総合学習法スレッド3

1 ◆f/dqsfBF2o
垢版 |
NGNG
誰かさんが勝手に立てる前に私が立てますw

生涯学習板の皆さん、スレ立てさせていただきます。

このスレは、
「既存の個々の学習法・能力開発法について語る」というよりも、
 * 学習法・能力開発法「そのもののあり方」について考える *
そういうスレです。

 具体的には
  1、現在の学習や能力開発のあり方について検討をくわえる
  2、新しい学習法・能力開発法を提案しあって議論しあう。
  3、新しい学習法・能力開発法をつくるのに役立つ情報を交換し合う。
     例:「新しい脳科学の研究報告が出てるよ」「こんな学習法やってみたよ」
  4、関係のありそうな本読んだり体験をしたりしたら報告する。
  5、身近にいるすごい人、本で読んだ超人について話題提供する。
  6、話の流れに関係あればなんでもOK
  7、私に対する質問も気軽にどうぞ。
 など。   

大学受験版からの移転です。

 総合学習法スレッド2
  http://school2.2ch.net/test/read.cgi/kouri/1062929447/l50
 総合学習法スレッド(内容はまるで違うけど一応リンクしておく)
  http://ruku.qp.tc/dat2ch/0310/15/1056766107.html
NGNG
>>251の問題に戻ります。
学習法は便宜的に次のように大きく2つに分けられます。
1、部分から積み上げるように、順序立てて進めていく
2、まず全体を把握し、そこから細部をつめていく

1は、効率とても悪いように思ってたんですね。
なぜなら、ものの意味は全体との関わりを通して理解されるものですから、
部分にこだわっていては理解が遅くなるし、浅くなると思うからです。

しかし、1のメリットもあるんです。
それは「1つ1つ着実に理解していく」ので、
1、モレがないし、2、基礎からきっちり積み上がる
ということです。

だから1と2どっちがいいのかなあと思ったわけですよ。
もしかしたらこういう答えでよかったんですか?

(なんか哲学的なことを要求されてるように解釈できたので>>248-250のように答えましたが)
NGNG
この機会ですから科学と勘の関係についてもう少し意見表明しておきます。

科学は「もっともらしいこと」を解明します。
1、でもそれが個々の事例で本当に正しいかどうか、
2、また科学が直接対象としない分野へと科学を適用していいものかどうか
といったことは不問に付してるわけです。

私は健康や医学について興味を持って勉強し、
それを使って自らの学習法を発展させてきました。
つまり、科学によって学習法がつくられた、と一見思われるでしょう、みなさんは。
NGNG
しかし、理論というのは本当に信頼できるものでしょうか。
論理は、局所的には「まあかなり正しい」結合によって真実へと至ったかのようになる道筋です。
結果として真理に至ったかどうかは不問に付します。
その意味で、健康や医学の場合も、理論は最後には無力です。
最後に力を出すのは勘です。
正確に言うなら、勘で理論を選ぶんですね。
誰もがもっともらしいことを言います。
どの本も「もっともらしげな顔」をみせてます。
どれを信じて良いか判断するのは結局勘だと思います。
NGNG
結局、経験重視です、言ってることは。
経験から個人レベルで規則を見出したのが勘。
経験を「測定」できるようにしてそれらのデータを
不特定多数の人の間で統合したのが科学データ。
科学データから規則を抽出したのが科学理論。

上で批判の対象にしたのは科学理論であって科学データではありません。
科学データは科学理論よりは信用できるのではないでしょうか。
たとえば臨床データ、疫学調査がそうです。
いくら現代栄養学がわめいたって、
れっきとした事実として臨床データがあれば、栄養士は黙るでしょう。
もちろんデータの取り方に偏りがあってはいけませんが。
NGNG
ごちゃごちゃ書いたので最後にシンプルに言いますけど、、

経験→科学データ→理論→理論からの帰結

このステップのどこにおいてもエラーが紛れ込む余地があるんです

初めの矢印は「測定」です。エラー起きますよね〜。
 (測定誤差だといって平均化しますけど、これってなぜ正当?)

2つめの矢印は「帰納」です。これが最高に胡散臭いです。
 (科学データの意識的あるいは無意識的な改ざん)

3つめの矢印が「演繹」です。前提おかしけりゃ演繹した結果もおかしいでしょう。
NGNG
勘はこれらのエラーを回避できます。

勘は外部の機器で定量的に測定できないことも根拠にできます。

科学は科学が扱う対象しか扱いません。
すなわち測定できることしか扱いません。
測定できることだけを根拠にすること自体、
「データを偏りなく集め統合する」
という科学的な考えに反しますよね〜。自己矛盾ですよ、科学は。
(といった意地悪なことを考えて科学者に嫌われるのが科学哲学者なんですけど)

ともかく勘の重要性をもっと強調しておかないと、
「変に論理的な人」があふれかえって困ります。

あ、結局ごちゃごちゃ書いてしまった。
NGNG
>>1は何でこんなに学習法を極めようとしてるんだ?
学習法マニアか?学習法中毒か?
俺は学習法を模索した時間>受験勉強の時間になってるんだが。。。。
NGNG
最後に批判防止のため言っておきますけど。
> >>248のなぜこういうことを考えるかというのは、
> 日常で直感的に獲得される経験則では統一性がないからです。
というのは勘重視の考えと矛盾してるように思われるでしょう。
(読者が、矛盾してるか否かの二者択一型で考えるような
「変に論理的な人」でないことを祈るばかりですが)

統一性とはいろんな領域のいろんな可能な考えを統合するさまを言ってます。
ですから個人レベルでは限界があるので、
いろんな人や本に触れることが重要と考えます。
そして、それらを通して得た、
(科学が扱いきれないような繊細なものを含めた)「データ」を
* 勘で選択・統合 * することの重要性を主張したまでです。 ●●
NGNG
>>257 するべきことがあるからです。
するべきことがあり、それが大きな目的であるほど、
通常の学習法では困難が生じることに気づきます。

