東進していた太陽崇拝氏族を和邇氏とした歴史学者がいるのも、
多気郡の船木氏に取って代わったオージンス○ノ氏と混同したと思われる。 敏達天皇と菟名子が結婚する話は、
竹ごおりの船木氏の女と石ごおりの出口氏との婚姻譚(こんいんたん)。 神功皇后、菟名子の夫は、武内宿禰。
この人は竹取物語の竹取の翁(おきな)。
自らの男根、竹の中に娘を孕(はら)んだ。
竹の内に子(ね)を宿した人。 武内宿禰はまた浦島太郎(本名: みずのえのうらしまこ)でもある。
壬(みずのえ)は妊娠の妊であり、壬子は子を孕(はら)むこと。
この場合、神功皇后のウナ子は当然、乙姫でもあることになる。
ウナ子の兎(卯)は乙(きのと)において最も旺ずる。 住吉大社神代記に、船木氏が神功皇后に船を奉ったとあるのも、
倭姫命世記に、竹田の国佐奈(佐那)県造の祖が倭姫命を船で送ったとあるのも、
船木氏が娘を船で送っただけのこと。 倭姫命世記では、このとき、
(つまり、たけごおり、さなのあがた造の祖が倭姫命を船で送ってくれたとき)、
倭姫命は櫛田川に櫛を落とす。
この櫛はギリシャ文字のクシー、クサイの暗喩。
倭姫命は、このとき、クサイ、すなわちイサクを捨てた。 >>836
ワニが白うさぎを送った話もこれ。
本当は船木氏が娘を船で送った話。 猿田彦がヒラフ貝にはさまれて溺れたことになっているのは、
天鈿女(あめのうずめ)が愛宕川近くの平生で櫛を捨てたから。 >>836-837
>佐奈(佐那)県造の祖の弥志呂宿祢命に、
>「汝が国の名は何そ」と問ふと、「こもりく 志多備の国、まくさむ
>毛佐向国(草向ふ国)」と申上げて、神田・神戸を進った。
>また大若子命に「汝が国の名は何そ」と問ふと、
「百張ももはる蘇我の国、五百枝刺いほえさす竹田の国」と申上げた。
>その処に(倭姫の)御櫛が落ちたので、その地を櫛田と名づけ、櫛田社を定められた。
(出典:『倭姫命世記』飯野の高宮より)
ちなみに、前にも書きましたが、
この佐奈(佐那)県にある佐那神社と、
一志郡美濃田町の敏太神社(みぬた神社、三天王社がある)は、
社紋が同じ左三つ巴。
神功皇后と応神天皇にゆかりの神社に多い紋。 竹取の翁(おきな)と浦島太郎と因幡の白うさぎのワニが同じなんて、
日本昔話は奥が深くて面白いですわね。 四面楚歌で有名な、漢の劉邦と楚の項羽の戦いで、
項羽が詠んだとされる、
力抜山兮気蓋世
時不利兮騅不逝
騅不逝兮可奈何
虞兮虞兮奈若何
この「虞や虞や汝をいかんせん」も、
実は猿田彦が妻の天鈿女に向けて詠んだ歌が元になっている。 彼女「はいおっぱい(ペターン)」
ワイ「ちゅうちゅう」
ワイ「まま…まま…」ちゅうちゅう
彼女「あっ…も、もうおしまいっ!」
ワイ「ちゅぽんっ!」
彼女「はぁー…はぁー…///」
ワイ「まま、ちゅうちゅうして」ぬぎぬぎボロンッ
彼女「へっ?」
ワイ「まま、まま」ぐりぐり
彼女「んっ…んむぅっ!///」
ワイ「ちゅうちゅう、ちゅうちゅう」
彼女「んぐぅ…ぺろっぺろっ、ちゅううっ…」
ワイ「あっ」ぞくっ!
彼女「ちゅうっ…ぺろぺろ…っじゅるるるる!」
ワイ「まま!まま!ままぁーッ!」がくがく!
彼女「じゅっぽ!じゅっぽ!じゅるる!じゅっぽ!じゅっぽ!っちゅううう!」
ワイ「ああーっ♡ああーっ♡」ビュルルルッ!!
彼女「ごく。ごく。ぷはぁ、いっぱいだせたね。えらいえらい」ナデナデ
ワイ「まま…すき…♡」
彼女「ママもすきだよ」チュッ♪
ワイ「んっ♡すき…すきぃ…♡」チュッチュッ
やばすぎ^^ 892本当にあった怖い名無し2018/04/09(月) 20:33:54.03ID:C/tgMNeh0
【天日鷲命】-【大麻彦命(天日鷲命)】-【阿波之宇志彦命(天日鷲翔矢命)】
天日鷲命、大麻彦命、阿波之宇志比古命は阿波国を拠点としていた。(天日鷲命三代
まで阿波国・四代からは安房国)
(出典: http://awa-otoko.hatenablog.com/entry/2016/11/05/202627)
【阿波之宇志彦命(天日鷲翔矢命)】の「阿波之宇志彦命」は、
丹波比古多々須美知能宇斯王(タニハノヒコタタスミチノウシ王)。
古事記、日本書紀に登場する皇族。
百済人の牛王と同一人物か同族である可能性が高いです。 892本当にあった怖い名無し2018/04/09(月) 20:33:54.03ID:C/tgMNeh0
【天日鷲命】-【大麻彦命(天日鷲命)】-【阿波之宇志彦命(天日鷲翔矢命)】
天日鷲命、大麻彦命、阿波之宇志比古命は阿波国を拠点としていた。
(天日鷲命三代 まで阿波国・四代からは安房国)
(出典: http://awa-otoko.hatenablog.com/entry/2016/11/05/202627)
【阿波之宇志彦命(天日鷲翔矢命)】の「阿波之宇志彦命」は、
丹波比古多々須美知能宇斯王(タニハノヒコタタスミチノウシ王)。
古事記、日本書紀に登場する皇族。
百済人の牛王と同一人物か同族である可能性が高いです。 907本当にあった怖い名無し2018/04/12(木) 19:10:41.14ID:fgSc5kvD0
建御名方(諏訪長野)= 伊勢津彦(伊賀三重)= 伊豆速布留(勢州阿射加)
「建御名方命の孫にあたる出速雄命」(>>906)と阿射加の伊豆速布留は同一であると考えます。
この 3 神は、阿波忌部を構成する天日鷲、天日別、そして天村雲(いずれも度会氏の祖神)
