昔の競輪場はこうだった!★2©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
>>604
公式だと思います。
JR川崎駅のでっかい階段を降りてロータリーの左側から出ていました。
切符みたいな紙に「310円」と刷ってあったような記憶があります。
タクシーの前に係のひとが立っていてチケットを売っていました。 >>605
今みたいな無料送迎バスはなかったの?人多いならそこに詰め込んだ方が良いと思うが。 バスが何台つらなってきても押し寄せる客の方が多くて乗り切れないから、
タクシーに流れる客は当然いた 2万人以上来てたので
無料バスに乗るのは大変でした。 タクシー相乗りの声の掛け合い懐かしいなあ
「兄さんどこまだい? おたくさんは?」ってなw タクシー相乗りの声の掛け合い懐かしいなあ
「兄さんどこまでだい? おたくさんは?」ってなw 買った客は白タクで悠々帰る
昔はどのレース場にも居たが、今では中央競馬にすらいない 弥彦だとさ
じいちゃんが話し掛けてきて
新潟市から来てる
なんて答えると帰り乗せてってよ
なんて言われるんだよ
だから、いいっすよ
でも寺泊で魚買ってから帰るから遅くなりますよ
ってやんわり断ってたわ そろそろその年代の人ももうすぐ死ぬから
今後の戒めとしてようやくパソコンやガラケー使えるうちに
(戦後の)昭和生まれの爺さんが書き込みしているんだよ 取手の駅前なんか競輪場行きの白タクの方が緑ナンバーより動いていた。
タクシー乗り場の前から乗せちゃうし近くに交番があるのにお構い無し。 玉野競輪すんで駅までの無料バス
坂降りて宇野駅まで行くけど大渋滞で前に進まない。
客「早よう行かんかい!船が出てしまうが!」
運ちゃん「車がつんどるから進んだら当たるがな」
客「当たったら銭取ったらええが!」
運ちゃん「そんなむちゃ言うても・・・」。
あと無料バスに乗り込む時みんな座ろうと並ばず我先にと一気に乗り込むので
そのどさくさまぎれに後ろポケット入れてた万札すられた。
乗る時に押しくらまんじゅうなりヤバいな・・・と思ってバスの中に入りすぐ後ろポケット確認したら空っぽ(大ショックだった)
帰りのフェリーにはレース帰りの富原忠夫が乗ってた(巨漢) 昔の競輪客、というより下層の日本人は順番を守るという概念はなかったな
戦後の闇市で時代が止まってた 昔の層は戦争を知ってて言葉悪いが何でもありの時代。今は70代でも戦争の記憶がない世代。風紀は段違いに良くなったと思う。 2車単・3連単になって、当たれば配当金は昔の枠複・枠単より良いが客や売上金は減っている!
宝くじは逆に配当金が高くなって売上金アップになっているのに 的中を狙う公営競技と天文学的確率の運任せの宝くじではそりゃ違うだろうよ >>619
パチンコ客が競輪と競馬に流れて来てるよ。
私の行く某サテライトは客が増えました。 >>573
改札から3分じゃ無理、律儀に信号待ちしてたら5分はかかる ただ何でも勝ちゃいいという競輪ではなかった
選手は練習もしたし競走では自分のやるべき仕事をしっかりやった
競りでも真っ向から行きその分の制裁はきっちり受けた
要するにどんな下位の競走でも競輪道があったんだ
今の競輪にはそれがない それはいくらなんでも美化しすぎだろ
忘れてるだけで当時は当時で別の不満があったはずだ 昔はオッズが発売締め切りのだいぶん前からTV消えて見れなかった。
その時に何故か払い戻し窓口の中のモニターTVには小さい字で映ってた。
それを見ようと本命大口勝負師が窓口の外から締切30秒前に持参した小型双眼鏡でいつも覗いてた。
吉岡より前の時代。滝澤フラワーラインの少し後の時代。 久留米など九州の競輪場は売上票数の表示もなかった。(枠しかない時代) 高松競輪場で観音寺競輪の場外売る時