たとえばあるアメリカ企業の経営者は、
週に数十万字もの活字に目を通さなければなりません。
速読が必要ですね。

目的しだいでは、常人の生活パターンではいられなくなるんですよ。
NGNG
いや、全然哲学的なことは要求してないんですが…。

何故それほどまでに勘を重要視するのでしょうか。
エラーが回避できるったって、
勘が生むエラーの方が大きいんじゃないんですか。
自分が人や本に触れることによって得られる情報なんて、
バイアスがかかりまくってるのに、データとして使うんですか。
科学的に扱えないものを統合して、
完成した統一的な考え方(これって"理論"じゃ?)を人に説明する時は、
どうすりゃ説得力を持たせることが出来るんですか。
ただ単に結果がそれを示すのですか。

なんか上に書かれている事は、良く分かりません。
NGNG
>>244
あんたこの本読んでないだろ?
それか,10分で読んだから内容を理解していない。

あと,本当に議論したいならもうちょっと要点をまとめてくれ。
すくなくとも250-256は245を議論する上では必要のない文章。
かえって議論が分散するだけ。(258,260がすでに脱線している)
それともひたすら自問自答したいだけなのか?
NGNG
>>260
>何故それほどまでに勘を重要視するのでしょうか
論理だけでたどりつける結論がごく限られているからです。

>勘が生むエラーの方が大きいんじゃないんですか。
それは事実誤認とかいうやつですね。
確かに間違った判断かもしれないです、そういうのは。
でも「その人の中では」正しいんです。

>バイアスがかかりまくってるのに、データとして使うんですか。
たしかにわれわれが入手する情報には
バイアスのひどくかかっているものからそうでもないものまであります。
だからバイアスのあまりかかってないものを選ぶことは意義があります。
ただ、バイアスのかかってないものだけしか選ばない潔癖主義は回避します。
NGNG
>科学的に扱えないものを統合して、
>完成した統一的な考え方(これって"理論"じゃ?)を人に説明する時は、
>どうすりゃ説得力を持たせることが出来るんですか。
広く共有されている価値と分かりやすい言葉と印象のいい人柄と、、、
といったふうに本質とは関係のない基準に従うことになります。
こだわろうとするとですけど。
こだわらないなら、結果を示したらいいでしょう。
論理に基づいて話すこともある程度大事でしょう。
このあたりは微妙な話だと思いますし、
「説得力があるか」と「理論が正しいかどうか」は同じではありません。
最高の説得性のためには、単に結果だけ理解してもらうのではなくて、
その結果に至ったプロセスを体験してもらうことが必要だと思います。
NGNG
>>261
私はおしゃべりな上に、思考が散漫なので、仕方ないです。

議論は好きなのでぜひ参加してもらいたいです。
書き込みを見ると、なにやらやる気がおありのようで。
そこまでおっしゃるなら最初から私も気をつけて書いたんですがね。

あと、「必要があるない」という二者択一型思考は受け入れがたいです。

>それか,10分で読んだから内容を理解していない。
そう思われるのも自由ですけど、根拠が書かれていない以上コメントできませんね。
NGNG
「変に論理的な人」って自分の事?
NGNG
>完成した統一的な考え方(これって"理論"じゃ?)

統一的であっても系統でなければ理論といいません。

系統的でない思考というのは、矛盾を含む思考です。
矛盾を含む思考からは矛盾を含んだ結論が得られますから、困ったことになります。
たとえば、模式的に言うと、
「〜という目的のためにはAしなければならない」と
「〜という目的のためには非Aしなければならない」
が同時に出てしまいます。
ですから系統的な思考であるほうがいいんです、ある程度は。

系統的過ぎるのも考えものです。
「こだわり」はいつも「偏り」であり得ますからね。
NGNG
いや、煽ってるわけじゃなくてさぁ。
文章頑張って読んだら、
「局所的には「まあかなり正しい」結合によって真実へと至ったかのようになる道筋」
ってのがピッタリな気がしてね。
そうなりがちな自分を反省する意味も込めて書いたんじゃないかと思ったんだが。

> 「こだわり」はいつも「偏り」であり得ますからね。
なんて書き方は、正にもっともらしく見せる無意識のテクニックじゃないか?
NGNG
>>265
変に論理的な人というのは、
前提が正しいかどうかの吟味なしに論理を展開する人です。
とくに「常識的な価値」にもとづいていると、
「それが本当に正しいか」はないがしろにされます。
そうしてでてきた結論をさももっともらしく書く人が「変に論理的な人」です

私の場合、自分の考えが完成されているとは思ってないし、価値観が正しいとは思ってません。
NGNG
>>267 
なら詳しく書きます。
系統的過ぎると、自分の体系にこりかたまってきます。
そうすると、体系の「外」にあるものを排除しようとします。
こういう人いますよね。
これが「こだわる」ことによる「偏り」です。

もちろん系統的な方法がだめだと一概に言ってるわけではなく、
どんな系統的な方法も度が過ぎるとこういう負の側面が目立ってくるということです。

ですから、ある程度は系統的かどうかにこだわらないほうがいいでしょう。
つまりエラーなく組み立てられた構造物を目指すのはどうかと思います。
その「エラーしてるかどうか」の基準自体、先行判断・先入観によって左右しますから。
このあたり柔軟さが大事だと思いますね。
NGNG
関係ない議論を持ち込むとのクレームがあったので、まとめておくと、
[定義]
統一的な理論:すべてを扱う理論
系統的な理論:自己矛盾のない理論であること

[主張]
系統的な理論であろうとすると偏ってしまう、つまり統一性をうしなう。
しかし、論理だけで解決しようとすると系統的になってしまいがちだ。
科学も論理的な手法だ。
したがって、科学に代表されるような論理的な思考は統一性をやや欠く。

