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【世界一の】鈴木桂治【足技】
0364名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/04/05(木) 17:00:02.77ID:pnpp8jNM
選手と指導者の間で一番大切なものは何か。私は「共通言語」だと思っている。指導者の言わんとするところを、選手がたちどころに理解する。
言葉の通い合う師弟関係は、互いにとって最高の幸せだろう。
打てば大きく響く素材との縁は、それゆえ大事にしたい。
国士舘高2年の斉藤立(たつる)はその一人。3年前に亡くなった五輪王者で私の恩師、斉藤仁先生の次男である。
16歳で190センチ、155キロと体の育ちはすでに十分。3月の全国高校選手権の団体戦では大将を務めている。決勝ではスケールの大きな投げ技で2度の一本勝ちを
収め、チームを優勝に導いた。ニュースでご存じの方も多いだろう。
体格にものを言わせていた中学時代から一皮むけ、投げ技に相手を仕留める厳しさが備わってきた。いずれは日本一、世界一−と指導者に欲を持たせてくれる異材だ。
斉藤先生がご壮健だった頃、小学生の立が国士舘大の道場で稽古していたのを思い出す。大学生を相手に泣きながら乱取りする息子の頭を、先生はスリッパでたたき、
歯を食いしばらせていた。当時現役だった私から見ても、相当に厳しい指導だったと思う。
驚かされたのは稽古後の親子である。一息つく先生に立は駆け寄り「お父ちゃん、スリッパはやめてえや」と、けろりとしている。頑丈な神経は先生譲りで、
切り替えが早かった。
先生が亡くなった後、立に1度だけ大外刈りと内股を教えたことがある。先生直伝の技にして私の十八番。彼ののみ込みは早く、多くの言葉はいらなかった。
先生の奥さまに後日うかがった話では、立が「鈴木先生はお父ちゃんと同じことを教えてくれた」と安堵(あんど)の顔で語っていたという。私の背骨を貫くのは、
先生からたたき込まれた教えだ。立にとって私から受けた指導は、「お父ちゃん」との間で通わせた共通言語に触れる思いがしたのだろう。
ただし、指導者の言葉を理解しても、自分の体の動きとして表現できなければ意味がない。高度な技術になるほど教える言葉は難解になる。ある程度、技量と理解力の
下地が整った選手でなければ「言葉の壁」を越えるのは難しい。
私が指導する100キロ級の飯田健太郎(国士舘大)との間には言葉の壁がない。立も、指導者との間で共通の言葉を育める選手だと思う。それだけの技量はすでに
備わっているし、「斉藤仁の息子」という周囲の期待を受け止める覚悟も彼の中に見える。
彼が国士舘大に進むのは2年後。今は、柔道以外の勉強にも時間を惜しまず、人としての基礎を固めてほしい。そのときが来れば、私は力を込めて斉藤立という鐘を
撞(つ)くつもりだ。どんな音を響かせてくれるのか、楽しみにしている。

【鈴木桂治 柔のすゝめ】選手と指導者をつなぐ「共通言語」
https://www.sankei.com/sports/news/180405/spo1804050011-n1.html
0365名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/04/18(水) 15:39:17.44ID:47CDRj20
県柔道連盟県西支部(池内広之会長)は15日、県西地区強化錬成会(毎日新聞水戸支局、県南部毎日会県西支部など後援)を結城市鹿窪のかなくぼ総合体育館で
開いた。旧石下町(現常総市)出身で2004年アテネ五輪100キロ超級金メダリストの鈴木桂治さん(37)が地元の小中学生に手ほどきした。
鈴木さんは実技を交えて丁寧に技術指導。子どもたちは元世界王者の説明に熱心に耳を傾けた。鈴木さんは「技の使い方がうまい子がたくさんいる。錬成会を通じて
県西地区が活気付いてきた」と感想を述べ「来年は茨城国体、その翌年には東京五輪が控え柔道界は盛り上がると思う。大会が成功するよう、協力していきたい」と話した。

県柔道連盟:結城で強化錬成会 メダリスト鈴木さん指導
