>>96

>私は憂いたが、猫同士のことだから、助けには行くわけにはいかない。

「には」が重なってやや稚拙

>私は自転車を漕ぎ、白猫を探しに行った。自室から半径五百メートルをくまなく探したが、白猫はどこにもいない。
>おそらく、あの猫は、致命傷を負ったか、クルマに轢かれて死んだのだろう。

語り手の心情に沿えば、猫に害が及んだ可能性を前のめりで検討したくはないはず
自転車で周囲を捜索したとあるが、物陰や屋内の猫一匹を道路から目視するのは難しい
つまりこの語り口には猫生存の可能性を排除していこうとする性急さが見られ、
「死を演出したい作者」の感触がある

全体
猫が居なくなったというだけでは話にならないのだが、
死を予期させる脆弱な猫の姿と、語り手の自責、愛惜する姿が描写されることで哀情が生まれる

ひとつ計算の成功だとは思うが、
であるがゆえに、上述した真偽不明の死への積極的な演出や、
悪く言えば、投稿作品として猫の死の可能性を「商品」化した作者の作為性が、素直な読感を相殺する

ある効果を狙って重い感情を題材に取る場合、エッセイといった真実味ある形式で打ち出した作品ほど、
結末への論理は現実的かつ緻密でなければならない
加えて実体験(かと思わせる)の哀情を投稿しているという行為自体が、
事件をショーにできる作者像を浮かび上がらせ、言葉の重みを減じる
その視座を持てば成熟味は増すだろうと思った