[感想]
論理だけでは解決できないってことは勘も採り入れていくべきなんじゃないかな〜
NGNG
研究者に対する主張なんですか?
それとも一般に向けて?
NGNG
>>271
一般です。
研究もそうです。研究に勘を採り入れるのも大事です。
研究者は論文つぎつぎ書かないといけなくて感性すりへります
あるいは自分の考えにこだわって、論理だけで進めていく人もいます。

論理だけで進めていくと、
* 基礎となる価値観を交換していろいろ試す *
そういうチャンスを失います。
論理だけでなくて勘が大事です。
詳しく言うと、暗示的な解釈能力や洞察力が大事です。
NGNG
あなたが勘を採り入れて解決したのは
具体的に書くとどんな事ですか?
NGNG
>>273
勘というのをこれがそれであると容易く言葉にできるものでしょうか。

それはいいとして、例を挙げるなら
たとえば、数字の並び替えですね。
1〜10までの数字がそれぞれ書かれた10枚のカードを番号どおりに並べます。
これはコンピュータならアルゴリズミックな方略にしたがって進めるところでしょうが、
人間は勘でやってしまいますよね。

>あなたが勘を採り入れて解決したのは具体的に書くとどんな事ですか?
という質問自体、勘が私の脳内にだけ存在する神秘的なものと受け取られているように思いますが、
勘は遍在すると思います。
NGNG
学習に関係付けるなら、
どの程度のスピードで読んだらいいかというのは、
速読法や学習法を知らなくても、勘で分かります。
速読法の有害性は、そこから広く学習法について推論をしてしまうことです。
その推論のなかに勘が混じるにせよ、有害なことがあるのは事実でしょう。
たとえば、眼球を動かすことによる脳力のアップにこだわっている人が
極端に眼球トレーニングしてしまったりです。
勘で考えるとちょっとおかしいなと思いそうなんですけどね。
NGNG
違います。抽象的な話が続き、いまいちピンとこないので
理解のために具体例を出して欲しかっただけです。
たまに質問をするといつもそういったように取られてしまうので不快です。
NGNG
誤解の無いようにはっきりさせておきますけど、
「勘が必要」と言ってるだけで「勘が正しい」とは言ってないです。
どういう勘の使い方が問題解決に有効かというのはもうそれこそ勘で考えるしかないです。
だから勘を主張する論者は立場的に弱いです。
しかし、「なんらかの勘が必要」だということはいえます。
なぜなら、論理だけではどうしようもないからです。
NGNG
>>276
不快に思われたのなら悪かったと思います。
ただ、私が行う解釈は自分で正しいと思って行っているわけではないので、
いちいち不快に思われるのは精神的に負担が大きく損なことだと思います。
不誠実な態度かもしれませんけど、起こりがちで些細な問題じゃないですか。
NGNG
具体的な話ということなら、
数字を並べる例以外にも、スポーツがそうですね。
スポーツというのは勘が大事でしょう。
頭だけで考えても体は動きませんからね。
いちいち論理を持ち出して意識的にあれはこうでと考えているようではスポーツできません。
この意味で勘は大切です。
そしてこの意味での勘というのは日常的に誰もが使ってますよね。
だから遍在的といったんです。
そんな意味で勘という言葉を使ってることは276さんは思いもしなかったんでしょう。
ですから276での言い分も納得できます。
勘の具体例についてはこれでよろしいでしょうか
NGNG
やっぱり勘っていうのが全然分かりませんが。
ただ単にヒューリスティック?
NGNG
>>280
勘をヒューリスティックと言っても同じでしょう。
そう言ったほうが分かりやすければそう言ってもいいですけど。
勘って日本語で言ってしまうと胡散臭いので、
>やっぱり勘っていうのが全然分かりませんが。
という意見も分からなくは無いですが。

ヒューリスティックの定義自体かなり難しいと思いませんか?
経験に基づく思考と仮に定義します。
そうすると経験の蓄積の仕方や経験の使い方がアルゴリズミックでも構わないことになります。
ということは既存のコンピュータソフトはheuristicなふるまいをしていることになります。

あと、ヒューリスティックという以外にノンアルゴリズミックなことも関係してるかもしれません。
私は論理学をきっちり学んでないので議論ができる自信は無いですが。
NGNG
おそらく勘がわかりにくいのは勘で勘を理解するしかないからだと思います。
でもそんな感覚的な定義では議論にならないので具体例で言ったほうが良いのかもしれません。
しかしどういう具体例を言えば分かってもらえるかが分かりません。

数字を並べ替える例やスポーツの例は分かりやすいと思うんですがねえ。
もちろん、
人間は高度な機能を持ったコンピュータである。だからなんでも柔軟に迅速に適応できるのだ。
という議論も可能性です。
しかし、上の考えは直感に反しているでしょう。
人間は機械ではない。

勘という言葉が必要なのは論理と対比するためです。
論理だけではどうにもならないんだよという文脈で「勘」という言葉が登場します。
私はそのように理解してますがね。
283276
垢版 |
NGNG
>>278
いやいや、俺の損得は問題にしてないですよ。
なんとなく煽りにびんかんになってる気がして。
「勘」の事はよくわかりました。
NGNG
勘は感性とも関係するでしょう。
勘は感性を働かせた思考のことかもしれません。

感性は経験に基づきます。またイメージにも基づきます。
1、イメージに基づく感性
論理って局所的な正しさだけ問題にするでしょう。
これに対しイメージは全体的な正しさを問題にします。
ここで、正しさとは、
自分が持つ目的のための妥当性のことです
たとえば、
図形問題で円に内接する三角形で面積が最大のものは?
というのは明らかに正三角形が答えです。でも数学の答案にtrivialなんてかけません。
数学は局所的な正しさの積み重ねだからです。
NGNG
やっぱり勘っていうのが良く分からないです。
スポーツの例でも、数字並べの例でも。

スポーツやるときってのは、
経験に基づいて、今の状況に一番適したと判断された知識を使って、
状況に対処するっていう思考をやってるんじゃないですか?