を介することにより、 イコールで結ばれるわけですが、
さらに、阿波の天日鷲の系統の中に阿波之宇志彦命(天日鷲翔矢命)が見え、
これが丹波の丹波比古多々須美知能宇斯王と同一であることから((>>892)、
宇志(牛)氏を介した阿波と北京都とのつながりも検討課題となっています。 >>848-850
> 【阿波之宇志彦命(天日鷲翔矢命)】の「阿波之宇志彦命」は、
> 丹波比古多々須美知能宇斯王(タニハノヒコタタスミチノウシ王)。
> 百済人の牛王と同一人物か同族である可能性が高いです。
丹波比古多々須美知能宇斯王(タニハノヒコタタスミチノウシ王)は、
父、日子坐王と、母、息長水依比売(オキナガノミズヨリヒメノ命)の間に生まれた子。
日子坐王(ひこますおう)は、
開化天皇と和珥臣(和珥氏)遠祖の女(むすめ)との間に生まれた子で、
墓は、宮内庁により岐阜県岐阜市岩田西にある日子坐命墓(ひこいますのみことのはか、位置)に治定されている。
(Wiki より) >>830-838
せやさかい、
うちが神功ウナ子どす。 初めは、親の治めてた佐那の地にちなんで、
サナ子いう名前どしたんどすけど、
途中で舟木のフナ子になって、
それでは魚の鮒みたいやいうことで、
神八井耳のお耳(33)が長〜いから、ウサ子→ウナ子になりましたんどす。
和邇氏の娘みたいに言われてますけど、
ほんまの旧姓は舟木どす。舟木ウサ子。 >>851
息長水依比売(オキナガノミズヨリヒメ)いうんは、
うちのことどす。
息子の丹波比古多々須美知能宇斯王(タニハノヒコタタスミチノウシ王)は、
いわゆる応神天皇(王仁)どす。
伊勢神宮の外宮、度会大国玉比賣神社に、
弥豆佐佐良比賣命(みずささらひめ)として祀られてるんは、うちどす。
おきながみずよりひめ = みずささらひめ、いうことどすえ。 >>851
>丹波比古多々須美知能宇斯王(タニハノヒコタタスミチノウシ王)は、
>父、日子坐王と、母、息長水依比売(オキナガノミズヨリヒメノ命)の間に生まれた子。
息子の父親、日子坐王は、
うちと一緒に度会大国玉比賣神社に祀られている大国玉命のことどす。
岐阜の人と入れ替わってますけど、伊勢の人どす。 日子坐王いうんは、
一志ごおりの猿田彦さんのことどす。
美知能宇斯王(ミチノウシ王)のミチは、
道はやふる、の道にかけてますんどす。
ウシはもちろん、牛氏から来てます。 猿田彦さんは、
本来は日(火)の神どすさかい、
いつはやふる(厳はやふる)が本名どすけど、
道づくりが趣味で、水陸両方の道を造成するさかい、
地はやふる、水はやふる、と、
うちと一心同体の名を名乗ってますんどす。 大昔は、道は主に水路を使うてましたさかい、
船は重要な輸送手段どしたんどす。 同じく和邇氏の女(むすめ)で、
宇那比姫(うなひひめ)いうのも、うちのことどす。
卑弥呼モード、つまり日置氏のうちのことどす。 伊勢神宮の斎宮ておますでしょ。
今の三重県多気郡明和町にあるあの斎宮の場所は、
地図をごらんいただくとわかりますけど、
一志ごおりの△△城と、多気ごおりの佐那や相可(おうか)のちょうど中間地点にありますんどす。 あれが卑弥呼の邪馬台国どす。
多気ごおりの舟木氏と、
一志ごおりの出口氏の都を、今の斎宮のある場所に造営するプランがおましたんどす。
日置とは、舟木と出口の共同モードみたいなもんどす。 道て「とう」とも読みますやろ。
あれは、ヘブライ文字のタウに由来してますのえ。
道は十文字に交わるさかい、タウからトウになりましたんどす。
せやさかい、道路の造成は、タウの象徴するダン族の仕事になってますんどす。 ヘブライ文字 22 番目のタウは、1 番目のアレフとも互換やさかい、
みちはやふるは、いちはやふる、とも言うんどす。 >>860-861
つまり、
多気郡明和町の斎宮と△△城、
それに舟木氏の拠点があったと思われる多気ごおりの相可から佐那のあたり。
この 3 点を結ぶと、大体正三角形に近い三角形ができるんどす。 斎宮は広おますさかい、
Google 地図に「古里公園」とある「園」の字を一応の斎宮の地点にして距離を測ってみると、
斎宮(三重県多気郡明和町) 〜 △△城 10.05 km
△△城 〜 相鹿上神社(三重県多気町相可) 10.10 q
佐那駅 〜 斎宮古里公園 9.81 q
舟木氏が拠点にしていたと思われる相可から佐那のあたりというのも、
斎宮と同じかそれ以上にあいまいな言い方で、
実際は広い範囲にまたがっているので、
正確には測れませんけど。 それでも、さっくり言うて、
一志ごおりの△△城
多気ごおりの相鹿上神社、佐那神社
斎宮
この 3 つの地点は一辺がほぼ 10 q、
三辺の和が大体 30 〜 33 q になる、
正三角形に近い形を形成しとるんどす。 >>151
和邇氏は水軍担当の軍事氏族という説もあるぞ。 >>867
和邇氏 = 王仁氏 = オージンス○ノ氏(物部氏) = 牛(宇志)氏 = ウ○トコ氏 = 牛の土蜘蛛 = 牛鬼 ≒ 九鬼
九鬼水郡を率いた九鬼氏も、遡れば物部ス○ノ氏(王仁氏)に繋がるからではないでしょうか。
これらは日本海側京都の丹波比古多々須美知能宇斯王(タニハノヒコタタスミチノウシ王)や阿波の天日鷲の系統ともつながります。 和邇氏は物部氏を構成する氏族なのですから、
軍事的色彩が強いのは当然だし、
そもそも舟木氏を上書きしているのだから、
