最初から最後まで読んだが、意味不明。
これじゃあ清流どころか、落ち葉が浮いて仕方がない。泥水になる。
徹底してギリギリのところまで、つまり、あ行店と雨宮のところまで言及して欲しい。
おいらは宇宙物理学に興味はあったが(数式ナシ)、金塊を銅の矢で射る様な不敬を趣味とした覚えはない。
にもかかわらず何故なのか全くわからない。怜悧が余りすぎたダケとしても、方便が用途を遥かに越えた結果の
過剰な概念化としても、むしろ科学というのは人間肯定の火遊びでしかない。なのにあえてこうである。
また、指示代名詞が一人歩きしている謎、これも慈雨というのを是非とも説明して欲しい。
単なる時雨というなら分からなくもないが、何やら、洪水が起きて
小僧が大人に巻き込まれて自分を見失いそうだ。おいらは草むらの隙間から都を覗いているに過ぎない。
であるのに、都会人が悪ふざけをして見せ。もし仮に以後だんまりなら、
それが都会かと本気にして草むらに引っ込む。そして死ぬまでそれが真実だと思って生を終える。
慈雨が広大なら、また水量の調整は可能だ。洪水を起こさず、適量をおくれ。
成蹊の樹を謗るのでなければ。でなくば、丁か半かケリをつけねばならなくなる。
大人の歌舞で、小僧は負傷し死ぬのだという事実を証明する事になる。
これを踏まえて今一度問いたい。おいらは誰なのか?