肉食の忌避という虚構
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jasca/2009/0/2009_0_4/_pdf

そのころ日本人の食生活の歴史は、縄文時代は狩猟採集社会で、盛んに肉食をしていたが、弥生時代になるとコメが主食となり、
魚介類が副食(おかず)となって肉食の比重が下がり、さらに奈良時代の仏教の殺生肉食の戒めと、
平安時代に強化された動物に対する穢れ観が決定的な理由となって、
幕末・明治まで肉食を忌避するに至ったと信じられ、私自身もそう考えていた。

ところが、1980 年代中頃から各地の遺跡から出土した動物遺存体の報告を引き受けるうち、
牛馬の埋葬例がほとんど無く、ほとんど全てが散乱状態で出土することがわかってきた。

大阪市城山遺跡の奈良時代の溝から出土したウマの頭蓋骨と、同一個体と思われる四肢骨や椎骨の報告が見方を変えた。
その頭蓋骨からは脳が摘出され、大腿骨には胴部から下肢を切り離す際に付けられた鋭利な切痕があることに解釈が行き詰まっていた。
ところが、757 年施行の『養老律令』の中の政府の牧や厩に関する法令を含む厩牧令に、
「官馬牛死条。凡官馬牛死者。各収皮脳角膽。若得牛黄者。別進。」と、
「凡因公事。乗官馬牛。以理致死。証見分明者。並免徴。其皮宍。所在官司出売。送価納本司。」という条文が解決への糸口となった。

平城京や平安京では多数の牛馬が飼われており、その死耗の数もかなりの数であっただろう。
そうした牛馬が死ぬと埋葬されることなく、解体して「皮脳角膽」を取り、
牛黄(ウシの胆石)があれば特に進上すると規定されているのである。
地方で斃れた際には、「皮宍」を売りに出して代金を国庫へ納めよとも言う。

古代仏教の盛んだった奈良時代後半においてすら、官馬牛の牛馬の肉を売買する流通ルートが、全国各地に存在したことも信じがたかった。
その後も各地の歴史時代の遺跡で、さまざまな階層の人々が犬肉まで含めた肉食に親しんでいたことを証明してきた。

その反面、江戸時代の天明の飢饉の際に菅江真澄が記したように、東北地方の農民の中には、
饑餓が我が身におよんでも馬肉を食すことを畏れたとある。

どちらが日本人の食文化を代表するのか、考古学と文献史学、人類学、民俗学との共同研究が一層、必要となる。