水軍担当ということになるでしょう。 天理市にある石上神宮の近くを流れる布留川、
この付近を拠点にしていたのが和邇氏でしょう。
そして、石上神宮の周囲にはス○ノ姓と出口姓が多い。
伊勢一志ごおりのフル川水神と布留川との関係も謎。 >>868
訂正
九鬼水郡を率いた九鬼氏
↓
九鬼水軍を率いた九鬼氏 土岐 頼尚(とき よりなお)とは、
陽成源氏(摂津源氏)流土岐氏(美濃源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。
舟木頼尚 : 舟木頼重(頼直/頼真)の曾孫、頼春(頼玄/頼員)の孫、
頼夏の子、政尚の父、政頼の祖父、光俊の曾
祖父。戦国時代の南光坊天海(秀光/随風)[1]は、その後裔である。
明智頼尚 : 明智頼重(頼助)[2]の8世の孫、
頼篤の7世の孫、国篤の6世の孫、頼秋の玄孫、頼秀の曾孫、
頼弘の孫、頼定の子、頼典(よりなお、光継)・頼明の父。
(出典: http://ja.japan.wikia.com/wiki/) 尊卑分脈によると
頼光七世孫土岐五郎光行---頼貞(隠岐孫二郎、土岐惣領)、
弟頼重(号船木、隠岐孫三郎、右衛門蔵人、從五位下、右近将監、母定親に同じ)
(出典: http://rekishkakeizu.seesaa.net/article/373162096.html)
土岐光行の子、土岐頼貞の弟であった頼重が「船木」を号すとある。
但し、この文書の原典と思われる塙保己一編『続群書類従 5下(系図部)』には、
「渡會郡山田住人書之(中略)以其素右系?因左馬介光春嫡男正光之命。」と書かれている。 この明智系図(http://blog.sasakitoru.com/201312/article_1.html、
美濃土岐氏系図の研究(1)―土岐頼貞の系譜というブログより)
に見える土岐頼貞は、
>874 の船木系図にある頼貞(隠岐孫二郎、土岐惣領)と同一人物でしょう。
Wikipedia には、
土岐頼貞(1271 〜 1339 年)、兄弟に舟木頼重とあります。
つまり、土岐頼貞の弟、土岐頼重イコール船木頼重ということ。 しかるに、明智系図に登場する
>伯耆九郎頼基・十郎頼兼・弥十郎頼明らは頼貞の正妻北条氏の子であり、
>東美濃の明智長山城の明智を名乗った。
土岐頼貞の息子たちが、東美濃の明智長山城の明智ということは、
頼貞の弟である船木頼重(船木の祖)と、明智長山城の明智とは叔父甥の関係であり、
船木頼重にとって、東美濃の明智は本家にあたるということです。 船木頼重と同じ「頼重」という名を持つ人物は明智氏にもいます。
明智頼重(1342 〜 1423 年)
明智 頼重(あけち よりしげ)は、南北朝時代から室町時代の武将。
美濃国可児郡明智城主。
美濃守護土岐頼貞の九男長山頼基の子。土岐氏支流の明智氏の祖、あるいは二代目とされる。
(Wiki より) 明智系図(>>875)にある明智頼基の子、ということは、
土岐頼貞の弟である船木頼重にとって、明智頼重は甥の子どもにあたる。
本能寺の変を起こした明智光秀の祖である明智頼重にとって、
船木頼重は大叔父にあたるということになります。
甥の明智頼重(別名明智彦九郎)が、明智光秀の直接の祖になるようです。 >頼清・頼遠は活躍し父頼貞は美濃守護に補任された。
土岐頼貞は、子らの活躍により、美濃守護に任じられた。 旧高松城跡
境内はかつて高松城(別名:喜岡城、以下同上)の本丸であった。
喜岡城は1335年(建武2年)に建武の新政で功をあげて讃岐守護となった舟木頼重(後に地名をとって高松頼重と
名乗る)が築城するも、同年11月26日に足利尊氏の臣下、細川定禅らの軍勢によって落城する。しかし、頼重は生
き延び、子孫の高松頼邑によって城は再建。(Wiki「喜岡寺」の項より)
美濃国初代守護、土岐頼貞の弟にあたる舟木頼重が、
讃岐守護となった高松頼重であるということです。 >元弘元年(1331)に始まる元弘の変で鎌倉幕府が滅亡すると、
頼兼の兄伯耆九郎頼基の子頼重(高松三郎頼重)が建武新政のもと讃岐守護になった。<
頼基の子の、頼重は、明智頼重ですので、これは間違いかと思われます。
明智頼重は美濃可児郡明智城主です。 明智頼重
美濃守護土岐頼貞の九男長山頼基の子。美濃国可児郡明智城主。
(Wiki より)
>頼基の子頼重(高松三郎頼重)が建武新政のもと讃岐守護になった。
この 2 人は同じ明智頼重を指していますが、おかしいです。 >>882 は、
土岐頼貞の弟である土岐頼重(船木頼重)と、
土岐頼貞の息子の子(つまり孫)である土岐頼重(明智頼重)を混同しています。 >>874 の舟木氏系図では、
この讃岐守護となった船木頼重の子が頼春、頼春の弟頼重の子がまた頼春で、
その子が頼夏となっている。
この頼夏が、美濃から伊勢へやって来た船木氏の初代(と思われる)船木頼尚の父親です。
>正平 8 年舟木頼夏(土岐一族)は子の頼尚を官軍につけさせた。頼尚は子とともに伊勢に入った。
(http://www.amigo2.ne.jp/~fuchisai/home/denki.htm) 正平 8 年は西暦 1353 年です。
建武 2 年(1335 年)に讃岐香川で高松城を築くも同年落城の憂き目にあった船木頼重。
その孫かひ孫にあたる頼夏の子、頼尚が、
高松城落城から 20 年も経たないうちに伊勢へやって来ている。