論理の相反にあるのが勘ってことでもないんでしょう?
お互いが排斥し合うわけでもなさそうな文脈ですし。
勘っていうのは何によって構成されているんですか。
1さんの言ってる事がつかめません。
NGNG
2、経験に基づく感性
動物にも勘はあります。ネコが人間を視認したとします。
でもそれだけでは論理的に外敵だと言えなかったとします。
それでもネコは外敵だと判断して逃げます。
逃げるか逃げないかの判断はどうやってるのでしょう。
経験に基づく勘だと思います。
経験というか遺伝子にビルトインされてることと思われるかもしれません。
しかしネコもいやな人間だと思えばそれ以降近寄らないということをします。
その判断は論理的なものではありません。
条件反射に近いのかもしれません。とにかくそれは経験に基づいた感性です。
NGNG
食事減らして短眠しはじめたんですが、
いつもよりイライラして、気が散ってしまいます
続けていれば短眠に慣れて落ち着くんでしょうか?
それともいったん元にもどした方が良いですか?
◆f/dqsfBF2oさんはそういうことはなかったですか?
質問ばっかりですいません
NGNG
>>285 相手の言ってることをつかめないときほど議論の意義はあると思います。

>スポーツやるときってのは、
>経験に基づいて、今の状況に一番適したと判断された知識を使って、
>状況に対処するっていう思考をやってるんじゃないですか?
ではこの例で考えましょう。どの知識を使うのが最適かどうかの判断はどうやってるんでしょう。
たとえば、ボールを投げるとき、どう投げればどう飛ぶか。
試合ではこういうのを瞬時に判断しますよね。
それは思考なんでしょうか。
広い意味では思考です。そしてこういうのは勘と言うと思います。
どう投げたときどう飛んだという膨大なデータどうしが統合されて、
「ボール投げの知識」になってるわけでしょう。いわばボール投げマニュアルです。
いちいち論理で考えてません。マニュアルを参照してるだけです。
だからそういうのは勘だと言うんじゃないですかね?
NGNG
で、こういう反論も考えられます。
「マニュアルといったってそれは1つではなくていくつもあるに違いない。
いくつもマニュアル作っておいて柔軟に対応できるようにしてるんだ。
どのマニュアルを使うかを判断するのはやはり論理だ。」
この反論はスポーツには当てはまりません。種目によるでしょうが。
たとえば「ああ投げたらああでこう投げたらこう」というのを考えますと、
ああ投げるのとこう投げるのとどっちがいいかが問題になるわけですよね。
でもそれもベテランなら瞬時に判断するでしょう。
こういうときはこう投げたほうが良くてああいうときはああ投げたほうがいい、などと。
そういうのがマニュアル化されてる。
つまり勘で判断できる、のではないでしょうか。
NGNG
>>287
食事減らさない短眠をはじめてみては?
ナチュさんも2000kcal摂ってた時期があるみたいだし。
でも少食は心地よさもあります。
少食といっても胃腸に負担のある少食になってるのでは?
食物中の水分が多くというのはかなり大事です。
きな粉は有力な短眠アイテムですが、水分比率を誤ると長眠アイテムになっちゃいます。
イライラは私は感じないのでアドバイスしかねますね。
詳しく書いてくださると何か言えるかもしれません。

少食は続けても慣れないと思います。
慣れたって事は体質改善ですよね。難しいんではないでしょうか。
NGNG
レスどうもです
水分少なかったかもなので
とりあえずそれ試してみます
NGNG
>>288
例えば東大の工学部でかなり精密なバッティングマシーンがありますけど、
あれは勘でバッティングをしてるって言えるんですか。

僕にとっては、勘なんてものは存在しないと思います。
辞書的な意味での勘は。
NGNG
>>291
体冷やすのも良くないらしいし、
お湯できな粉を溶かすのがいいです。

今日はたくさん書いてしまった。乱筆失礼。
要点まとめろという意見ですが、こういうの苦手ですね。
コミュニケーションのために要点まとめるのは私の信条に反します。
1人1人にパーソナライズされた違ったやり方で伝達するのが私のやり方です。
話し合いを通じて解決です。だからサイトに学習法載せたりして
一方的に公開するのは避けたかったんです。
まあ分量多いと読むの大変なのはあるでしょうけど。

では作業に集中しますので。●●
NGNG
>>292 おっ、そういう厳密なレベルでの話でしたか。
厳密にする意味はあるんでしょうかね。
論理だけではどうにもならないということを主張したくなったことはありませんか?
そういうとき勘って言う言葉を使うと便利ですよ。

厳密に考えるなら、勘は存在しないのかもしれません。
しかし直感的には存在するでしょう。
この直感を科学はどう扱うか。
たとえば「柔軟に判断する人工知能」というのは、
工学部でもあるでしょう、研究テーマとして。
勘という事がなにか分からないにしても、
やはり存在すると仮定したほうが便利なんですよ。
NGNG
バッティングマシーンの例で言うとですね。
バッティングマシーンのメカニズムは論理的なものです。
しかも設計書でも読みさえすればメカニズムは解明できます。

人間の勘は論理的かどうかは分かりません。
メカニズムも良く分かりません。

というような違いがあるでしょう。
そこを区別して勘といってるだけです。

勘が存在するかという問いはナンセンスではないですか?
社会が存在するか、文化は存在するか、思想は存在するかという問いと似てます。
思想だって存在しないといえますよね。
「あるのは自然界の粒子の動きだけだ」
という議論はつねに可能です
NGNG
どう考えても学習法には勘が必要だと思うんですよね。
勘が存在しないって主張する人は勘を使わない人じゃないですか?
勘の便利さ、有効性を知らないから、勘などないと言える。