TVで映像映らず
みんなスピーカーの前に半円状に集まり
実況中継に集中していた。 花月園競輪はノミ、コーチ屋撲滅を掲げ入場口にお巡り沢山いたが、鶴見、川崎の暴力団は素通りさせてたね〜
コジキが案内所の前でクソはしてるし笑えた時代だったね 西宮はおもしろかったな。
西宮球場のスタンドから競輪をみるという
なんとも不思議な感覚。 スリが入場しましたというアナウンスがよく流れた
常習犯でも現行犯じゃないと捕まえも締め出せもしないんだと 指定席入り口で手の甲にスタンプをおされた。
以後の通過は券でなく、スタンプの確認のみ。
よって指定席券はないけど、スタンプと同じ塗料を塗るダフ屋もいた。 締切5分前になると、モニターの表示がオッズじゃなく票数になってたのは、南関だけかな。
それでも、暗算の早い奴がいて、「1ー3は12.3倍、3ー1は16.9倍」とか即座に計算してた。
7桁÷6桁×0.75を1秒か2秒で暗算するんだから、凄いもんだ。
ソロバンじゃなく電卓しか使えない今の世代じゃ無理なはなし。 >>632
ありましたね〜。再入場の時は黒いカーテンで覆われた暗い場所で
手の甲に特殊なライト当てると日付けスタンプが浮き出て来るの(丸亀競艇指定席入口)
>>633
票数だけでも出してくれるのはかなり親切だね。関西中四国じゃなかったよ。 穴場の数や列の長さで推測したり、穴場のババアに聞いてみたり、今では考えられないような不便さだったな
十分おきくらいに紙で張り出したり、野球のスコアボードみたいな黒板のオッズ盤を備えた所もあった 黒板のオッズ、懐かしいな。立川に、昔の空港の出発便案内板みたいな、パタパタ変わるオッズ板ができた時はスゲーと思ったよww 消えた(つぶれた)予想紙もあるね。
川崎・花月だと「黒競」「ヒント」。 熊本の大阿蘇
コンドルほどではないがやたらと自己主張の激しい内容だった 今は専門紙予想の並びってほぼ100%間違いないが、昔はどうだったの?専門紙の並びじゃなかったこともあったのかな? フラワー時代は展示と並びが違うなんてしょっちゅうだ。それが酷すぎてフラワーラインは崩壊した
そもそも競りで並びを決めてた時代だし、予想紙とスポーツ紙の記者では権限がまるで違ったからな
予想紙はヤクザと繋がってたからあちこちで締め出されてた >>640
展示と本番が違う。それは嫌だなー。暴動が起きそうだが、今ほどラインを考慮した予想は重要視されていなかったってことか。
予想紙はやーさんと繋がってるいうことは、来なさそうな選手に本命打ってオッズ操作するとかなのかな? 展示ってww
競艇かよ。
あれは、今でも嘘だらけの酷い世界だよな。
競輪の地乗りも、昭和の頃は同じくらい酷いときがあったね。 競馬から競輪にギャンブルを変えたから
ラインの並び(競艇なら進入)などハナから信用してない。
半周で早いタイム出してるのに3番手に回るなどアホか?と思った。 競輪はラインの並びは今はほぼ専門誌どおりだから重要視するよ。残り1周切った時の展開予想はあてにならないから参考程度だが。 競輪もボートも選手は地乗りや展示では客にではなく
一緒に走る選手に作戦を隠し本番レースで勝負。
これが客に展示詐欺と言われる所以。
予想紙がヤクザと繋がってたと言うのは予想紙の権利がという意味。
場内にあるうどん屋や大衆食堂もそうだったと複数の長老に聞いた。 花月園・全日本選抜の決勝がひどかったわ。
松岡彰洋ー濱口高彰ー山田裕仁の並びだったのに
スタートしたら、山田ー松岡ー濱口。
スタンドは騒然となった。 >>647
まさに他の6選手に対する作戦隠しだったんじゃないかな。
ところで「フラワー時代は展示と並びが違うなんてしょっちゅうだ。それが酷すぎてフラワーラインは崩壊した 」の意味が分からん。
フラワーが仲間割れしたって事なん? >>648