しかし、伊勢一志郡における舟木氏の系統というのはすべて、
この頼夏の子、頼尚、その子正尚を起点にして展開していると言っても過言ではありません。
舟木正尚の二男、正頼の子光俊、光俊の二男光頼の孫光春、その弟中村光長が△△城の城主とされています。 つまり、△△城の城主であった中村、舟木氏は、
元をただせば、美濃の明智氏だったということです。 伊勢舟木家の系図に含まれる乙部氏については、
次にあるように、
「一 正ョ之 嫡男 孫 五 カ康正 者。 爲乙部 家 之 養子」
乙部氏と養子縁組したことになっているのでしょう。
乙部氏は美濃清和源氏の一族に含まれています。
ただし、遅くとも 1185 年には成立したとされる
「平安遺文古文書編東南院文書」東大寺文書にすでに、
一志郡堀内の舟木と乙部の中村氏が記載されていることは前述しました。 この東大寺文書について検討します。
【※『船木弟虫』;伊勢ノ船来直(船木直。船木−伊勢国朝明郡舟木明神祠官。西脇−同郡耳利神社祠官)、
船木臣、船木宿祢(舟木、堀内−伊勢国一志郡人。乙部、中村−伊勢人)】
伊勢ノ船来直(船木直。船木−伊勢国朝明郡舟木明神祠官
この船木氏は朝明郡(現在の三重県四日市市)にある船木明神の神官です。
朝明郡の一部はのちに分割されて伊勢国員弁郡となった。
員弁はおそらく忌部(物部)氏と関係している地名と考えます。 www.geocities.jp/engisiki/ise/bun/is081112-01.html
耳常神社
伊勢国 朝明郡鎮座 (合祀)耳利神社
三重県四日市市下之宮町319
【祭神】 神八井耳命 (配祀)建御雷之男神 斎主神 天児屋根命 姫神 神沼河耳尊 大山祇命
この耳常神社が「舟木明神祠官」の舟木明神です。
祭神は、相鹿上神社(三重県多気郡相可)と同じ天児屋根命。
中臣氏の祖神です。
天児屋根命 ≒ 中臣大鹿島 = 建御雷之男(鹿島神宮)
ちなみに、相鹿上神社の神紋は雀口桜で、
鹿島神宮の近くに特高隊飛行場があり、
その特高兵器が「桜花(おうか)」と呼ばれたことと無関係ではないと思います。 http://www.geocities.jp/engisiki/ise/bun/is081111-01.html
耳利神社 菟上耳利神社に合祀
三重県四日市市伊坂町1388
【祭神】応神天皇 菟上王または菟道稚郎子
これが「西脇−同郡耳利神社祠官」の耳利神社。
おそらく朝明郡の船木氏と同族の西脇氏が神官を務めていたのでしょう。
菟道稚郎子(うじのいらつこ)は宇治の地名の元になった皇族です。
これについては、機会を改めて書きます。 船木宿祢(舟木、堀内−伊勢国一志郡人。乙部、中村−伊勢人)】
一志郡の舟木氏に関係しているのはこの部分です。
一般に舟木家系図とされているものがかなりデタラメであることを裏付けるのが、
東大寺文書のこの記載なわけですが、一志郡堀内の舟木氏についても、
同じ文書の同じ欄に、朝明郡(現四日市市)の船木氏と一緒に記載されているという事実は見逃すべきではないと考えます。
つまり、一志郡堀内の舟木氏も、多気郡大鹿の中臣氏に通じる系統である可能性を軽率に捨て去ってしまうことはできない。
論証の公平さを欠くことになるからです。 明智系図の原本になっていると思われる系図をお持ちなのは、
岐阜の出口さんという方なのです。
東京大学史料編纂所のデータベースで公開されている文書ですが、
下の名前だけは一応伏せておきます。
東京大学史料編纂所
【書名】 明智氏一族宮城家相伝系図書
明智氏一族宮城家相伝系図書 出口欽三 岐阜県揖斐郡揖斐町
【原蔵者】 出口○△(岐阜県揖斐郡揖斐町)
【注記】 原題:清和源姓美濃国住土岐家随一之連枝
明智氏一族宮城家相伝系図書 岐阜県揖斐郡は、揖斐川のあるところです。
揖斐川は出雲の斐川と関係がないわけがない。
岐阜県揖斐郡揖斐川町
島根県出雲市斐川町
旧伊勢街道沿いにあるフル川水神も、
この出雲の斐川がオリジナルであるとの推論を前提にしています。 >>892
ごめんなさい、下の名前を伏せてませんでした。
まぁ、いいか。公開文書だし。 この出口さんは、明智氏一族宮城家の縁者の方なのかな。
ちなみにですが、この系図の最後の部分は、
宮城家の子孫の方が「故あって恵那郡へ移住する」との記述で終わっている。
土岐明智氏の系図を、岐阜の出口氏が持っているということは、
一志郡の出口氏も、
美濃の明智舟木氏について伊勢へやって来た可能性が濃厚になることを意味しますよね。 が、しかし、
それでは辻褄の合わないことが多すぎる。
誰かが嘘をついているのです。 そな話はどうでもいいかは
福岡の部落の荒瀬一味の話をしろよ 秀吉時代に朝鮮から連れてこられた
部落の荒瀬一味は何処の末裔になるんだ? 日本は天皇家の話ししかしないから
底辺の部落どもは何もしらないんだよ
そして、自分達も日本の天皇家の末裔だとか
勘違いする始末 もう、わかりきった天皇家の話は意味がない
部落の謎の解明こそ意味がある わかりきってませんわよ。
伊勢一志郡△△城の舟木氏が美濃の明智氏だなんて、
知られてませんでしょう。 三重県四日市市にも霞ヶ浦という地名がありますのね。
桜花(おうか)という名の特攻兵器を使った予科練訓練場は、
茨城県の霞ヶ浦にありましたのよ。 >>889
日本人はもっと色々ちゃんと調べて知るべきだと思うわ。 そんな事、誰が興味があるんだ?