心って存在するかという問いも同じですね。
いくら凝り固まった理系でも、うつ病とか盲視とか体験すると、
心の存在を信じるようになります。
神の存在も同じですね。

とにかく順序だてて考えていくものではないです、学習法は。
勘です。
やってみてどれがいいかとか論理で判断することはできます。
どっちの学習法が記憶テストよかったかとか。
でもそういうのいちいちやってられますか?
勘ならすべてカバーできます、省力的に。
論理だけで考えて解決するなら苦労しませんって。
NGNG
というか論理って何かというのを考えていくときわめて空疎なんですよ実体が。
演繹という作業も帰納という作業も情報処理としては、多くは情報圧縮ですよね。
たとえば AかつA→B ⇒ B この演繹は情報圧縮でしょう。
手に入れた情報をわざわざ圧縮して「こぼしてしまう」のはもったいないです。
たとえばヒトが視覚を通して入手する情報量は膨大です。
そのうち論理で扱えるものはごくひとにぎりです。
しかし勘ならすべて扱えます。
論理というのは型に当てはめる行為ですけど、
そんな当てはめられるものばかりじゃありませんって。
勘が大事なのはこういう事情があるんですね
NGNG
別に勘が存在するかどうかの議論をしたいわけじゃなくて、
1さんが言ってる勘というものが理解できないから、
何度もお聞きしているんですが…。
辞書的な意味の勘の存在の成否には興味ありません。

それで、まぁ、全然分からないんです。
非"論理"の集合の要素が"勘"なんですか。
勘は科学の不可侵領域なのですか。
277で勘の上位概念としての勘を作ってますけど、そんなの駄目じゃないんですか。

勘でやれ、っていうの、それはただの科学的に解釈する事の諦めのように思えます。
NGNG
変に論理的な人って
AかつA→B ⇒ B 
のBしか意識できないんですよ。
あるいは、
AかつBかつCかつDかつD→E ⇒E
ってわけで、Eしか意識しない。
AやBやCやDも見たはずなのにそういうのは感覚的だとハナから信用してない。
論理的に導かれているという理由でEは信用する。
(情報圧縮という作業にエラーが起こりうることを考えれば、
 直接体験したのではないEのほうが信用性落ちるのではないでしょうか)
NGNG
>1さんが言ってる勘というものが理解できないから、
ほらやっぱり個人的な用語だと思われてるんでしょう。
私の脳内の神秘的な用語ではないと言ったじゃないですか。
ふつうの辞書的な意味です。
興味ないなんて言われると見も蓋もないです。

勘っていうのは論理で考えないということですよ。
そういえば暗黙的な知識を使うとも言えますね。
暗黙的な知識の存在も否定なさいますか?

NGNG
べつに暗黙知でなくても勘でありうるんですが、
暗黙知を基にするという意味合いは強いですよね。勘って。

たとえば私が近くにあるペンをつかむという動作を考えますと、
この課題は、言語的に思考してなされることはめったにないですよね。
つまり暗黙的で非言語的なんですよ脳内処理が。
NGNG
もしかすると「勘とは非言語的な思考のことを言った曖昧な語だ。」
というような定義でよかったんでしょうかね。
うーん、哲学的には貧弱な定義だと思うんですけどね。
でも、こう言ったら分かりやすいでしょう?
NGNG
>興味ないなんて言われると見も蓋もないです。
存在するか存在しないかの議論に興味がないという意味で書きました。
だから、「存在する仮定してお話を聞きます」という意思表示でした。

暗黙知の存在は認めます。
それで、暗黙知の使用=勘なんでしょうか。
NGNG
>それで、暗黙知の使用=勘なんでしょうか。
そうですね。そう言ってしまうと無味乾燥ですけど。
そのとおりです。

ただ、暗黙知の使用といってもいろいろあるでしょう。
たとえば歩くときの筋肉の使い方は、暗黙知使いますよね。
じゃあ歩くのは勘なのかということになりますね。
個人的にはこれは勘と言えると思いますが、どっちとも言えることでしょうね。
NGNG
あと、暗黙でない知を使う勘もあるように見えます。
でもそういうときでも必ず暗黙知がまじってるものです。
少しでも暗黙知が混じってた場合、そういう暗黙的な側面のことを勘と言うんだと思います。
だからたとえば将棋やってて今の手は勘かそうでないかなんて言われても困るわけです。
二者択一じゃないんです。ファジィです。
勘の分量が多い場合から少ない場合までグラデーションあるでしょう。
NGNG
じゃあ、
勘=論理で考えないということ=暗黙知の使用=非言語的な思考
になりますよね。1さんの論法でいくと。

これでいいですか?
NGNG
勘ってそんなわかりにくい言葉でしょうかね。
普通に通じると思ってました。
まあ私の日本語上手じゃないのが災いしたんでしょうね。

[結論](再掲)学習は勘です。

(補足)勘はSECIモデルの要領で他者にも共有されうると思います
NGNG
>>306 そうです。なにかおかしな点があるなら教えて下さい
NGNG
私見では、勉強が根性だって主張するのには限度があります。
誰でも1日24時間しかありませんから、せいぜい16時間勉強が限度でしょう。
根性出してもそれ以上は無理です。
10時間越えてくると効率が問題になります。
休憩の取り方などなど戦略性が必要です。
根性はある程度役立つでしょうが、それだけでは不十分です。

戦略性を発揮するのに学習法を考えないといけないです。
なぜなら、借り物の学習法は役に立たないからです。
(否定する人は鮮やかな反例を教えて下さい)
310名無し生涯学習
垢版 |
NGNG
吉野敬介はどうよ?
NGNG
>>310
知らんなー。けっこう有名みたいだね。
NGNG
掲示板にあちこち書き込みつつ勉強するのは
締め切り意識で勉強効率あがったりもするけど、
効率さがってきたりもする。
そういうわけで今日はもう書きません。
NGNG
>310
突然、話の腰を折るような感じのカキコだな
>312まで
なるほど、奥が深いな
NGNG
「勘」という言葉は語感が悪いかも。
私はそういう場合「感覚」とか「センス」とか呼んでますね。
(実は同じ?)
「論理と感覚」論争は不毛になりがちです。
私は普段「自分の行動や決定を常に
人に論理的に説明できなくてはならない」
と思っているのですが、
時々、言葉で説明しようがない時もあります。
「本当に優れた技術は決して人に言葉では説明できない。
説明できる技術は大した技術ではない」
そう思わざる得ない時もあるのです。
315中葉
垢版 |
NGNG
>>314 そう思わざる得ない時もあるのです。