http://mainichi.jp/articles/20180418/ddl/k08/050/086000c
0366名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/05/14(月) 18:23:54.75ID:XDaa4oWK
EXILE THE SECOND、柔道界初の応援ソング 井上康生監督「この恩は結果で」
https://www.oricon.co.jp/news/2111354/
0367名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/06/08(金) 20:40:48.24ID:lMtupkbU
小学生の頃から柔道とサッカーをやっていました。現役時代も友人と遊び程度でやったり、試合を見に行ったりと身近に感じていました。
中学生の時に(出身の)茨城に鹿島アントラーズができて、ジーコ選手の人間性が好きだったし応援していましたね。柔道は左利きですが、
足技で左右を同じように使えたのは、両足で蹴らなきゃいけないサッカーのおかげだと思います。
日本代表の試合はよく見ます。戦術なども詳しくは分かりませんが、もっと自覚を持ってもいい。日本代表って、どうしても慣れるんですよ。
柔道もそうですが、ずっといると代表合宿が当たり前になったりキツいと思ったり。僕も「また合宿だ」と思ってしまった時期もありました。
日本代表に選ばれるのは当たり前じゃない。後ろには何万人のサポーターがいる。どれだけ応援してくれる人がいるかを理解していくことは、
自分の力や後押しになるはずです。僕は五輪も世界選手権も、いろんな人が応援してくれてるんだと思って試合をしていたし、決して楽しもうとは思わなかった。
呼ばれることがすごいんじゃなくて、形として結果を残すことが日本代表ですから。
W杯を「楽しもう」「楽しみ」というのは逃げでしかないと思っている。本田選手や前回大会から出ている選手は特にプレッシャーが大きいと思いますが、
もがいてもがいて、悲壮感を漂わせて、死に物狂いで戦ってほしいですね。(談)

http://www.hochi.co.jp/soccer/worldcup/CO034053/20180607-OHT1T50274.html
0368名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/09/27(木) 11:30:20.99ID:C+UAYaZU
3歳のときに茨城県、常総市にある石下柔道部で柔道を始めました。兄がそこで先に柔道をやっており、夜遅い時間まで柔道の練習をしている兄に憧れていたことがきっかけ。
最初の内は、柔道がどのような競技かも分かっていませんでしたね。
道場の先生は接骨院も経営されていて、町では結構有名な先生。接骨院に来ている子供に手当たり次第「柔道をやらないか」と声をかけていて、多いときには100人
くらいの生徒がいました。
先生は、竹刀を持ってうろうろしているような、厳しくて恐い方だったのですが、柔道に対して熱心でもありました。実は、小学4・5年生くらいのときに交通事故に遭ってしまい、
柔道を辞めたいと思ったことがあったのですが、先生が直接私の家に来て「柔道を続けろ」と言って下さいました。当時はサッカーも習っていて、試合が重なった日なども
「サッカーじゃなくて柔道だ」と言って頂いて。恐らくあのときサッカーを選んでいたら、多分道がそれていたと思いますし、交通事故がきっかけで辞めてしまっていたら、
自分でもどんな大人になっていたか心配でしたね。
「上を食ってやる」という思い
高校時代は、全国高等学校総合体育大会(インターハイ)柔道競技大会男子100kg級個人の部・団体戦共に優勝。講道館杯では史上初の高校生王者になったり、
世界ジュニア柔道大会で優勝したりと、様々な大会で結果を残すことができました。
高校時代は、周りにたくさんの刺激があって、良い時代だったと思います。当時は、ジュニア世代が飛躍するということがあまりなくて、同級生である棟田康幸、
