もう採点も作者の弁も出て決着してしまったようだけ、一応、書いてみたよw

「おむすび」は、同じ作者による「墓参りとお供え」と同じ構造のストーリーだろ。
で、「おむすび」で作者がやろうとしていたことは、視覚によらない「触覚」による感情の表出だろ。
それは「5センチの細いヒール」が土に「ずごっと」突き刺さるシーンで予告される。
この小説で唯一重要だったのは、固さvs柔さ、おにぎりvsおむすび、という対比だろ。
【回想・津波以前】
>三角形の頭頂にかぶりつく。白米部分が舌に触ると、米一つ一つがほどけて口内に散らばっていくように感じた。
>しかし、おにぎりの成形がゆるすぎるということもなく、手の中で崩壊する心配もなさそうだ。急いで噛んで飲み込む。
【現在・再訪】
>あのときのおむすびとはとても似つかない、不恰好で米の粒がつぶれたおにぎりだ。
>包みのあいたところに口をつける。固い。思い切って上の前歯を差し込む。米の粒は固まったまま、ばらばらになる気配もない。
ただ、握り飯vs産巣日という語源的なイメージだけで、「おむすび」は「結衣」が津波以前の世界を「回復」させる呪具となりうるだろうか? 
この「おにぎり」のような機能をもった物資を、小説的「装置」と呼んでもいいと思う。
しかし果たして、「おにぎりvsおむすび」は十分に「装置」たり得ただろうか?
「墓参りとお供え」における「牡丹餅?」がうまくいって、「おむすび」が不発に終わった理由は、まさに「お握り」が十分に固くないからではないか。
冗談でもなんでもなく、冷めて固くなったオニギリを炙って「焼きオニギリ」にする必要があったのではないかったか?
いやそれでは「食感」が違う、といえばその通りだけど(笑)。
それにタイトルを「おむすび」などとするのは、作者の意図がバレバレで下策。