明治以降の日本の公教育のすぐれた点は、どんなに貧しい家
庭に生まれても、本人の才覚と努力で、優れた、しかも学費の
安い公立校に入ることによって、立身出世の道が開かれていた
ことだ。また一方では学歴はなくとも、仕事に励んで腕の良い
職人にでもなれば、親方として尊敬され、それなりの収入を得
られる道もあった。このような「機会の平等」こそが、わが国
の社会的理想であり、また活力の源泉でもあった。

 寺脇氏流の「結果の平等」思想は、貧しい家庭の子どもたち
の自己実現の機会を奪い、愚民として平等化することである。
それは国家の活力を奪うだけではなく、国民の平等という理想
をもねじまげるものだ。我々は本当にそのような階級差別社会
を望んでいるのであろか?