小野卓志、矢嵜雄大の4人で、下克上と言うか「上を食ってやろう」という話をよくしていました。
棟田は100kg超級、私は100kg級、矢嵜は90kg級、小野は81kg級と全部分かれていて、私や棟田は井上康生氏を倒す、小野は瀧本誠先輩を倒すなど上の人を
食ってやろうという思いを強く持っていたのです。合宿では必ず練習をして、他の3人の練習を見ては「お前はあのときああだったぞ、こうだったぞ」と話をしていましたね。
高校時代が一番「上を食って、俺達が目立ってやる」という気持ちで戦っていた時期で「強くなって一花咲かせてやる」と思っていました。
これからの日本柔道は、小川雄勢、原沢久喜、王子谷剛志などが引っ張っていくと思っています。他にも、斉藤立、中野寛太など、もっと若い選手達に
「上を食ってやろう」という思いを持って頑張ってもらって、王子谷や原沢、小川を脅かす存在になってもらいたいですね。そうすれば、上の選手にも火が付くでしょうし、
私も現役最後の方は王子谷が突き上げてきていました。下からそういった若手がどんどん出てきて、世代は交代していくのだと思います。
0369名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/09/27(木) 11:30:37.78ID:C+UAYaZU
井上康生氏に苦しんだ現役時代
現役時代は、井上康生氏に苦戦ばかりしていましたね。当時は「井上氏が正義で、自分は正義を倒す悪」という感じで、自分の中でストーリーを作って戦っていました。
井上氏のファンから見て、私は井上氏と同じ立場になることはできない。井上氏のファンを自分に持ってくることはできないですから。
今は何でも携帯電話で調べられますが、当時はまだ携帯が今のようには発達していなくて、どういう練習をしているのかなとイメージをしたり、噂で聞いたりするしか
できませんでした。例えば、井上氏が3、4時間練習しているらしい、ベンチプレスで180kg上げるらしいという話を聞いて「井上康生」という像のイメージを膨らましていました。
井上氏はどんなことをやっているのだろうということをイメージして、そのイメージが自分の中でどんどん大きくなっていましたね。当時は「この人さえいなければ」と思った
こともありましたが、もし井上氏がいなかったら、そういった想像はできなかったし、強くもなれなかったと思います。井上氏という存在が、壁でもあり、道しるべのような存在。
常に斜め上にいる存在で、私はそれを追いかける立場でした。
試合に負けて「もう勝てないかな、もう代表にはなれないのかな」という思いになることももちろんありました。そういうときは、柔道をやっていない友達とサーフィン
をしたりご飯を食べたりして、0(ゼロ)の状態を作っていました。この100と0のバランスがすごく良かったのだと思います。
2004年のアテネ五輪(柔道)では、100kg超級で優勝することができたのですが、実は私にとっては悔しい五輪でした。100kg級で五輪代表選考会に出たのですが、負けて
100kg級の代表は井上氏に決まってしまったのです。そこで私はもう五輪はなくなったと思っていました。
しかし、100kg超級に出るという可能性が出てきたのです。今は、五輪に出場するのには階級別ランキングで22位以内などというきまりがあるのですが、当時はそういった
条件がありませんでした。100kg超級には棟田氏もいましたが、棟田氏も選抜は初戦で負けているので、全日本選手権で優勝したら100kg超級の代表は鈴木に
なるかもしれない、という話が出てきたのです。
そして、全日本選手権で井上氏に勝って優勝して、100kg超級に出場することになりました。全日本選手権というのは、夢のまた夢の舞台で、そこに立って
優勝できたことは、いろいろな人への恩返しになったと思っています。
アテネ五輪で優勝してからは、やはり世間の目に触れる機会が多くなりましたね。「鈴木だ、鈴木だ」と言われることも増えました。TwitterやInstagramが当時なかったのが
幸いです。もしもそういったものが当時あったら、私は壊れていたかもしれません。