ほとんどの日本人は自分の先祖の流れもしらないのに 苗字で先祖を辿ると
背後にいる先祖は朝鮮部落なのに
ほとんど天皇家に辿り着くんだよ
あり得ないだろう 部落地域の農民の出の苗字は
ほとんど天皇家と関係ない
出所でわかるけどね
今の天皇家も部落から嫁をもらってるんだよ 言い伝えとか残ってる地域は
ちゃんと侍の先祖が守ってるけど
ほとんどの農民の苗字は天皇家と関係ない
朝鮮から連れてこられた
部落地域が日本での本拠地なんだよ
だから地獄のふ暴力団もうじゃうじゃしている、 言い伝えとか残ってる地域は
ちゃんと侍の先祖が守ってるけど
ほとんどの農民の出の苗字は天皇家と関係ない
朝鮮から連れてこられた
部落地域が日本での本拠地なんだよ
だから地獄の部落の先祖の朝鮮暴力団がうじゃうじゃしているんだよ 部落の荒瀬一味は今度は裏をかく作戦みたい
中学生に恋しているロリコン荒瀬め
しまいには薩摩の龍神様から殺されるよ
わしの天皇家は天皇家の龍神様にとっては
大事な御所なんだよ 荒瀬一味は福岡のただの朝鮮部落
わしの御所は薩摩の大将の島津家の御所なんだよ
部落はヤクザだけど
島津家は天皇家の龍神様なんだよ
さっさと出ていけ まぁ、神社なんてそれ自体、全部同じ人たちが建てたものですから。
全国津々浦々にある神社はどれも、
同じ(サイドの)人たちが同じようなコンセプトに基づいて建てたものでしょう。
伊勢神宮も出雲大社も石上神宮も、
神社、という点では変わらないのですから。 当然、そこに祀られている祭神もそう。全部、現支配者側のものです。
わたしが話の起点にしている
一志ごおり阿射加神社の猿田彦や、多気ごおり佐那神社の天手力男にしたところが、
現天皇家側のマトリックスの中のものなわけです。 記紀に書かれている人物や事物について、
現今のマトリックスを否定する目的で、
現今のマトリックス中にある史料を使って論証をしても、本当の意味では無意味です。
記紀だけでなく現存のあらゆる古文書について、
一般的な意味での信頼性、信憑性を問うというよりも、
現今のマトリックスを否定する目的で、現今のマトリックス内にあるデータを使うというのが、
そもそもこちらの矛盾なのです。 記紀に書かれている猿田彦や天鈿女命、神功皇后について、
記紀の記述に基づいて新たな事実を見出そうとするのは無意味です。
下位のマトリックスの中で上位のマトリックス(メタマトリックス)を実証することは、
基本的には不可能だからです。
不可能というより、メタマトリックスにとってこの下位のマトリックスは意味がないのです。
幻想みたいなものだから。 ただし、幻想とはいえ、
人間にとっての現今のマトリックスと
上位のマトリックスであるメタマトリックスは同じ素材やものを使っている。
夢の中で、見る世界や肉体は、起きているときに見ている世界や肉体の写しですよね。
人や物の形や姿は夢の中と違うものではありませんよね。 ですので、こうした論証により今まで隠されていたものを見つけ出そうとする作業も、
たとえ現今のマトリックス内のものではあっても、まったく無意味かと言えばそうでもないと考えます。
記紀を精読しているわけではありませんが、
そこに書かれていることは全部が全部虚偽というわけでもなくて、
うっかり本当のことを書いてしまった部分や、矛盾の整合性をとり切れなくて事実が漏れている部分、
あるいは編者自身の良心の呵責で嘘がつけなかった部分もあったのかもしれない。
万葉集などには、作者や編者による真実の吐露が暗号として隠されているという説もあります。 例えば神社に関して、
神社なんてすべて同じ(サイドの)人たちが建てたものだとは言っても、
そこには何らかの真実の痕跡が残されている。
土地の先住民による古い祭祀の場に建っている神社と、
新しい人たちが自分たちの神を祀った神社の違いがあるとしたら何か。
例えばこうした模索からでも、
隠されたメタマトリックスが旧態のマトリックスを食い破って出てくる、
そのプロセスの端緒を開くきっかけといいましょうか、
いわゆる嚆矢(こうし)となり得る可能性を秘めているのではないかと考えています。 伊勢国朝明郡は現在の三重県四日市の一部とその周辺を含む地域を指します。
http://www.geocities.jp/engisiki/ise/bun/is081112-01.html
耳常神社
舟木直の祀る耳常神社は、舟木明神または春日明神と呼ばれていた。
475本当にあった怖い名無し2018/08/31(金) 14:28:48.27ID:gGLjX2AP0
朝明郡の舟木氏については後述します。 >>889
> 耳常神社
> 伊勢国 朝明郡鎮座 (合祀)耳利神社
> 三重県四日市市下之宮町319
> 【祭神】 神八井耳命 (配祀)建御雷之男神 斎主神 天児屋根命 姫神 神沼河耳尊 大山祇命
耳常神社の主祭神は神八井耳命。
神武天皇と伊須気余理比売命(いすけよりひめ)の間に生まれた長男で、船木氏の祖とされます。
配祀されている天児屋根命は天孫降臨の際の随伴神で、中臣氏の祖神。
このページ(http://www.genbu.net/saijin/koyane.htm)で天児屋根命 を祀る神社を見ると、
複数の春日大社系と思われる神社と、あと伊賀名張方面の神社が多く挙げられています。 春日氏について調べると、
「春日氏」は「ワニ氏」(和仁、和邇、和爾などとも)から派生した古代氏族とあります。
天児屋根命を祖神とする中臣氏は、「ワニ氏」(和仁、和邇、和爾)氏と関係していると考えられます。 >>921
朝明郡の舟木直が祀る耳常神社は、
春日明神とも呼ばれていたとあることから、
多気郡の相鹿上神社と同じく中臣和邇氏の系統であると考えられます。
ここからは、根拠のないスペキュレーションですが、
大化の改新の立役者、中臣鎌足は百済人の王仁と重ね合わされます。
中臣(大鹿嶋)≒王仁ワニ氏。
中臣和邇氏と上で書いた理由です。 多気郡の大鏡神社の宮司は船木氏ではありません。
(船木氏は近くの佐那神社で天手力男命を祀る)。
一方の朝明郡耳常神社の神官は舟木氏が務めている。
これは何を意味するかというと、
朝明郡の耳常神社の祭神は改竄されたものではないということです。
神八井耳を祀る舟木氏が正統な舟木氏であれば、
祭神の改竄を黙って見過ごすわけはないからです。
改竄だけでなく神八井耳と関係のない神の配祀も許さないでしょう。
つまり、この耳常神社は最初から、
主祭神を神八井耳とし、建御雷之男神や天児屋根命を配祀する神社として創建された神社であり、
宮司の舟木氏についても、
