エピソード[ソースを編集]
中野浩一の世界自転車選手権10連覇はステート・アマと言われた東欧勢が参加できないことによるところが大きいといわれているが、
当時の自転車関係者の間では、中野の敵はもっと身近なところにいると言われたのが長であり、
仮に長がモントリオールオリンピック後に競輪界入りしていたならば、中野の連覇記録は10も行っていないだろうという声が一部にある。
参考までに、日本サイクルスポーツセンターで世界選手権に参戦する前の中野と5回程、スプリントで非公式対戦しているが、
全て長が勝っている
中野と同じく「ナガサワ」のフレームを使用していた。
長が辞退した競輪学校第41期には、後に中野、滝澤正光と並び競輪界の三強を形成することになる井上茂徳がいた。