2008年の北京五輪(柔道)では、日本選手団の主将も務めましたが、初戦敗退となってしまいました。負けた原因は、今でもいまいち分かりません。練習も
合宿もしっかりしていましたから。悔しくて日本に帰りたくないと思いましたし、選手団の主将としていろいろな試合を見に行くのですが「こんなやつが来ても激励にも
ならないだろ」と思っていましたね。逆に気を使わせてしまうのではないか、などと苦しみました。アテネ五輪で結果を残しているので期待はされていましたし、
主将となったことも、プレッシャーになってはいたと思います。
0370名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/09/27(木) 11:31:01.09ID:C+UAYaZU
指導者になって
現役を引退して6年ほど経ちますが、現在は国士舘大学柔道部の監督、全日本柔道連盟の100kg級、100kg超級の担当コーチとして活動しています。
国士舘には中学からいて、実家より長い生活です。国士舘で育ったようなものなので、国士舘に対するプライドを持っています。柔道に関してだけでなく、いろんな分野で
国士舘が不甲斐なければ悔しいですし、褒められれば嬉しいです。国士舘は立派だな、すごいな、と言ってもらえるように、教員・職員で国士舘を盛り上げていきたいと思っています。
指導者になって思うのは、やはり教えるのは難しいということですね。大学と全日本では指導する内容が異なります。全日本は強い選手や「日本一」を目指す意識が高い選手が
集まっていますよね。大学の方が細かいことを指導しなくてはいけなくて、ルールも作らなくてはいけない。およそ100名いる生徒に対して同じことを教えなくてはいけないのです。100名を
同じ量で同じルールの中で指導するということは、とても難しいことです。「日本一」という目標に引っ張っていくというのはさらに大変ですね。
目標とする指導者は、いません。大学時代、斉藤仁先生にすごく厳しく指導して頂きましたが、それと同じことをやってみろと言われても、それはできません。やはり、
私は斎藤先生の精神にはなれませんし、真似はできても、同じことはできないのです。真似は、所詮真似なので、誰かのような指導者になりたいという思いは
あまりないですね。自分で得た知識や経験をまとめて、良いものを出していくことが、私が指導者として一番心掛けていることです。
もちろん、立派な指導者はたくさんいらっしゃるので「ああなりたいな」という思いはありますが「いやなれないだろうな」としか思わないですよね。やはり、真似事
では指導者というのは上手くいかないと思いますので、自分で指導者としての実力を付けることしか道はないと思っています。
選手や柔道を始めたばかりの人へメッセージ
東京五輪(柔道)まであと2年。出場を目指す選手は、これからすごく厳しい戦いになると思います。私が代表になった経緯もそうですが、意外な所にチャンスが
転がっていたり、意外な所でチャンスが前に現れたりします。
これはあくまで私の意見ですが、試合を楽しむ・柔道を楽しむという必要は一切ない。命がけで取り組んで、本気になることで、実力が伴って周りから評価され、
五輪にも選ばれることに繋がると思うのです。すべてに対して本気になるということで、そういったチャンスが巡ってくると思いますので、本気で柔道に取り組んで
欲しいと思います。
柔道を始めたばかりの人に大切なのは、辞めないことですね。私は3歳に始めて以来35年間柔道をやっていますが、まだまだ学ぶことがたくさんあります。
柔道を辞めないで、柔道から離れないで、どんな形でも良いので柔道に携わって下さい。週1回でも、月に何回かでも良いので、柔道着を着て畳の上に上がって下さい。
柔道から離れるということはとても簡単なことですが、一度柔道を始めたならば、とことん続けて欲しいと思います。
また、大学で学生によく言うことなのですが、柔道は馬鹿では勝てません。ただただ柔道のことを考えてという「柔道馬鹿」は、やはり勝てない。強くなることと、
勝つことは別物だと私は思います。強くなることができたら試合で勝てるのかと言うと、そうではない。練習では強いのに、試合では勝てないという選手はたくさんいます