相鹿上神社と同じ中臣和邇氏の流れを汲む舟木氏が最初から神官として任命されていた可能性が高いと考えます。
(合祀されている耳利神社の祭神は応神天皇と菟上王なので、この際は論ずる必要はないでしょう)。
当然、多気郡の大鏡神社も、
最初から中臣和邇氏によって創建された神社であると思います。 最初から〜として創建された、の「最初から」というのは、
その地にいた古代氏族の祭祀の場の名残をとどめた色彩の強い神社ではなく、
比較的新参の人たちによって、所期の目的をもって建てられたという意味です。 その地で祭祀を行っていた、
あるいは祭祀すら行っていなかったかもしれない、
原初的な古代氏族の名残をとどめる神社ではないという意味です。 >>889
> ちなみに、相鹿上神社の神紋は雀口桜で、
> 鹿島神宮の近くに特高隊飛行場があり、
> その特高兵器が「桜花(おうか)」と呼ばれたことと無関係ではないと思います。
特攻兵器「大鹿」は、連合国軍によって「BAKA(馬鹿)」と呼ばれていたそうです。 勘のよい方なら、もう既に、
自分党とアースクエイクとの奇妙な関連についても、気付いておられるのではないでしょうか。 なんやアースクエイクって
自民党の化け物はよく遊んだわ
化け物党め >>889
> 天児屋根命 ≒ 中臣大鹿島 = 建御雷之男(鹿島神宮)
これのことでしてよ。 まぁ、自民党の政治家の中にも政治家がいるから
凄い力を持っている
わしはゼウス家の長男だ まぁ、自民党の政治家の中にもゼウス家がいるから
凄い力を持っている
わしはゼウス家の長男だ まぁ、独りよがりのわがままな天皇家だけじゃ
どうしようもないから
ゼウス家は自民党も育てたんだよ 育てたんだよ、じゃありませんわよ。
自分党に票を投じなかったら殺される国ですのよ。 そうか、わしは自民党の頭だけど
自民党に入れた事ないな
まぁ、福岡の部落地域だからしかたがない 部落政治家がどう思おうと構わんが
薩摩の島津家は本物なんだよ わしはゼウス家の宇宙船から
透明な四角箱に入ってコロコロ降りてきたから
この世の偽物はどうでもいいの
そうやって宇宙船から地球の霊界に発射されて
人間に宿るんだよ なにがねますだ
恥を知れ
偽物ども
おまえらはこの世の幻想だけだ おまえらは部落と同じて
生きる為に嘘をつく
それは嘘のこの世の世界でしか
生きられないただの幻想だからだ こいつらはただの幻想の魂だから
確かな物がないんだよ
だから何も分からない世界で
生きる為に嘘をついて藻掻いてるんだよ 関東にいるじいさん一味は
ただの神社の末裔で
宇宙船乗りの祖神はわしらなんだよ だから関東のじいさんが退位宣言する
ちょい前に
ゼウス家みんな
じいさんを宇宙船に迎えたんだよ
魂はただの神社の末裔なんだよ だから関東のじいさんが退位宣言する
ちょい前に
ゼウス家みんなで
じいさんを宇宙船に迎えたんだよ
魂はただの神社の末裔なんだよ 宇宙船乗りのわしらが
神話に出てくる
宇宙世界の王家で
地上はただの幻想の魂の神官だ だから地上はどんくりの背比べて
争っているだけ
宇宙船乗りの
宇宙世界の王家のゼウス家が
隕石一つ地球にぶつければ終わり
いつもやれるんだよ
地球の猿と戦うまでもない 喜岡城案内板(香川県高松市)の案内板には次のように書かれているそうです。
「鎌倉時代の末期、建武の中興の功臣舟木(高松)頼重が
讃岐守護職としてこの地に城をかまえていましたが、
建武二年(1335)十一月二十六日、足利尊氏の臣、細川定禅らの軍勢に攻められ、
老父一族十四人と郎党三十余人討死し、落城しました。
その後、ここ高松城にて高松庄を領した高松左馬助頼邑は、
天正十三年(1585)四月二十六日、
秀吉の四国征伐の一隊(宇喜多秀家ら七将の兵)約二万三千の攻撃をうけ、
手兵百余人と、香西氏派遣の唐人弾正、片山志摩の率いる兵、
合わせてわずか二百をもって勇敢に戦いましたが衆寡敵しがたく城兵ひとり残らず討死しました。
(出典: https://ameblo.jp/katana-bokudo/entry-12340550930.html) >>880
> 喜岡城は1335年(建武2年)に建武の新政で功をあげて
>讃岐守護となった舟木頼重(後に地名をとって高松頼重と> 名乗る)が築城するも、
>建武の新政で功をあげて
舟木頼重は、
後醍醐天皇の倒幕計画を(妻を通じて)六波羅探題に密告し、陰謀を露顕させた人。
この舟木氏系図(http://rekishkakeizu.seesaa.net/article/373162096.html)にも、
頼貞(隠岐孫二郎、土岐惣領)、弟頼重(号船木、以下略)とあるので、これは同一人物でしょう。
、: 正中の変(しょうちゅうの へん)は、
鎌倉時代後期の元亨4年9月(1324年10月)に起きた、
後醍醐天皇による討幕計画が事前に発覚し首謀者が処分された事件。
建武の新政(けんむのしんせい)は、
鎌倉幕府滅亡後の元弘3年/正慶2年(1333年)6月に
後醍醐天皇が「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したことにより成立した政権及びその新政策(「新政」)である。
建武の中興(けんむのちゅうこう)とも表現される。
(Wiki より) 正中の変で後醍醐天皇の倒幕計画を頓挫させ、
自害に追い込まれた舟木頼重親子が、
その 9 年後、同じ後醍醐天皇から建武の中興の功臣として讃岐高松を賜っている。
>後醍醐院の御宇、宣下を蒙って讃岐國高松庄に住し、諸郡を管領す。
(舟木氏系図 http://rekishkakeizu.seesaa.net/article/373267188.html) 喜岡城の高松頼重は、Wiki には生き延びたとあります。
しかし、頼重は生き延び、子孫の高松頼邑によって城は再建。
その後香西氏に属したが、1585年(天正13年)4月26日豊臣秀吉の長宗我部氏に対する四国攻めに際し、
宇喜多秀家を総大将とする約2万3千人に攻め込まれる。
対する頼邑側は長宗我部氏からの援兵を合わせてわずか200人の兵をもって戦うも敢え無く、
全員が討死し喜岡城は再び落城した。(Wiki「喜岡寺」の項より) >船木氏は美濃國本巣郡船木郷より起こる。
(舟木系図: http://rekishkakeizu.seesaa.net/article/373162096.html)
>花園院御宇、北條家執権の時、濃州、江州等において領知を賜い、且つ伊勢國守護職を命ぜられる。
>翌年文和元年、頼夏・別腹の子兵庫助頼尚を美濃國土岐に移して一族土岐家に属させる。