そうですね。もうウン十年前に技術提携していたアメリカのチョー大企業の
技術者にしつこく質問した時、最後にそれはルール・オブ・サム(親指の法則?)
だと言われて、なるほどそういう日本的な考えもあるんだ、と痛く感じ入った
ことがあります。

ウィトゲンシュタインにもうそういう言葉がありますね。
こちらは、ある国際会議で質問に答えられなかったとき使って、
満場の爆笑を誘いました。
NGNG
会社は何も教えてくれない。
学生というのはほんとに学べる環境と時間があっていいですね。
NGNG
2ちゃんで書くのはいたずらを誘発させるようであれだけど。
http://www.google.co.jp/search?q=%E3%81%84%E3%80%80site%3Auser.ecc.u-tokyo.ac.jp&ie=UTF-8&oe=UTF-8&hl=ja&lr=
グーグルのサイト検索の応用例。
東大生のサイトが見れる。
ひまなときはメール送ったりして。で友達になったりして。
NGNG
>>317
何これ?こんなんあるんだ
NGNG
>>316
身に刺さるような言葉です
NGNG
速読法には便宜的に2つあると思います。
(「便宜的に」というのは私が安易な二分法で考えているのではないですよ
という明示のようなもの)

1、ボトムアップ式
2、トップダウン式

ボトムアップ式とは、単語レベルでの速読から始め、
だんだん文章レベルの速読へと至るような練習法です

トップダウン式とは、文章レベルでの速読から始め、
数ヶ月と練習するうちにだんだん細部がイメージできるようになっていくような練習法です
NGNG
ここで主張したいのは、ボトムアップ式の練習法の有効性です。

文章の単位は単語です。
文が単位なのではありません、けっして。(文法的な単位ではありますが)
文というのは、意味がたいへん曖昧だし、そういうのを単位というのはおかしい。
単語が単位です。

私の提唱する読書法はこうです。
単語レベルで本を理解します、基本的には。
不足分は意味を補って理解します。
それでも分からないときだけ文単位で理解します。
NGNG
(文の理解なしに各語がどの語法で使われているか分からないという批判はナンセンスです。
文の理解はできるだけ避けたほうがいいのです。
文が単位であるかのような錯覚こそが速読にとって大いなる弊害なのですから。
より正確に言うなら、素人がトップダウン式に手を出してしまうと苦労するということです
参考:藤本憲幸「驚異の速読記憶術」)
NGNG
速読に関しては以下のスレッドでプロジェクトが始まる模様です。
試してみるのも面白いかもしれません。

★速読で能力開発してみよっと ♪1♪★
http://school2.2ch.net/test/read.cgi/job/1072340117/l50
NGNG
>>323
ふむ。ちょっと本気で速読やってみようかな。
となんとなく思いました。

それはそうと、トップダウン式は理解を伴わないというのが持論です。
フォトリーは理解も記憶を伴うという話だけど、やはり胡散臭い。
我流に速読探求するほうが面白い気がします。

もちろんスタンダードな速読法からも得るものありましたけどね。
NGNG
本から何を得るかが大事ですから理解が伴わないというのはまずいと思います

これに対し速読家は理解してると反論しますよね。

しかし、理解にもいろいろあるわけです。
浅いものから深いものまで、
あるいは自分勝手な読みから著者の文章に沿った読みまで。
(これを理解の質の違いと呼びましょう)
だから理解したというだけで及第点ではないと思うのです。

そこらへん慎重さが必要だと思います。
理解の質の違いというのはあまり解明されていないことですから。
NGNG
本の読みの深さというのは、私見では既有知識へのリンクのことです。
速読というのはあるレベルでの脳内処理を円滑にする行為だと思いますが、
このレベルでの高速処理に満足してしまうことが速読の弊害と思います
リンクが起こる前に次の処理に移ってしまいますから、まずいのです。

そのリンクを起こす処理自体は、べつに速読には関係していません。
というのも、自分の知識とのつながりを意識的に操作することなしに、
文章は理解できるものだからです。

ではどういう速読ならいいかと言いますと、
よく言われることですが「速読しても理解は速くならない」の克服です。
NGNG
引き続き私見ですが、、
速読の典型的な弊害を一言で言えば、
 速度を優先することで多角的なリンクの機会を損失してしまう
ということです。
面の読書といいますよね。これは言い換えれば点の読書です。
視野全体を一挙に点としてとらえるわけですから。
ということは、全体を構成する部分たる「単語」どうしの関係も分析の対象たりえないのです。
NGNG
>>1の部屋ってどんな感じ?
NGNG
>>328
整理されていた一時期からうってかわって
今は本で足の踏み場が。。
本をとじずに開いたままにしたのが常時5,6冊ありますね。

あとは、もう学習に関係ないものはいっさいないって感じですね。
NGNG
そこで単語をベースにした速読はできないかと思い立ったのです。

単語は文章の単位です。
なぜなら、繰り返されるからです。
文章は繰り返されません。

文章は単語からなる構造体です。
単語どうしの関係がその構造を規定します。
ですから、文書の理解には単語同士の関係の把握が大切です。
NGNG
訂正(>>330) ○ 文は繰り返されません

理想的な読書は知識の新たなリンクを作り出すことにあります。
たしかに文章は構造体としての内的論理だけで規定されますが、
それの把握が有益な読書の十分条件というわけではありません。
文章の論理構造をつかむだけでなくて、
そうした構造を自分の知識体系に結合linkさせないといけないからです。