。頭を使って、工夫をすること、よく考えて柔道に取り組むということが大切なのです。ただ練習をしたり、トレーニングをしたりするだけでは力は付きません。
よく考えて柔道をするということを、心掛けて欲しいと思います。

鈴木桂治 著名な柔道家インタビュー
http://www.judo-ch.jp/interview/suzuki/
0372名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/12/06(木) 15:27:18.27ID:x4GTFqlu
全日本柔道連盟(全柔連)から誤審が認められた審判員が処分を受けた問題で、当該の試合で敗れた国士舘大の鈴木桂治監督は5日「悔しさは変わりない。
こういうミスは決してあってはならない」と胸中を吐露した。
誤審が起きた日体大との準決勝は2−2の末に代表戦で惜敗。教え子が抑え込んだ中堅戦で審判員が正確な判定を下していれば、国士舘大の勝利が濃厚だった。
それだけに「技術を認めてもらえなかった学生は、やり直せない」と、やるせなさをにじませた。
ただ全柔連が誤審に対する罰則を検討するなど対応に動きだした点は評価。鈴木監督は「そうしたきっかけができたことを良しとする」と複雑な思いを受け止めた。

柔道の誤審問題、敗れた国士舘大・鈴木監督「学生はやり直せない」
https://www.sanspo.com/sports/news/20181205/jud18120519300002-n1.html
0374名無しさん@お腹いっぱい。垢版2019/03/08(金) 09:14:45.36ID:CF7xNnYy
アテネ五輪男子柔道100kg超級金メダリストの鈴木桂治さんを講師に招いた三浦市柔道教室が、今月2日に潮風アリーナで開かれた。参加した約30人の市内
小中学生に対し、技のスピードやタイミング、体重移動などを丁寧に指導した鈴木さん。ときおり効果的な技の掛け方の見本を示すと、子どもたちは真剣な表情で見入っていた。
練習後の質疑応答では身体づくりや試合前の験担ぎのほか、「一番嬉しかった試合は」との質問があがり、当時柔道界の絶対的エースで、ライバルでもあった井上康生さんとの
一戦を振り返り、「大学1年のとき、(井上さんに)初めて勝てた試合が嬉しかった」と話した。
鈴木さんは五輪、世界柔道選手権、全日本柔道選手権の3大会を制覇した「柔道三冠」を達成。同3日開催の三浦国際市民マラソンのスペシャルゲストとして来場した。

メダリストに学ぶ心技体 鈴木桂治さんが柔道直伝 | 三浦
https://www.townnews.co.jp/0502/2019/03/08/472934.html
0375名無しさん@お腹いっぱい。垢版2019/05/25(土) 13:50:08.75ID:oLNvZ4az
04年アテネオリンピック(五輪)柔道男子100キロ超級金メダルで男子日本代表重量級コーチの鈴木桂治氏(38)が、全日本実業団体対抗(6月8〜9日、群馬・高崎アリーナ)に
出場することが24日、分かった。男子3部の国士舘大柔道クラブから出場し、7年ぶりの現役復帰となる。
関係者によると、4月ごろから実戦復帰に向け、本格的なトレーニングを始めた。全日本コーチと国士舘大男子柔道部監督を兼任する多忙の中、肉体改造にも励んでいるという。
現役時代は、長い手足を生かした小外刈りや大外刈りなどの足技を武器とした。男子日本代表の井上康生監督(41)の最大のライバルとして切磋琢磨(せっさたくま)した。
100キロ超級で制したアテネ五輪の他、100キロ級と無差別で世界選手権を制覇し、前人未到の3階級制覇を達成。12年ロンドン五輪代表を逃し、同7月に現役引退した。
13年の全日本実業団体対抗では、92年バルセロナ五輪男子78キロ級金メダルで強豪パーク24の総監督を務める吉田秀彦氏(49)が、男子3部で11年ぶりに実戦復帰した。
スター不在の柔道界を盛り上げるために一役買った。決勝までの6試合で5勝1分けと活躍し、準優勝に貢献した。
鈴木氏も同じように柔道界のカンフル剤となり、さらに、不調が続く担当の最重量級選手たちに向けて、本気の柔道を披露することで活を入れる考えがあるのかもしれない。
