昔の管理教育(平成5年頃まで)時代と違い、
今ではまるで生徒にご機嫌を取るべく、宿題や小テストも実施しない、甘くてラクな授業ばかりを提供しまくり、あまり板書をしなくなった。
だから、社会科や理科を中心に、単調でグループ学習などを取り入れたりして生徒に飽きがこない授業をするわけだが、そうなると、グループに入れない(入れてもらえない)仲間外れ(いじめ)が授業内で起きるのはなぜ?
そして、見て見ない振りをして仲間外れを放置する教師がいっぱいいる。

例えば、ロクに字も書かないラクで単調な授業は、社会性や集団組織への適応性が育つのだろうか?
漢字を覚え、書く力(作文)・読む力など国語力が育つだろうか?
行儀がよくなったり、落ち着きがある性格になるだろうか?
これが社会科などの授業の正しい在り方なのだろうか?
こんなのが“いい先生”なのだろうか?

野球のピッチャーの登板過多による投げ込みと違うのだ。ノートに字を書き過ぎたからといって肩や肘を壊したり痛めることはない。
(その割に携帯でメールをたくさん打つときは手や指が疲れないのはなぜ?)

生徒に機嫌を取るような授業をしまくった挙げ句、結果的に修学旅行先の海外で生徒が集団犯罪をしたりするということは、生徒の社会性は育ってなく、
また、「社会科教師」などとは名ばかりで、刑事事件を隠蔽していた教師とやらも社会性がない証拠ではないだろうか?

一方で、管理教育時代は、授業が始まると教師が黒板に字を書いて、終始一貫、生徒にノートを取らせていた先生も少なくなかったし、
また、書きっぱなしだから「手が疲れる」「肘が痛い」などと考えたり不満を抱いて教師に反発する生徒もいなかった(そんなこと言ったら先生にひっぱたかれた)。
当たり前な話だが、授業で字を書き過ぎても、肩や肘を壊したり手や指を疲労骨折した生徒は誰もいなかった。勿論、携帯も普及する以前である。

教科に関わらず、先生が黒板に書いた事項をひたすらノートへ写すだけで、生徒は漢字を覚え、書く力や読む力といった国語力が身について、また行儀も学び、落ち着きとか社会性や集団組織への適応性が育っていった。
だから、学校行事内で集団犯罪など起こすこともなかった。

少なくても、そういう授業をしていた頃の先生のほうが、社会性がある“いい先生”ではないかな?