リンクとは知識のつながりの創出です。
リンクには便宜的に2つのパターンがあると考えます。
1、単語同士のリンク
2、大域的なリンク
NGNG
これらの説明の前に準備として、内的論理について詳述しておく必要があります。
文章は単語からなるなんらかの構造体ですが、
そのことは、文章がなんらかの新たな意味を単語に付与することを意味します。
つまり単語は単なる部品ではなく、流動的に存在価値を発揮する有機体だということです。
読んでるうちに言葉の意味がはっきりしてきたりしますよね。
このように単語は流動的に解釈されます。
そういうふうに流動的に解釈を与えていくものが文章の内的論理なんだと思います
NGNG
この解釈は自分の既有知識にしたがって導かれます。
その証拠に、文章を読んでもその分野についての知識がないと
解釈が貧困にしか行われません。
ここでいう貧困な解釈とは大した知識なしにできる芸当としてのある意味勝手な解釈のことです。
そうした貧困な読書から得られるものは、うすっぺらいものです。

リンクとは文章構造と既有知識の有機的あるいは流動的な結合のことです。

既有知識にはない単語に遭遇したばあい、文章とのリンクはうまく図れません
なぜなら、既知を通してしか未知には至れないからです。
そこで文章構造の大域的な「印象」を手がかりにするしかなくなるのです
NGNG
印象とはなにかについて説明します
実はこの話は、文を単位とする間違った思想に結びついています。
文は文章の単位ではありません。
文は単語に分解でき、それが文章の正当な単位なのです。
しかし、文を単位とする思想は広く受け入れられているように思います。
このせいで、文章構造とは文どうしの関係という発想が生まれてしまいます。
ある意味、文は文章の単位と言えなくもないです。
なぜなら、接続詞によってつながれるような文章の部品と見ることは有用だからです。
しかし、
そうした考えのせいで、文章を曖昧にしかとらえられなくなってしまうと思います。
こうした曖昧な解釈、曖昧なリンクのことを「印象」と呼んだわけです。
また文章を原子atomでとらえずに分子molculeで捉えてしまうようなアバウトさのことを
「大域的なリンク」と呼んだわけです
NGNG
読書とは既有知識と文章構造のダイナミックな結合プロセスです。
したがって、速読とはダイナミックな結合過程の高速化です。
速読は読者と書物とのめまぐるしい交通であり、リンクです。

大域的なリンクはアバウトさがありますが柔軟です。
文章とリンクしたかどうか、著者が言いたい内容が分かったかどうか
そういうことをはっきり実感することがありません。
したがって、これを高速化したところでさして違和感を感じないわけです。

これに対し、単語同士のリンクは頑固です。
つまり、なかなか単語レベルでの深い理解というのは難しいものです。
「〜とは何か」という問いはつねに難しいですよね。
「人生とは何か」「愛とは何か」「私とは何か」etc
こうした事態は抽象語だけではありません。
「正月とは何か」「”宮崎駿”とは何か」「ツイードコートとは何か」
具体語であっても難しいです。
単語レベルでの理解は常に難しい。
NGNG
と同時に、単語は文章の単位です。
少なくとも、文よりは文章の単位として正当な資格を持ちます。
だから単語にそって理解するのが「深い読み」のためには必須です。

単語の理解は難しい。単語の理解は必須だ。さあジレンマです。

多くの速読法というのはこのジレンマにまっこうから取り組むのを放棄しているように
思えてなりません。●●
NGNG
>>326 に照らし合わせて、従来の速読法を一言でまとめると

 速読→リンクされない      (1)

の因果関係はあるが

 リンクされない→速読できない  (2)

とはならないということですね。
(2)がないだけに気づきにくい問題です。
NGNG
なにか意見あれば下さい。素朴な感想ほど歓迎です。
今日はもうネットしませんが。
NGNG
言っていることがちぐはぐというか。。。理屈っぽすぎて
実践との結びつきがいまいち見えてこないのは気のせいですか。
NGNG
>>339
そんなにちぐはぐですか?
論旨は、新しい速読が必要だというものです。
新しい速読が存在する可能性を示唆する文章のつもりでした。

実践との結びつき見えてこないのは分かります。
方法を模索中ですから。
方法を模索するために議論するというパターンは大いにありうるでしょう。

それから私には見えているものがほかの人に見えていない可能性はおおいにありえます。
示唆というのはそういうものでしょう。
NGNG
実践的なことを言いましょうか。
目次読みです。
これはずっと前から私が主張してることです。
目次を読むのが最高の速読法なのは、単語レベルで理解するからです。
目次は本の中心的な単語ばかりで構成されています。
それらの単語の関係、単語の背後にあるもの、そういったものをつかむことが
速読につながります。

じつは実践的なことを言うの嫌いなんです。
というのも実践して効果なかったといわれるからです。必ずそういう人でてくるものです。
それに先日、私は、学習は勘だといいましたよね。
理屈ではないんです。学習は勘なんです。
実践的なことを言いますと、どうしてもうまく伝わらないんですね。
やはり精神を伝える必要があります。
「勘の使い方」といいますか。     
NGNG
引き続き実践的な話ですが。
おそらく目次読みが現実的な速読法だとお思いになれないかと思います。
それは、目次に書いてあることは「単語に過ぎない」からです。
こうした心配は無用だと思います。
目次に書かれていることが本の内容をほぼ物語っているからです。
本文にあることはみな枝葉だと思えばいいです。

話を現実的にするために、
文章の単位ということを数学的に定義できることをお話しましょう。
たとえば文書を文字列ととらえて、そこに現れる10文字以内のパターンのうち
繰り返し登場するものを単位と定義すればいいです。

しかしこの定義は正当とは思いません。
NGNG
なぜなら、重要単語というものはしばしば、著者によっていろいろ言い換えられるからです。
類義語の存在も考慮して重要語を定義する必要がでてきますね。
さらに、単語だけでなく文単位でいろいろ言い換えがなされているのが通常ですから、
文のうちどれが中心的なものなのか数学的に記述することは困難です。
ここに簡潔な数学的記述の限界が生じます。