最近の若い人はフラワーライン知らないんだよね。フラワーラインは、やりすぎて崩壊した。
新聞にもがんがん書かれてな。 >>647
山田の高速イン切りね
単騎の小橋を警戒してやったんだけど、ペース速すぎて松岡が持たなかったんだよなあ
松岡勝負してたからいまだに覚えてるわ 「フラワーラインは選手紹介と本番とで並びが違うことが良くあった。」
というより、その当時だとフラワーライン所属の選手が相手ラインを抑えて動きを封じ
フラワー本線が勝ちに行くという競走を普通に行なったり、
選手紹介と本番とで並びが違うと客は喚いてもおかまいなしだった。
その他レース自体、
先頭誘導員も微妙にペースが上げることもあったりした。
まぁ、「初心者が入って行きづらいレースを行なっていた時代」だった。
そこらへんが新聞で叩かれる要因になっていた。
もっとも中野が競輪祭やたらと勝っているけど、あれも準決勝で予選・準決勝で
フラワーラインが決勝にあまり出てこないように番組編成していたし
「公正なレースって、何だい」という時代だった。 フラワーラインの消滅に関しては、やはり選手の力の衰えと圧倒的な力を持っていた先行選手が
滝沢くらいだったし、坂本勉が出てきたり、吉岡・神山時代になるともう滝沢も並みの一流選手だったから
どうしようもなかったかと… お腹いっぱいのハチマキが、自衛隊の前でロケットやるみたいなたらい回しを、もっと露骨にやってたのがフラワー。 昔は脚見せなんてなかった。脚見せは滝沢の口切りから始まったみたいやね。 >>654
ボートやオートの展示タイム表示も最初はモーター、エンジンが故障していないかを
知るためにやっていたそうだし、
展示タイムも客には知らせていなかったし、今思うと不思議だな。 誘導のペースや退避タイミングも一定ではなかった
地元の選手のためにバカ逃げしたり、実にいい加減だったが、それだけにその手の読みが当たったときは嬉しかった マークシート登場前後で
本場の雰囲気がガラリと変わった。 >>649
フラワーライン知ってますよ。
清嶋のローリング先行とか。
中野井上九州ラインに対抗し山口兄弟などフラワーラインで「こないだはお前が逃げてG1獲らせてもらったから次はお前の番だ、タイトル獲れ」って
G1をいい意味でたらい回しにしてたんでしょ。清嶋は福井に移籍したがなにかの原因で仲間はずれにされたとの噂。 尾崎も自力はやっていたんだろうけど、あまり自力というイメージがないなぁ。
強い選手だと思うけど、まぁ、フラワーライン自体、その時でライン内の役割が変わるから
仕方がないのかもしれないけど…
清嶋は忘れてました。すみません。ただ、先行する距離は90年代と比べると違うかな… このスレ読んでると、昔の方が楽しかったなとしみじみ思う >>659
清嶋はその後、福井でも問題があって
弟子ともども沖縄に移籍しました。
それと昔の特別競輪決勝は誘導が2人いて
最終バックまで踏んでましたね。 弟子って「なみがた」かな。彼も色々問題ありましたね。
昔の話では車券が白いペラペラの薄い紙で
車番はブツブツの穴で
これは何番だと分かるようにしてた記憶があります。 小田原競輪場でたまたま居合わせた酔っぱらい爺さんと意気投合
ワンカップごちそうになりチビチビやりながら並んで観戦した。
後日判明したのだがその爺は藤沢秀行だった
30年前 (当時ワイ18歳)の思い出 >>666いいこと教えてやる。京王閣ならジャンボスタンドの上の方の穴場が比較的空いてる。
川崎や花月も、3コーナー裏あたりが空いてる。 >>665
それはかなり自慢していいレベル(ただし競輪や囲碁ファンにのみ)
やはり中国語でおまんこは何と言うのだ?と聞かれたのか?w あのデカイスタンドが客で埋まってたっての信じられないよな 昔より客もおとなしくなったから警備員も楽になったな 京王閣のジャンボスタンドから飛び降り自殺した奴もいたな