(舟木系図: http://rekishkakeizu.seesaa.net/article/373267188.html)
※文和元年は 1352 年
もともと美濃國本巣郡船木郷に起こり、
土岐氏の分流であったはずの舟木氏が、
花園院天皇の在世中(1308 〜 1318 年)に
美濃近江にあって領知を賜って伊勢國守護職を命ぜられ、
さらに、
頼夏の子、頼尚の代で、
美濃國土岐の土岐家に一族を属させた、とある。 一方この頃、讃岐高松では、
建武の中興の功臣舟木(高松)頼重が讃岐守護職として喜岡城を築くも(1335 年)、
同年攻め滅ぼされている。
高松頼重のその後の生死は不明だが、子孫は秀吉の時代まで生き延びたらしい。 で、>>873、>>884-885 のとおり、
>正平8年舟木頼夏(土岐一族)は子の頼尚を官軍につけさせた。頼尚は子とともに伊勢に入った。
(http://www.amigo2.ne.jp/~fuchisai/home/denki.htm)
ここから、伊勢一志郡の舟木氏の歴史が始まります。 明智家の祖とされる明智頼重が生まれるのは、これより少し後。
明智頼重(1342 〜 1423 年)
美濃国可児郡明智城主。美濃守護土岐頼貞の九男長山頼基の子。
土岐氏支流の明智氏の祖、あるいは二代目とされる。 ちなみに、
土岐光基(明智光基)は、平安時代末期に伊勢守を任じられてる。
平治元年(1159 年)己卯十二月十五日任伊勢守賜彼国
(出典は >>892 の文書) 天海僧正の出自が会津の舟木氏とされている件については、
秀吉の時代に松坂入りした蒲生氏郷の転封に伴い、
会津へついて行った舟木氏が会津藩の舟木氏の祖、というのが、
少なくも伊勢の武家としての舟木氏の公式見解のようです。
これについては、また機会を改めて。 だいじんぐうねぎ 太神宮權祢%x會光倫「号相鹿二郎大夫」は、
後に弟が生倫(なりとも)の名で出てくる。度会氏にして会賀四郎太夫とも云う。2巻養和元年十月廿日
(http://adumakagami.web.fc2.com/a-jinmei4t.htm) 養和元年(1181)十月小廿日癸亥。
昨日。太神宮權祢宜度會光倫〔号相鹿二郎大夫〕自本宮參着。
是爲致御祈?賜御願書也。
(http://adumakagami.web.fc2.com/aduma02a-10.html)
大神宮の大禰宜度會光倫(わたらひのみつとも、相鹿二郎大夫と号す)が、
源頼朝の戦勝祈願のために、
伊勢から遠路はるばる鎌倉まで出向いてくれたときのことが、
『吾妻鏡2巻』養和元年十月の段に載っている。
養和元年は 1181 年なので、頼朝が鎌倉幕府を開く前、
壇ノ浦の戦い(1185 年)よりもまだ前ですね。 一方前述の『伊勢市史』には、
頼朝が伊勢神宮に神領を寄進し、
その窓口として外宮権祢宜の相鹿光倫という人物を口入神主として、
祈祷や神官との折衝に当たらせたことが記されています。
(出自: http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/saiku/senwa/journal.asp?record=361)
頼朝は養和元年(1181)3月、
旧佐竹領であった世谷(常陸太田市)・大窪(日立市)・塩浜郷(日立市)を鹿島神宮に寄進し、
合わせて橘郷(小美玉市・行方市の一部)を寄進(所領安堵の一種)した。
この社領の寄進が鎌倉幕府と神宮との出会いの始まりである。
(出自 http://cs-kashima.jp/maibun/377.html『鹿嶋の歴史』より) >>962
> 頼朝は養和元年(1181)3月、
> 旧佐竹領であった世谷(常陸太田市)・大窪(日立市)・塩浜郷(日立市)を鹿島神宮に寄進し、
この佐竹氏は、鎌倉の八雲神社を建てた、
祇園山(シオンやま)に抱かれた大きな神社ですが、
佐竹氏を指しているのだと思います。
佐竹は砂竹、おそらくは砂金鉱山と関係していて、
頼朝はその莫大な利権を伊勢の神宮に譲渡することで、
天下を取らせてもらったのでしょうね。 第30代 敏達(びたつ)天皇
皇妃: 春日老女君、伊勢兎名子
【沼名倉太玉敷命】敏達天皇(古事記)
又娶伊勢大鹿首之女、小熊子郎女(中略)
又娶息長眞手王之女、比呂比賣命、生御子、次宇遲王。(中略)
又娶春日中若子之女、次春日王。
【沼名倉太玉敷命(ぬなくらおおたましきのみこと)】敏達天皇
また伊勢の大鹿(おおか)の首(おびと)の女、小熊子(おぐまこ)の郎女を娶りて生みし御子は、
(以上、出典: http://inoues.net/tenno/bitatsu.html) 早い話が、
大鹿の首(おおがのおびと)とは、「相(合)鹿」氏を名乗る度会氏であり、
春日氏 = 和邇氏とつながっているということです。 2ch の過去ログにも次のような書込みがあります。
【相鹿氏】【出口氏】【一志氏】などが挙げられています。
>度会氏『神名帳考証』には「鹽君、津連祖神」として、祖神としている。津連は菅野朝臣となった。
https://academy4.5ch.net/test/read.cgi/history2/1134868305/ のレス番 310 時に安佐賀荒悪神の為行を、
倭姫命は、
中臣大鹿嶋命・
伊勢大若子命・
忌部玉櫛命を遣して天皇に奏聞し、天皇詔す。
(http://nire.main.jp/rouman/sinwa/yamatohime.htm『倭姫命世記』より) いくつかの神社と伊勢の神宮とか結ぶと、
五芒星や六芒星が出来るという話があるじゃない。
日本海側京都の元伊勢内宮皇大神社と伊勢の斎宮を結ぶ線上に、
△△城はピッタリ重なってる。 元伊勢内宮皇大神社(京都府福知山市)
伊吹山(滋賀県米原市、岐阜県揖斐郡揖斐川町、不破郡関ケ原町)
伊弉諾神宮(兵庫県淡路市)
熊野本宮大社(和歌山県田辺市)
そして、伊勢神宮内宮
この 5 つの点を結ぶと五芒星ができるという話ね。
△△城を通っているなぁとは以前から思っていたのだけど、
今調べてみたら、
伊勢神宮内宮を斎宮にした場合、
元伊勢内宮皇大神社と斎宮(三重県明和町)を結ぶ線上に、
△△城はピッタリのっかっていることが分かりました。
ただし、
元伊勢内宮皇大神社と、
伊勢神宮内宮、または外宮とを結ぶ線では若干の誤差(数百メートル程度)があります。 >福知山という地名は、
明智光秀が丹波平定後、
この地に城と城下町を開いた際に命名したものと考えられ、<
(Wiki「福知山市」の項より) >>969
つまりね、
斎宮と△△城を結んだ線と、