つまり、文章の単位ということを明確なロジックで定義できはしないんです。
文章の単位は理屈で簡潔に説明できるものではありません。
ただ、ある程度のノウハウを言うことはできます。
(私がノウハウに長けているという意味でなく、誰もがこうした暗黙知を持っているという意味)
いわば勘の世界です。
「この通りにすればうまくいく」という簡単な話ではないんです。
その「この通り」というのが伝わらないとうまくいかないです。
NGNG
ですから、私はなかば「伝えること」諦めてるんです。
(暗黙知の共有化はグループでノウハウを共有できるような環境であれば達成されますが、
 掲示板でそういうことを行うのは無理でしょう)
そういうわけで理屈っぽくなるんです。
これは仕方ない事情じゃないかと思います。

たとえば、ピアノ教師が弾き方を教えるときに、
すぐダメだしをしたくなる気持ちが良く分かります。
弾き方というのは理屈を言ったところで伝わりません。
でも理屈言わないと始まらないじゃないですか。
すぐに実践を求められると困るのは当然です。
「技」とか「思想」とかは徐々に伝えられていくものです。
これは伝統芸能でもそうですし、広く社会を見てもそうです。
NGNG
ひどく精神的なこと言ってるように聞こえると思いますが、
そういう精神的な側面にこそ学習法の可能性があると思うんです。

ピアノは1日で弾けるようになりません。
人格は1日では変えることができません。
鍛えて技化(わざか)することが必要です。
たとえば、私は歩きながらメモをとるのに最近慣れてきました。
これもちょっとしたことですが、1週間ていどで慣れるようなものでもないでしょう。

まだメモの例はましです。誰でも続ければ身につく技ですから。
しかし人格はどうでしょう。
たとえば、他人とそっくりな人格を形成するにはどうすればいいんでしょう。
単に継続して努力しただけでは身につかない技と言うものがあります。
「どうすれば」の部分が不明瞭な場合がそれにあたります。
こういうとき必要なのは言葉でなく手本です。
NGNG
念を押しておきますけど、私が優れた技を持っているわけではないんです。
ただ、他人とは共有されていない技があるので伝えようとというだけのことで、
そういう技と言うのは誰もがもっているものだと思います。気づきにくいでしょうが。

速読の話に戻ります。
単語ベースの読書のための第二の施策は、ボールペンによるマーキングです。
よく本を読むときに「線を引く」という方法がおこなわれますが、
それは単位に対する意識を低下させるので勧められません。
(ほらね、さっそく精神的な話になるでしょう。)
一般的には、線を引くよりも単語にマルをつけたほうが理解が深まります。
文章の単位としての単語たち、それらのダイナミックな力動をみてとるには、
文単位で理解しようとするのはよくないです。
これは音楽作品をただ漫然と聞いていては感動が得られないのに似ています。
クラシックはとくにそうですが、声部、和音などをきっちり「分けて」聞く必要があります。
単位を意識しないとドラマが見えてこない。
NGNG
第三の施策は、脳内音読を避けることです。
脳内音読がなぜ悪いかというのを速読の本で読みますと、
たいてい脳内での音読というのは「遅いから」と書かれています。
私はこれだけが理由ではないと思います。
脳内音読は単語への意識を低下させます。
これが理解力を低下させ、速読をさまたげるのだと思います。

じつは脳内音読も工夫すれば害にならないと思ってます
私は試しに、重要語だけを意識的に拾って脳内音読することを続けました。
この際、読む箇所を何度でも戻ってもいいことにし、そうやって1冊の本を読みました。
そうするとかなり速く(通常の速読と同じくらいの速さ)読めました。
NGNG
これはなぜかと考えて出した結論が
「脳内音読自体が悪いというよりも棒読みするように線形的に音読することが悪い」
というものでした。
線形的に読むということは、視覚的な意識がその1次元の世界から脱出できませんから
立体的な単語どうしの関係を把握する妨げになると思います。

つまり脳内音読も工夫次第では害になりません。しかしこうした苦労を伴う小細工は
読書の楽しさを奪うばかりでなく、理解を妨げると思います。

結局、脳内音読を排除したほうがいいということになると思います。
NGNG
脳内音読を排除したときどうやって読書するかですが、
これといった決定的な手段を見つけてはいません。
ただ、うまくいったときというのは大体同じ感じです。
つまり、視覚的な意識が調整されていて、
「重要語だけが目にとまる」
んですね。
これはなぜかと考えました。
おそらく文章の全体構造を無意識的に解釈してて、それをもとに
重要語を算出してるのだと思います。
というのも、重要語というのは、構文的にだいたい出現場所が決まっているからです。
NGNG
だから従来の単語に意識をという考えから移行して、
構文にも意識をという考えになってきています。

読書というのは特殊な精神の使い方をする行為だと思います。
だからその特殊な性質=構文、線形性などに注意して読むことが大事だと思います。

構文のつかみ方ですが、
これはもう直感としかいいようがありません。
練習法としては、意味を読まずに構文だけ読み取るというのをたまにやったりしてますが
効果があるかは不明です。
するべきことは単にパターン認識ですから、
練習をつめば上達するはずですが、効率的な方法となると難しいと思います
NGNG
構文は重要語の発見速度の上昇という限りおいて重要です。
過度に構文を理解しようとすると読書スピードが落ちますし、
修飾語とか余計なものが目に付きますから理解が失われます。

基本は単語への意識集中です。
単語の集団にへばりつきます。だいたい同時に1〜5くらいの単語を意識します。
そして単語集団の間を「つなわたり」します。
つまり読み進めて構文の概略をつかんだら一瞬でまたどこかの単語に「退避」します。
単語からの意識の離脱は理解の低下を意味しますから、退避という言葉がぴったりです。●●
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