東京五輪まであと1年2カ月。38歳の五輪金メダリストが、強烈なメッセージを送る。

鈴木桂治氏が現役復帰へ 04年アテネ五輪で金 - 柔道
https://www.nikkansports.com/sports/news/201905250000057.html
0378名無しさん@お腹いっぱい。垢版2019/06/08(土) 21:11:08.29ID:KdRA8VVm
2004年アテネ五輪柔道男子100キロ超級金メダリストの鈴木桂治氏(39)が7年ぶりに試合畳に上がった。男子3部で、母校・国士舘大OBで構成する国士舘大
柔道クラブの次鋒として出場し、6試合を4勝2引き分けでチームを優勝に導いた。
鈴木氏は12年に一線を退き、国士舘大の監督に就任。男子日本代表の重量級コーチも務めている。今回、大学の後輩らに誘われる形で出場を決意したというが、
普段は指導がメインのため、自身は大会前に乱取りを5本しただけだった。「練習を全くやってない。ほぼゼロ」と明かし、「どこまでやれるか不安だったし、
柔道をなめてるんじゃないかと葛藤があった」と迷いも生じていたことを打ち明けた。
1月に手術した右膝はテーピングで固め、痛み止めを飲んで臨んだ。久々の真剣勝負の前には体が震えたというが、それでも畳に上がれば五輪金メダリストの
地力を見せつけた。初戦は開始32秒、巻き込むような払い腰で一本を奪うと、2回戦は崩れ横四方固めで抑え込み、3回戦は切れ味鋭い払い腰、準々決勝は
大外刈りで次々と一本勝ち。準決勝、決勝は引き分けに終わったが、チームの勝利に貢献し「出るからには優勝したいと思っていた」と安どの笑みを浮かべた。
12年以降も「引退宣言はしていない」と強調したが、「ここで引退します」とあっさり宣言。今後の大会出場の可能性は「もうないですね」と笑いながら否定した。
現時点で“生涯最後”となったこの試合を「100点でいいんじゃないですか。自分が今できる全てをやった」と振り返り、「100点で引退します。いい経験を
させてもらいました」と晴れ晴れしく語った。

アテネ金・鈴木桂治氏 7年ぶり復帰戦で団体V「100点で引退します」
https://www.daily.co.jp/general/2019/06/08/0012408741.shtml

男子3部で2004年アテネ五輪100キロ超級王者の鈴木桂治・男子日本代表重量級コーチ(39)を擁する国士舘大クラブが初優勝を果たした。鈴木コーチが公式戦に
出場したのは、2012年秋の岐阜国体以来、7年ぶり。個人成績は1〜4回戦が全て一本勝ち、準決勝、決勝の2試合は引き分けで、優秀選手賞も授与された。
表彰式を終えた鈴木コーチは下衣を脱ぎ、右膝をがちがちに固めていたテーピングをはがした。1月7日に手術を受け、この日も痛み止めを飲んで試合に臨んだほど。
しかも代表コーチ、国士舘大監督として多忙を極めるため、練習は「本当にやっていない。ほぼゼロ。0・5くらい。先々週、2日間で立ち技(の乱取りを)5本やったくらい」。
それでも畳の上に立てば闘争本能がよみがえる。代名詞だった足技もさえ、4回戦は大外刈りで一本。「今の精一杯はやったので100点。今、これが僕のできる全て。
いい経験をさせていただきました」と晴れやかな表情で振り返った。
当初は今回の出場に葛藤もあったという。国士舘大時代の後輩や教え子から誘われたものの、現在は指導者の立場。3部とはいえ、真剣に五輪や世界選手権
を目指す選手たちにまじり、ろくに稽古を積んでいない自分が出ていいものなのか。「後ろめたさも少しあった。柔道をなめていると思われるな、と思った」。
実際、練習不足がたたり、3、4試合目で脱水症状気味に。「頭がボーッとした。やっぱり柔道をなめていました」と話したが、応援に駆け付けた現役の教え子たちに、
戦う姿を見せつけた。
2012年のロンドン五輪代表を逃して第一線を退いた後も、団体戦などへの出場に含みを持たせていた鈴木コーチ。「引退宣言はしていないと記事を書いて
いただいたことはありますけど、もう引退します。もうないです」と宣言した。今回の“復帰”が大きく報じられたこともあり、「そういう意味(話題性)では良かった。