神山-小橋の外れ車券握って 昔は大勝負してるの居たけど
今やったらオッズ凄い下がってしまうよな >>673
間違えて結果発表して途中で訂正したやつだろ
二万円だか配って収めたと聞いた 大金握らせて収めるなんて、今の時代では信じられん。それだけ施行者も人多くて儲かっていたいうことか。
その時代は警察も結構いい加減だったのだろうな。 花月園が閉場したとは昭和期の大賑わいを知っている者からすると考えられない。 競艇だと天候不順で打ち切りで客が騒ぎ、金を握らせて帰ってもらったということは、平成一桁の頃はいくつかあった。 高知は雨が降ると危ないからという理由で顔見せが中止になってた 昔は平日に雨降ると職人が休みになって
売上増えるとかあったね 職人というより土方だよな。
早朝雨降って昼前に止むのが理想だった。 自営業も多かったし、平日でも売れる構造になってたんだよな 携帯が普及する前までは、
場内呼び出しで
よく京唄子様や吉幾三様が
呼び出されていた。 金握らせて治めたと言えば、松阪で誘導員がボイコットした時もだな あれも二万円だったな
今の年金爺は二万円も持ってこないだろうからそのへんも時代だな 昔は6日制特別競輪の決勝日は平日の火曜日が多かったって聞いたのだがほんと?
今の感覚では休日以外の決勝って順延でもない限り想像付かないのだが。 昔は普通の記念は前節3日間、後節3日間だった。
やる月も定着してて1月正月明けは和歌山、玉野。GWは高松。
G1も宮杯は梅雨時に琵琶湖。競輪際は福岡。決まってた。 >>688
483 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2018/01/14(日) 14:42:37.20 ID:n6m5gKL1
昔の電話投票は前日入金だったから、土日で残高ゼロになった連中に、月曜日入金させて火曜日の決勝買わせるための日程だった記憶がある。 ギャンブルホリデーで水曜日開催がなかった時代の名残のがでかいと思うぞ >>690
なるほどねえ。平日の火曜日決勝が多かったのは確かなんだ。
理由は想像も付かなかった。JRAと準決、決勝がダブらないように位かと思っていたが。 >>691
ギャンブルホリデーをもうちょっと詳しく知りたいな。 調べるとギャンブルホリデー説の方が有力だね。これが撤廃されて日曜祝日が決勝日になったと解釈していいのかな? ギャンブルホリデーの余波で競輪場周りの古い喫茶店や飲み屋は水曜休みの所が多い 今となれば特殊で経費がかかる西宮はともかく、甲子園は何とか存続できなかったのかな?岸和田よりも大阪や神戸から利便性が良いし、駅から歩ける距離やし、立地は非常に良かったのに。 ここがなくなって関西の競輪熱が一気になくなったよな
岸和田や向日町は遠すぎる
俺の周りでもたいていが競馬か競艇
競輪してるやつは皆無だわ
ゼロ 南関東の競馬場だとギャンブルホリデーの水曜日に重賞レースを持ってきて
他が開催しない時に客を集めていたんだな。
中部の専門紙(ひかり、中部競輪)の隅をみると、「日月火木金土発行」と印刷されてた。
(たまに水曜日に発行されると号外と記載) ダービートライヤル
特別や記念でもないのに強い選手が観れた思い出 昔関西でグランプリの開催が決まっていたのも甲子園だったんだよね。警備上の理由で返上したらしいが。その当時は少なくとも岸和田より甲子園の方が格上だったのだと推測される。
廃止の時も西宮だけという世論の空気であったが、甲子園も廃止と決まって悪い意味でサプライズだった記憶がある。 >>703
あれは良かった
得点で結果が読めたから実に儲かった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています