>>958
うん、だからそういう人に出会わないってことは、
自分の内部表現(≒信念体系)が投影された結果としてそういう経験をしてるってことでしょ。

で苫米地流に考えれば、仙道の督脈・任脈だとか、
小周天だとか大周天だとか、ヨガのチャクラとかクンダリーニだとか、
そういったものもすべて、何もかも全部内部表現という設定から生じた結果として、
個々の人間がそれぞれの人生において経験しているわけで、
もともと天地開闢以来そういう仕組みになっているのではないし、
そもそもこの宇宙そのものが客観的に実在している何かですらない、という
量子論的な意味での変幻自在な可塑性を世界に見出していると。
設定された概念に基づいて、その結果としてそれを経験しているに過ぎないのだから、
その設定そのものを変えてやることで経験も変化する、ということなわけだね。

伝統的な気功や仙道は設定のレベルには手を付けずに(というか盲点になっていて)、
その結果としての経験のレベルと同じ次元から
力づくで何とかしようと悪戦苦闘しているわけだし、
どうしても適性とか向き不向きとかそういう個人的な差異が生じてしまう。

要するに、苫米地から派生してきた所謂現代気功というやつは、
気功と名前はついているが我々が想定している気功とはまったくの別物だから
このスレには相応しくないというのはその通りだな。