宣伝部長に少しでもなれたらいい」とお家芸の人気拡大に一役買い、肩の荷を下ろした。

葛藤抱えながらの復帰戦 鈴木桂治氏「もうないです」 柔道全日本実業団体対抗大会
https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2019/06/08/kiji/20190608s00006000423000c.html
0379名無しさん@お腹いっぱい。垢版2019/06/08(土) 23:30:59.71ID:KdRA8VVm
五輪金メダリストが「勝負の厳しさ」を伝えた。04年アテネ五輪(オリンピック)柔道男子100キロ超級金メダルの鈴木桂治氏(39)が、1日限定で7年ぶりに
実戦復帰した。
母校の国士舘大OBで構成する国士舘大柔道クラブの次鋒として畳に上がった。初戦から長い手足を生かした足技と多彩な組み手で相手を圧倒し、
準々決勝までの4試合をオール一本勝ち。準決勝と決勝は、1月に手術した右膝の影響などもあり、引き分けに終わったが、全6試合を4勝2引き分けで
優勝に大きく貢献した。「優勝という形で終われて良かったが、練習はほぼゼロだったため、不安しかなく、『柔道をなめているんじゃないか』という葛藤もあった」。
鈴木氏は、こう複雑な胸中を打ち明けた。
今春、大学の後輩に誘われて出場を決意した。理由は開催地が地方ではなく、関東で行われるためだった。しかし、国士舘大男子柔道部監督と男子日本代
表重量級コーチを兼務するため、常に選手たちの指導が最優先だった。稽古後の居残りウエートトレーニングと食生活の改善で肉体改造し、実戦的な乱取り
稽古は大会直前に5本行っただけだった。
「現役選手からすれば、もしかしたら(自分の復帰は)面白くないかもしれない。今日も練習を違うコーチに任せているし、練習をしていない自分がどこまで試合
に出て良いのか最後まで悩んだ。今朝も5時30分に起きるし、畳に上がるまで体がめちゃくちゃ体が震えた。ただ、現役時代は(試合で)『けがをしないように』と
言われたが、今日は『けがをしても良いから勝ちたい』と思った」
最後は意地だった。右膝はテーピングで固め、試合前には痛み止めを飲んで臨んだ。当初の予定では、2?3試合で交代するはずだったが、体が悲鳴を上げる
中でもフル出場した。観客席の最前列では愛娘の長女楓子ちゃん(かこ、3)と次女の琴子ちゃん(1)が「パパー」と何度も大声で声援を送った。教え子で
18年アジア大会男子100キロ級金メダルの飯田健太郎(21)らも自主的に応援に駆けつけ、「監督ー」と声を張った。「これが団体戦。ムードも雰囲気も良く、
自分の気持ちも奮い立った。応援してくれたみんなに感謝だし、終わってみると、大会に出て良かった」。
ロンドン五輪代表を逃した12年に第一線を退いてから引退宣言はしていないが、7年ぶりに実戦復帰して改めて勝負の厳しさを痛感した。「(柔道の試合は)
楽しいものではなく、苦しいもの。そんな中でも自分の今ある力を精いっぱい出せたし、100点だったこの日で引退する」。20年東京五輪まで残り1年2カ月?。
39歳の五輪金メダリストが、生涯最後の試合で勝負師としての執念を背中で示した。

04年金の鈴木桂治氏「引退する」満点復帰V貢献も - 柔道
https://www.nikkansports.com/sports/news/201906080001134.html
0380名無しさん@お腹いっぱい。垢版2019/06/17(月) 11:22:56.37ID:PQCD6aJK
先日行なわれた全日本実業団体対抗大会は、いつもとは異なる側面で注目を集めた。男子第3部に出場した国士舘大柔道クラブの一員として、鈴木桂治が参加したからだ。
実に約7年ぶりの公式戦出場であったし、鈴木のかつての存在感もあいまって、脚光を浴びることになった。
肝心の結果はと言うと、初戦から決勝まで6試合を戦い、4勝2分け。チームの優勝に大きく寄与したこともあいまって、鮮烈な印象を残した。
五輪金メダルなど一時代を担った。