伊吹山から西へまっすぐ延ばした線の交点に、
元伊勢内宮皇大神社(京都府福知山市)を創ったのだと思う。 元伊勢内宮皇大神社と
伊勢神宮との間の距離は 200 q 近くあります。
これはポインターのわずかなズレ程度でも誤差が生じる距離だし、
伊勢神宮も斎宮も広域にわたるため、特定の地点を定めるのが難しい。
あまり細かいことにこだわっても意味がないです。
単に、伊勢神宮と斎宮を結んだ線の延長線上に
元伊勢内宮皇大神社があるくらいに考えるほうが正しいのでしょう。
ただし、それでも、
伊勢神宮の外宮または内宮 〜 斎宮 〜 元伊勢内宮皇大神社を結ぶいくつかの線と、
△△城 〜 斎宮 〜 元伊勢内宮皇大神社を結ぶ線とでは、
後者のほうが誤差がはるかに小さいです。 ポインターのわずかなズレでも誤差が生じるということは、
どうかすれば、この 2 つの地点、つまり、
斎宮と元伊勢内宮皇大神社を結ぶ線上に、
△△城がピッタリ重なるということでもあります。
△△城ですら、一辺が 100 メートル近くあるし、
斎宮は広域に拡がっているため、
細かいことに気にしても仕方ないのですが、
△△城とフル川水神の両方が、
斎宮 〜 元伊勢内宮皇大神社を結ぶ線上に、
ビターっと重なる線があります。 つまり、
△△城とフル川水神は、
互いからみて西北と東南の位置関係にあるのですが、
この角度がそのまま、
△△城と斎宮、ひいては斎宮と元伊勢内宮皇大神社との位置関係になっている。 ですので、
斎宮からみて西北に位置する元伊勢内宮皇大神社と、
東南の斎宮を結ぶと、
フル川水神からみて西北に位置する△△城と、
東南のフル川水神がそのまま、
斎宮 〜 元伊勢内宮皇大神社を結ぶ線上にのっかってくるわけです。 Googleマップでは斎宮は
ピンク色で範囲が示されていますが、
この斎宮の東寄り最南端のある地点と、
元伊勢内宮皇大神社に当てたポインターの微妙な 1 点を結ぶと、
その線上に、
△△城とフル川水神がきれいにのっかってきます。
その線を見ると、
これが偶然であるなら、そのほうがすごいなと感じます。 そういう話に、どうすればなりますの。
△△は三重県一志郡にあった集落の名前ですわよ。
地名は今でも残ってますけど、付近の住民に迷惑がかかるといけないと思って、伏せてますのよ。 そうか、信長のじっちゃんも
よく出てきていたのて
名古屋城と思ったんだよ
信長じっちゃんは今は天国で暮らしているが
わしの所によく来ていたね 織田信長とも関係ありますのよ。
すぐ隣の松ヶ島城(日置氏が築城)には、
信長の二男の信雄が入っていたし。
うちは何しろ、明智光秀の親戚と同居してましたのよ。 【訂正】
明智光秀の親戚ということになっている人たちと同居してましたのよ。
これはネットで読んだのですけど、記録によれば、
△△城の城主は豊臣秀吉の道案内をしたことになってますの。
何か変でしょ。 わしの御所は
鎌倉将軍家やら織田信長は
よく来ていたが
豊臣秀吉は見たことないな 山城じゃあるまいし、
旧伊勢街道のど真ん中で、
すぐ隣は松ヶ島城、前の大きな道をまっすぐ行けば阿坂ですのよ。
△△城と言えば道案内だと思ってる人がいましたのね。 豊臣秀吉は見たことないが
豊臣秀吉が朝鮮から連れてきた
部落どが一生懸命わしの御所を潰してたんだよ 豊臣秀吉は見たことないが
豊臣秀吉が朝鮮から連れてきた
部落どもが一生懸命わしの御所を潰してたんだよ わしは九州の福岡の部落地域にいるから
近畿の情勢はさっばりだな
九州には高千穂もあるからな 高天原って伊勢にあったみたいですわよ。
>享保二十年(1735)の『丹後国加佐郡旧語集』には
>当所の天照太神は大和国より遷されたとあり、
>その後、伊勢国高間原へ遷宮されたと記されている。
(出典: http://www.genbu.net/data/tango/naiku_title.htm?print=on)
>>974-975
これは何を意味するかというと、つまり、
△△城とフル川水神を結んだ線の延長線上に、
斎宮と外宮があるということですのよ。 △△城の左下(西南角)からフル川水神まで引っ張った線を、
そのまま延長すると、斎宮へ至り、
さらにその先まで、そのままの角度で一直線に延長すると、
伊勢神宮の外宮へ至る。 △△城の西南角からフル川水神までの線の一部は、
そのまま旧伊勢街道になっている。
つまり、阿射加山 〜 △△城の水平ラインと、
△△城の西南角からフル川水神までのラインとの角度、
これは約 35 度なのだけど、そのままの角度で一直線に延長すると、
その先に斎宮と外宮があるということね。 ちなみに、伊勢神宮の外宮は、ならの御杖神社と緯度が同じなので、
斎宮からそのまま延ばした線(△△城〜斎宮)と、御杖神社から東西に真横に延ばした線の交点を、
外宮の位置に決めたのだと思う。 まとめますと、
△△城 〜 フル川水神を結んだ線の延長線と、
堀坂山(ほっさかさん、松阪市の山)から真横に延ばした線の交わる点。
→ 斎宮
△△城 〜 フル川水神を結んだ線を斎宮まで延ばし、
さらにそれを延長した線と、
御杖神社(なら県御杖村)から真横にまっすぐ延ばした線の交わる点。
→ 外宮
△△城 〜 斎宮 〜 外宮を結んだ線の延長線と、
伊吹山から真横にまっすぐ延ばした線の交わる点。 → 元伊勢内宮皇大神社
ということになります。 △△城の位置を特定しておられる方は、
城の西南角を出てすぐ前のアルハ○ンブラというお店(?)を通り、
フル川水神までの線を引いてみてください。
はちみつ屋さんの辺りから○本ハイツの辺りまで、
この線が旧伊勢街道と完全に重なっていることがわかると思います。
そのまままっすぐに延長すれば、斎宮、さらに外宮へ至ります。 旧伊勢街道を造り、斎宮の位置を決めたのは、
伊勢神宮側ではないことが明らかだと思います。 天岩戸神社東本宮にお参りにいったら
ちゃんと天照大神のお告げを伝える男の神様がいたぞ
わしはちゃんと指導を受けてきたからな
まぁ、高天原は地上じゃないんだよ
お告げを伝える神様がいるんだよ 天照大神は神様の中の神様だから
直接地上には伝えないんだよ
ちゃんと天照大神のお告げを伝える神様がいるんだよ
それが高千穂であり伊勢なんだよ 高天原は地上ではないんだよ
高千穂や伊勢は
天照大神の使いの神様が
天照大神のお告げを伝えていた所なんだよ この地上には、
あるはずのない場所がありますのよ。 このスレッドは1000を超えました。
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