鈴木は、まぎれもなく、一時代を担った柔道家であった。
もともと100kg級だった鈴木は、 2004年のアテネ五輪で100kg超級に階級を上げて出場し金メダル。世界選手権では2度の金メダルに輝いた。2003年の大会では無差別級で、
2005年には100kg級での優勝で、オリンピックと世界選手権を合わせて、男子では初めて3階級を制覇した選手でもある。
さらに、全日本選手権でも4度の優勝を果たしている。最後の優勝は30歳のとき。息長く、第一線で活躍した柔道家でもあり、100kg級では井上康生のライバルとして、
何度も好勝負を見せた。
鈴木がその立ち位置から退いたのは2012年のこと。ロンドン五輪出場の可能性が潰えると、7月に母校の国士舘大学柔道部監督への就任とともに、国際大会から退くと
発表したのである。
指導者としての人生を歩み始めたその4カ月後、日本代表のコーチに就任し、100kg級、100kg超級を担当。井上日本代表監督とともに、課題となっていた重量級の再建を
担う立場となった。
「出場できる大会には出場したい」
2014年の世界選手権では、選手たちのあまりのふがいなさに、100kg級でのエントリーを見送るなど厳しさをもって指導に臨んだ。その甲斐あってか、リオデジャネイロ五輪
では100kg級銅メダル(羽賀龍之介)、100kg超級銀メダル(原沢久喜)と、成果を残すに至った。
国士舘大学での指導とあわせ、指導者としての充実も見せていたから、鈴木は引退した選手と捉えられる面もあった。
ただ、実は鈴木自身は引退とは語ってこなかった。「出場できる大会には出場したい」という意向を示していたのだ。
柔道では、「生涯、柔道家」「一生現役」という姿勢を見せる選手は、まれではない。そこには「柔道は一生続けることができるもの」という思いも込められている。
それも含めて、選手たちがそう意識し、言葉にするのは柔道の特性かもしれない。
ときにそれが長いブランクを経ての復帰という形をとることもあった。2013年の全日本実業団体対抗では、1992年バルセロナ五輪78kg級金メダルの吉田秀彦が、
約11年ぶりに復帰を果たしている。
生涯柔道家という思いがあるから。
鈴木が引退とは言わずにきたのには、おそらく生涯柔道家という思いがあったのだろう。以前には「やり始めたらとことん続けることが大切だと思っています」とも語っており、
言葉にその思いを込めている。
第一線から退いても引退ではない、それが今回、形となったのは、後輩たちからの誘いがきっかけだ。団体戦だったら出てみても……という思いがふつふつと湧いた。
新春に行った膝の手術や、指導者としての時間から練習には大幅な制限があったという。その中で可能な限りの準備をして迎えた大会を終えて、鈴木は今できることを
すべてやったからこそ、「100点」と評価した。
また、今後は大会に出ることはないともしている。明確な引退宣言となったのは、やりきったという思いからだろう。
競技に打ち込む根本は自分のため。
大会に出場すると報じられたあと、その真意を推し量る筋もあった。どこを目指しての復帰なのか、どういう目的なのか、復帰しても、国際大会を目指す位置には
たどりつけないだろう……。
でも、選手が競技に打ち込むのは、根本は自分のためにほかならない。どこを目指すか、何を体現したいかもまた、個に拠る。大会に戻りたいという思いもそれぞれの
理由があって当然のことだ。
鈴木の7年ぶりの公式戦出場は、心からの楽しみな気持ちとともに、そんなことを想起させもした。

鈴木桂治、7年ぶり復活のち引退。 生涯柔道家として「100点」の戦い。
https://number.bunshun.jp/articles/-/839703
0382名無しさん@お腹いっぱい。垢版2019/06/24(月) 06:52:16.66ID:cg6zvKhP
百戦錬磨の柔道・金メダリスト鈴木桂治さんが、歌舞伎町の裏社会を描いたマンガ『新宿スワン』に見た魅力とは
https://book.asahi.com/article/12472824
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